第六章  分かたれた二つの世界




 待ち合わせの大きなヒマラヤスギの下で、ペルが座っていた。
 ハロウィンのジャックの姿みたいだといって、ペルが好きな木だった。
 スイレイに気付いたペルが手を振る。
 ペルに手を振り返しながら、スイレイがゆっくりと歩いていった。
 ペルは自分から走りよったらいいものか、それともここでじっと待っていようか迷っている微妙な動
きを繰り返しながら、それでも嬉しそうにスイレイの顔を見ていた。
「今日はいつもとイメージ違うじゃん」
 少し離れたところで服を指さして言えば、ペルが短いスカートの裾を気にしながら顔を赤らめる。
「……変?」
「ううん。全然。すっごいかわいい」
 そう言いつつ、ペルに歩み寄るとギュッと抱きしめた。
 ペルもスイレイの背中に手を回すと、その胸に頭を預けた。
「スイレイ、お帰り」
「……うん。ただいま」
 言いながら、スイレイはペルの髪を撫でた。
 いつもは嬉しくて仕方がなかった、ペルの「お帰り」の言葉。
 なんだか新婚の夫が仕事から帰ってきて妻に迎えられるようで、くすぐったい心地がしたのだ。
 だがペルにとって、お帰りは違う意味を持っていたのだ。
 そのことを思うと、いつものように安易に喜んでいることはできなかった。
「スイレイ?」
 黙って考え込んだスイレイに、顔を見上げたペルが問う。
 スイレイはその顔に笑顔を向けると、キスするために顔を近づけた。
 ペルが目を閉じる。
 だが唇と唇の距離が数ミリのところでスイレイが言った。
「ペル、いつになったら帰るの?」
 ペルが目を見開く。
 あまりに近い距離にあるスイレイの目に、ペルは嘘をつくことができずに目を泳がせる。
 スイレイの目が切なく笑う。
「別に怒ってるわけじゃないんだ。だけど、このままでいるわけにもいかないだろ」
 ペルはスイレイの目を見ていることができずに俯いた。
「相談したいんだ。ペルの気持ちも聞きたい。……それから、正直に言えば、もっとぼくに頼って欲し
い」
 苦笑の混じったその声に、ペルはスイレイの顔を見上げた。
「それとも頼りないかな、ぼくは?」
「そんなことない! わたしはいつだってスイレイだけが頼りで」
 ペルはスイレイのシャツの胸を掴むと、必死に訴えるように言う。
 スイレイはそんなペルをもう一度抱き寄せると、額にキスした。
「……どうして分かったの?」
「ローズマリーがね」
 掛かってきた電話を思い返しながら、スイレイは思わず笑い声を上げた。
 あんなに怒っているローズマリーの声を聞いたのは初めてだった。
『ペルを迎えに行ったまま、何日わたしを待たせれば気が済むの! ペルはアラスカにでも行っていて
追いつけませんとでも言うわけ?』
 最初は言われている意味が分からずに、ただ電話口から漏れる声を顔をしかめて聞いているしかなか
った。
『わかっているの? このままペルが目を覚まさなければ、死ぬことになるのよ。それを黙って見てい
ろって言うの?』
 そこで初めてローズマリーの言いたいことがわかり、スイレイは口を開けたまま二の句が継げずにい
た。
『目を覚ましていない? そんな……』
『……』
 スイレイの言葉に、ローズマリーも成り行きを感じ取ったのか雑言を止めて沈黙した。
『〈エデン〉でペルと話し合いは済んだわけ?』
『……一週間も前に』
『……それは、あなたが勝手にペルが納得したって思っているだけじゃなくて?』
 ローズマリーの言葉は容赦なかった。
 だがスイレイには、そんなことはありえないと確信があった。
『いえ、ペルが帰ってこない理由は、ぼくとの破局が原因ではありえない』
『へえ。そう』
 含みのある言い方で返事を返すローズマリーに、スイレイが眉をしかめた。
『今ペルは?』 
『知り合いの病院に入院させてあるわ。今のところは点滴でもっているけれど……』
 ローズマリーにとって、ペルとは本当に何なのだろう。
 スイレイはそう感じずにはいられないローズマリーの対応に苦慮しながら、電話口に向かって言った。
『今まで連絡を怠っていてすいませんでした。これからその病院の方へ行ってみたいのですが』
『そう。じゃあ、案内するから研究所まで来て』
 そこで一方的に予告もなく切られた電話が、なんともローズマリーらしかった。
 事の成り行きを聞いたペルが、スイレイに「ごめんね」と呟く。
「どうして?」
「だって、わたしのせいでお母さんにスイレイが怒鳴られて」
