第5章   OVER THE ……





 一歩足を進める。
 その足元で大きく波が弾け、空中に向かって飛び散る。
 それを見つめながら、また一歩と海に向かって歩き出す。
 手首から流れる血が海の中に滴り、溶け込んでいく。
 それを見つめ、なぜか笑みが浮んだ。
 これで自分とスイレイとの間に立ちはだかる壁が刻一刻と砕かれていくのだから。
 一歩進む。
 波はその一歩ごとに深くペルを飲み込み、まるで来るなと拒むようにその体を押しやった。
 ドンと波に腰を押されよろめきながらも、ペルは前へと足を進める。
 一際大きな波が頭からペルを飲み込む。
 一瞬にして視界は泡立つ波に覆われ、何も見えなくなる。
 足元が掬われ、上下さえも定かではない逆巻く水の中に引きずり込まれる。
 引いて行く波の中から、一瞬空に白く発光する月が見えた。
 薄くて存在を忘れるほどののっぺりとした顔で、ペルを見下ろしていた。どこか希望をなくして諦め
た顔で。
 そう、わたしも諦めたのよ。全てに立ち向かうことに。
 ペルは抗うことをやめて生きることから手を離そうとした。
 だがそのペルの体を海の中から引き上げる腕があった。
 腰に回された手が強くペルを抱き寄せ、生きることを手離すなとその手を握りなおさせる。
 激しくのたうつ波の上に顔を出し、激しく咳き込むペルの体をスイレイが抱きしめた。
「どうして! どうして死のうなんて!!」
 初めて見るスイレイの泣き顔だった。
 海の中でよろめきながらも、決してペルを離してなるものかと強く抱きしめる。
 全身ずぶ濡れになりながら、なお涙を流すスイレイの震える肩を見ながら、ペルは手離したはずの感
情が体の中に戻ってくるのを感じた。
 最初に胸の中に突き上げたのは悲しみ。
 こんな死を目前にするほどに、追い詰められる恋に身を焦がす苦しさ。
 スイレイを泣き悲しませる自分の不甲斐なさ。
 だが、同時に嬉しかった。
 今、こうしてスイレイが自分を抱きしめていてくれることが。スイレイの腕の中で生きていられる自
分が。
「ぼくの前からいなくならないでくれ。……ペルがどこかで同じように息をして生きていることだけを
頼りに、ここまで耐えてきたのだから」
 ペルはスイレイの首に腕を回すと頷いた。
「スイレイ……」
 叫ぶようにして呼んだ名前に、嗚咽が漏れた。
「スイレイ、……もうわたしを離さないでよ。……スイレイを誰よりも愛してるから……自分の命なん
かよりも」
 スイレイの手がペルの頭を抱きかかえて濡れた髪を撫でた。
 そして激しく口づけた。
 お互いの存在を確認するように、その息を自分の中に感じようとするように。
「……スイレイ……わたしたちは兄妹。……でも、ここは〈エデン〉。現実の世界での束縛は受けない
世界……」
 ペルが揺れる目でスイレイの目を見つめていた。
「お願い。……もう躊躇わないで……わたしを抱いて」
 スイレイの瞳が揺れる。
 激しく降っていた雨はいつしか止み、暗雲が晴れはじめていた。
 スイレイの瞳からも、しばしの逡巡が晴れていく。
「ペル。……ペル以外に抱きたい女なんていない」
 スイレイはペルを抱き上げ、海から上がっていく。
 重なるのはお互いの高鳴る鼓動。
 強く吹く風に濡れた体から体温が奪われていく。
 広がる砂浜にペルを横たえ、張り付いた服を剥いでいく。
「ペルの体、冷たくなってる」
「だったら、スイレイが温めてよ」
 ほほえんだペルの目尻がから最後の涙が零れ落ちた。
 それを指で拭いながら、スイレイはペルに額に口づけた。
「ペル、愛してる」
 スイレイのささやきに、ペルは目を閉じた。
 ペルの口から漏れたのは、甘い吐息だった。