「今さら、どうってことないって。ローズマリーの嫌味なんて散々聞いてきたし」
 そこで二人は顔を見合わせて苦笑を漏らした。
 ローズマリー、イコール、嫌味の洪水
 こんな図式が共通で出来上がっていることがおかしかった。
「病院に行ったの?」
「うん。今、こうして元気なペルを抱きしめていないと思い出したくないくらい、やつれた姿だったよ。
息はしていても、まるで生きている感触がなくて」
「……そっか」
 ペルはスイレイの腕の中から起き上がると、自らスイレイの手を引いて歩き始めた。
「今ここにいるわたしはすごく元気だから、現実の体にそんなことが起こっているなんて実感が持てな
いや」
 振り向いてから「無責任でごめん」とペルが笑う。
 一緒に手をつないで歩く〈エデン〉の風景はどこまでも穏やかだった。
 空は真っ青に染まり、その上に浮く雲は真っ白な綿のようにふんわりとしていて、鮮やかなコントラ
ストを描いていた。
「見て、あの雲ふんわりしていておいしそう」
「おいしそう? そうか? ぼくにはそうだな……飛行機の形に見えるかな?」
「わたしには綿飴に見える」
 急に幸せそうな顔でそんな話をはじめたペルの背中を見つめながら、スイレイがついていく。
「あのね、今イサドラとやっていることがあるんだ」
「イサドラと?」
「うん。そこまで案内したいんだ」
 ペルは元気よく振り向くと、スイレイの腕を取った。
「今はそれが楽しくて仕方ないんだ」



 一面の綿花の花を目の前にして、スイレイが顔を綻ばせた。
「これは見事だな」
「でしょ?」
 綿花畑の向こうでは、イサドラが先ほどペルに手渡されたカゴの中の綿花から種を抜いてより分けて
いるところだった。
「イサドラ、何の作業中?」
 スイレイが声を掛ければ、真剣な顔で作業を続けたまま答える。
「綿花から糸を紡いで木綿の布を作るんだって」
「作るんだって?」
「そう、わたしが作りたいんだ」
 横から顔を覗かせたペルが笑顔で言うと、綿花の一つを手に取った。
「ほら、柔らかい感触が気持ちがいいでしょ。これで作りたいんだ」
 ポンポンと白い綿を頬に押しつけられながら、スイレイはじっと何かを言い出そうとしている雰囲気
のペルの顔を見つめた。
「何を作るの?」
 ペルはイサドラの横に座り込んで綿花の中に手を入れると、その感触を楽しむように微笑んだ。
「赤ちゃんの服、おむつ、お布団、それから……」
 指折り数えて言うペルの顔をスイレイが凝視した。
「赤ちゃん?」
 宙に向けられていたペルの目がスイレイの目と合う。
 そこで真顔になったペルが、綿の中から手を抜くと言った。
「……赤ちゃんが、できた」
「……え?」
 スイレイの顔が惚けたように口を開けたままペルを見つめていた。
 その目が次第に座ったペルの腹に向く。
「そのお腹の中に?」
「うん。……ね」
 隣りで黙々と作業するイサドラが、ペルの「ね」に頷く。
「ペルがこの前気持ち悪いっていうから調べたらね、まだ2ヶ月未満だけど、お腹の中に赤ちゃんがい
るよ」
 イサドラの淡々とした口調に、まだ現実とは思えない心地のままスイレイが呟く。
「ぼくとペルの?」
 たった一夜の出来事で、しかもこの〈エデン〉で妊娠なんてことが起こるとはスイレイも予想外だっ
た。
「だから、ジャック・アウトできなかったの」
 ペルの呟きに、スイレイが頷いた。
 ペルがジャック・アウトしてしまえば、新たに宿った命は直ちに消滅する。
 ペルと自分が確かに愛し合った証の命が。
 だがだからといって、簡単に受け入れられることではなかった。
 じっと自分を見つめてくるペルに、スイレイが小さく笑みを浮かべた。
「……素直に喜んで上げられなくてごめんね。心配事の方が先に立っちゃって」
「ううん。急に言われても面食らうだけだよね」
 スイレイの困った顔に、ペルが慌てて首を振る。
 スイレイはペルの隣りに座り込んで同じように綿花の中に手を入れて、感触を楽しむように弄ぶ。
「真っ白なお包みに赤ちゃん。それを抱いているペルと、横から見つめるぼく。広げた両腕で二人を一
緒にそっと抱きしめる」
 楽しそうに語りだすスイレイの横顔を、ペルがじっと見つめた。
「抱きしめた気分は?」
「最高に幸せ。たぶん人生で最高の宝物を手に入れた幸せ」
「赤ちゃんの顔はどう?」
「ペルに似た女の子かな?」
「わたしはスイレイに似た男の子がいいな」
「どっちにしても可愛いことに間違いなし」
 微笑んで笑い声を漏らしたペルの肩を、スイレイが抱きしめた。
「勘違いしないでね。赤ちゃんができたってことは、すごい嬉しい。なんだか大きなプレゼント過ぎて
、その全体がまだ見渡せなくて呆然だけど」
「本当?」
 まだどこか不安げなペルの顔にスイレイが頷く。
「ぼくが嫌がると思った」
「……だって、たった一回のことでスイレイに責任を押し付けようとしているみたいに感じちゃって。
……これからたくさん楽しい恋人みたいな時間も過ごせるはずだったのに」
 俯いて言うペルの頭に、コツンと拳をぶつける。
「ぼくを見くびらないこと」
「……すいません」
 殊勝に頭を下げるペルに、スイレイが笑う。
「それにペルは思い違いをしている。これからだって二人でいる時間を楽しめる。しかもお腹の子を含
めた三人で。違う?」
「そっか。もっと前向きに考えないとね」
「そうそう」
 よしよしとペルの頭を撫でながら、スイレイが頷く。
 その二人に横からイサドラが口を挟む。
「スイレイ、一つ訂正いいですか?」
 相変わらず黙々と作業をしつつ、人差し指を立てて言うイサドラに、スイレイが頷く。
「何?」
「お腹の子を含めた三人という発言ですが、間違いがあります」
「間違い?」
「お腹の子を含めた四人が正解です」
 イサドラの真剣に作業する姿を見つめ、スイレイとペルが意味を取りかねて顔を見合わせる。
「どういう意味?」
 ペルが問う。
 そのペルに、とたんに笑顔を見せたイサドラが言った。
「赤ちゃんは双子です」



 スイレイとペルは手を取り合うと声を上げて笑った。
「双子だって」
「一気に幸せ倍増!」
 心底幸せそうに笑うスイレイの顔に、ペルが真剣な表情を見せると言った。
「……産んでもいいでしょう?」
 どんなに赤ちゃんがいることを喜んでみても、現実として横たわる問題は山としてそこにあるのだっ
た。
 スイレイも真剣な顔になると、じっとペルの目を見た。
「ペルは産みたいんだね」
 ペルは少しの躊躇いもみせずに頷いた。
「ぼくの気持ちを正直に言えば……産んで欲しい。でも、多くのリスクがあることも忘れないで。その
リスクも承知で、それでもペルが産みたいというのなら、ぼくが全面的にペルの望みをかなえるために
動くから」
 ペルの目が大きく見開かれ、じっとスイレイを見つめていた。
「……本当にいいの? それじゃあ、スイレイにばかり負担で」
 そのペルの額にデコピンをくれると、スイレイがその鼻先に指を突きつけた。
「ほら、またそんなこと言ってる。ペルはもっとぼくに頼ってよ。それに、負担ってなに? ぼくはペ
ルに産んで欲しいから何でもするって言ってるの。産んでくださいって頭下げないといけないのはぼく
の方だし。実際に負担を背負うのはペルなんだから。〈エデン〉にジャック・インし続ける体の負担、
妊娠という新しい体の変化を受け入れる負担」
 情けなく眉の下がったペルの顔を、スイレイが両手で包む。
「そんな顔してると、こうしてやる」
 両手でペルの顔を押し付けておかしな顔を作ってやる。
「ヤダ! やめてよ」
 笑いながらも訴えるペルだったが、笑ってばかりで手を離してくれないスイレイに、ペルはその両頬
をつねると引っ張った。
 その顔を見ながら、ペルが噴き出す。
「変! スイレイの顔、変!」
「ひょれはおはがひさまあ」
 口を引っ張られて不明瞭な言葉のままに言うスイレイに、ペルが笑う。
 スイレイはペルの頬から手を離すと、生真面目な顔で改まって姿勢を正す。
 そしてそれを見守っていたペルに言った。
「ぼくの子どもを産んでください」
 丁寧に頭まで下げるスイレイに、ペルは一瞬呆気に取られた顔をしていたが、頭を下げるスイレイの
肩に手を掛け、顔を上げさせると笑顔で敬礼した。
「はい。了解しました」
 そんなペルの可愛らしい仕草に、スイレイはギュッと勢いをのせて抱きよせた。
「ありがとう」
 そしてラブラブでいた二人を冷ややかな目で見ていたイサドラと目が合い、羨ましいかという目で笑
う。
 そのスイレイにイサドラがにやっと笑う。
「御懐妊祝いに、いいものをプレゼントするよ」
 振り向いたペルとスイレイに、イサドラがウインクして掛け声をかける。
「それ」
 軽い指の一振りでペルとスイレイの目の前に大きな塊が現れる。
「ずいぶんと豪勢なお祝いだね」
「……全くだ」
 ペルとスイレイは、目の前に出現した家を見上げて呟いた。


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