 目覚めて開けた目に入ったのはたくさんの白い砂だった。
 上げた頬や手にも無数に貼りついている白い砂。
 上体を起こしかけ、背中から掛けられていたシャツがすべり落ちた。
 それを手に取りながら見下ろした自分の胸が、外気に晒されたままでいるのを呆然と見下ろした。
 海の波の音が大きく耳に届いた。
「起きたか?」
 その声に顔を上げたペルは、海を眺めていたのだろうスイレイに気付いた。
 そしてその笑顔を見ながら自分の胸を見下ろして、途端に恥ずかしげにシャツで裸の体を隠した。
「ヤダ、見ないで」
 伏せた顔でスイレイを見上げ、ペルは顔を赤くした。
「何を今さら」
 肩をすくめて見せるスイレイを、ペルはギッとにらみつけた。
 だが上半身が裸のスイレイの背中を見ながら、つい睨みの力も篭らずに目を逸らしてしまう。
 スイレイはペルの隣りに座ると、服を差し出した。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「……でも」
「全部見ちゃったんだから」
 その一言でペルの顔が茹で上げられたのかというほどに赤く染まる。
 それをおもしろげに見下ろしているスイレイに気付き、ペルはその肩を叩いた。
「もう! からかってるでしょ!」
 そう言って怒ると、ペルはスイレイにあっちを向いていてと海の方を指差した。
「はいはい」
 その指示に、スイレイは面倒くさげに頷いた。
 それを見ながらそろそろとスイレイに背後に移動し、ペルが着替えをはじめる。
 海水に浸かってしまった服は、海の塩辛い匂いと、結晶化した塩にざらざらしていた。
 表面を叩けば、塩と砂がパラパラと落ちる。
「ペル」
「まだダメだよ」
 慌てたペルの声に、スイレイが笑い声を上げる。
「手だけぼくの肩に置いてくれない?」
「手?」
「そう左手」
 それが何を意味するのか分からないままに、ペルはスイレイに肩に手を置いた。
 その手をスイレイが掴み、指に何かを嵌めた。
「ちゃんとしたのは、あとで上げるから」
 スイレイがペルの指に嵌めたのは、白い貝殻と蔦のつるを組み合わせた子どもが作ったような指輪だ
った。
 クルリと回転のかかった白い貝が、ひんやりとして気持ちがよかった。
「……スイレイ」
 顔だけをペルに向けたスイレイが、笑顔を向けていた。
 そして言った。
「ペル、ぼくと結婚して」
「え?」
「もちろん現実にはそれは叶わない。でも〈エデン〉でいるときは、ペルとぼくは夫と妻でありたい」
 真剣な顔で見つめられ、ペルは手の貝の指輪を見下ろしながら絶句した。
「いや?」
 スイレイの問いかけに、ペルは首を横に振る。
 だが同時に後ろめたい思いで、当惑の表情が浮ぶ。
「スイレイ……こうなったことで責任を感じているなら……」
 言いかけたペルの言葉をスイレイが振り返って厳しい顔で首を振って制した。
「ぼくがただ一度のあやまちとして片付けるつもりでペルを抱いたと思っているのか?」
「……そうじゃないけど、わたしが誘ったから……」
「ペルを抱きたいと思った。そしてその選択を選び取ったのは僕自身だ。それに、結婚でペルを自分の
ものだけにしたいのもぼくの独占欲」
 まだ胸を服で隠していたペルの手を引いて胸の中に抱きとめると、びっくりした顔で見上げる顔を見
つめた。
「ぼくもずっと結婚なんて制度にこだわるのは古臭いなんて思ってたんだ。好きなら一緒に住めばいい。
紙だけの結婚になんでこだわるだろうって。でも、今のぼくには分かるよ。これは相手にあなただけを
愛しますっていう誠意を見せる契約なんだ。それを多くの人の前で宣言する」
「ここにはわたしたちしかいないけど」
 つっこみを入れるペルに、スイレイが流れるようにしていた演説を中断されてムッと顔をしかめる。
 だがすぐに反論の言葉を見つけると、ペルに得意げな顔を見せた。
「イサドラ!」
 空中にむかって呼ぶと、すぐにイサドラが現れる。
 その手にバラの花束があり、スイレイに抱かれたペルに向かって差し出される。
「ペル、幸せそうだよ」
 イサドラの言葉に、なぜかふいに涙が出そうになり、ペルは涙を堪えながら笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
「イサドラと、そしてこの〈エデン〉に宿る全ての命に誓います。ぼくはペルだけを一生愛しつづけま
す」
 高らかに宣言したスイレイは、握った手をマイクのかわりにペルの前に差し出す。
 その行為にペルははにかんだ笑顔を見せたが、言った。
「わたしペルは、一生スイレイだけを心から愛し、敬っていくことを誓います」
 イサドラが拍手を送る。
 そしてイサドラの祝福の拍手と、波の音をバックに、スイレイとペルは口づけた。
 想像していたどんな結婚式よりも幸せな結婚式だ。
 ペルはスイレイの胸に顔を寄せながら思っていた。



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