第5章   OVER THE ……





 スイレイは両手を力の限りに握ると、やるせない怒りを地面にたたきつけた。
「くそ!」
 あんなことを言うつもりはなかった。
 ただ、安穏と笑っているペルの顔を見た瞬間に、感情のどこかが沸騰したのだ。
 あんなに衰弱の一途をたどりながらも、現実には背を向け、〈エデン〉に逃げ込んだペルが心配でな
らなかったのだ。
 こんなに傷つくほどの痛みをペルに作ってしまったのは自分なのだという思いがあった。
 恋を仕掛けたりしなければ、こんなにペルを悲しませなかったはずだ。
 そして〈エデン〉という逃げ場を作っていなければ、少なくとも緩慢な自殺に向かうような危険を避
けられたはずだ。
 傷つき、生きることから逃避したペルを、自分の手でもう一度救い出したかったのだ。
 だが、目にしたペルは笑っていた。
 ネコを抱いて楽しそうに。
 その姿が、自分の今までの悲痛な思いと決意を無駄だと打ち砕いたような気がしたのだ。
 そして、ペルは自分だけを求めているわけではない、ただ側にいてくれる誰かを求めていただけに過
ぎなかったのだという思いで打ちのめされたのだった。
 心の底からペルを愛していたからこそ、スイレイにはあんな態度しか取れなかったのだった。
「スイレイ」
 蹲るスイレイの横に現れたイサドラが、声をかけた。
「さっきの態度は、ペルがかわいそう過ぎるよ」
 頭上から降るイサドラの声に、スイレイはギュッと手を握った。
「わかってるよ」
 きつい物言いで言い返すと、イサドラがため息をつく。
「ペルが心配なのは分かるよ。でもさ、ペルを一人の人として対等に見てあげなよ」
 スイレイはイサドラを睨みつけると立ち上がった。
「ぼくがペルを見下げているっていうのか?」
「そうは言わないよ。でもさ、守ってあげなきゃいけないって強く思っているってことはさ、ペルは一
人では何もできないんだって思っているのとイコールなんじゃないの?」
 その言葉に、スイレイは口を閉ざした。
「実際ペルは何もできてないよ。ネコがいないと寂しくて泣くし、ごはんだって食べられないし、フラ
フラ〈エデン〉の中を歩き回っているだけだし。でもさ、がんばってるんだよ」
 イサドラの言葉に、スイレイは自分の狭量さを思い知って肩を落とした。
 さっきの自分は、己の感情に溺れてペルの思いを思いやる余裕を無くしていた。
 ペルのあの性格だから、〈エデン〉で一人でいることの不安は、自分が思う以上であるはずだ。それ
でもここに居ようと笑顔を浮かべることに、どれだけの努力があったことだろう。
「ペルはさ、ここで何かを断ち切ろうとしているように思うんだよ。それができずに、ジッとしている
こともできずに歩き回っている。わたしにはそんな風に思える」
 イサドラの洞察に頷きながらも、スイレイはペルを思った。
 断ち切ることのできる思いなのだろうか?
 そこで断ち切られるのが自分であることに、スイレイは目を背けたい心の悲鳴を聞いた。
 断ち切らなければならない思いを抱えているのは自分も同じなのだ。
「ペルに…触れられない」
 スイレイは絞りだすように言った。
「どうして?」
「……一度触れたら、もう抱きしめずにいられないから。……もう、この思いを止められない」
 俯いたスイレイが泣いているように見えた。
 思いの整理をつけるには時間が必要だった。だが、猶予となる時間はあまりに少なかった。




 降りだした雨に、空は暗雲に包まれ、〈エデン〉が闇に落ちる。
 海辺の砂浜にポタポタと落ち出した雨粒が、あっという間に大粒の雫へと変化し、叩きつけるような
雨へと変わっていく。
 跳ねた雨粒が砂と一緒になって飛び跳ねる。
 その雨の中で、ペルは膝を抱えて座っていた。
 ずぶ濡れになった服が体に張り付き、髪が顔に纏わりついた。
 だがそんなことも気付けない虚ろな表情で、ペルはただ砂浜を叩く雨を見つめていた。
 強い風が吹き、痛みが走るほどの強さで雨がペルの体に打ちつける。
 黒く変わった海を、無数の波紋が覆い、大きなうねりを見せていた。
「まるで……わたしのこころ」
 黒く染まり、常に不安に蠢き、何かを求めるように波を空へと伸ばす。
 黒く塗りつぶした心の闇の向こうには、確かに赤く裂けた傷口があった。スイレイを求める心の傷。
 何度、その傷を塞ぐための代用品を押し当てたことだろう。
 スイレイ以外の恋人ができるかもしれない。
 ローズマリーも、最高傑作だというくらいには、自分のことを愛している。無関心よりもありがたい
ではないか。
 他人の、しかもカルロスとの間にできた罪の子である自分を、レイリは大切にしてくれたではないか
。自分にその価値がなかったなら、たとえレイリとて自分を大切には扱わなかったのではないか?
 ジュリアといういつも手をつないでくれる大切な友達もいる。
 だが、どんなに並べ立てても、魂が求めるものは違うのだと気付いてしまうのだ。
 フェイクはいらない。
 欲しいのは、スイレイの手であり、唇であり、自分だけに捧げられる愛なのだ。
「ないものねだりの子どもじゃないんだから、諦めてよ」
 自分に言い聞かせる。
 だが途端に漏れるのは、涙を伴った嗚咽だった。
「何泣いてるのよ」
 二つに分かたれた心が苦しかった。
 早くスイレイを忘れて当たり前の生活を送れるようになりたいという理性。
 ただスイレイだけを渇望する奥底にある本当の自分。
「……なんでなのよぉ」
 子どものようにしゃくり上げながら、ペルが呟く。
「なんで、…スイレイから引き離されるのよ」
 雨に打たれる頭を抱え、ペルは肩を震わせて泣いた。
「スイレイ以上に……好きになれる人なんて……いないよ」
 何がスイレイと自分を分かつのか。
 それは自分の血そのものだった。
 スイレイと同じ血を体内に流しているからこそ、許されない恋。
 ペルは発作のように側に落ちていた貝を手に取ると、手首に押し付けた。
 尖った先端が肌に食い込み、皮膚の耐えうる圧力の限界を超えた瞬間にプツっと音をたてて裂けた。
 肉の中に食い込んだ貝の欠片に、血が溢れ出す。
 雨に打たれてポタポタと垂れる血が、砂浜に吸い込まれていく。
 ペルは手首から流れ出した真っ赤な血を見つめ、笑い声を上げた。
「これよ。この血がいけないのよ。だったら、こんなもの捨ててやる」
 何かにとり憑かれたように目を見開いて血を見つめたペルが哄笑をあげる。
 そしてどよめく海を見つめた。
「海に、この血を全て返してやる」
 危うい足取りで、ペルは海に向かって歩きはじめた。




「スイレイ!」
 立ち込めた雨雲を見上げて立ち尽くしていたスイレイに、イサドラが叫んだ。
「ペルが!」
 血相を変えて叫ぶイサドラが、蒼白な顔で泣いていた。
「ペルが、ペルが!」
「ペルがどうした!!」
 イサドラの肩を強く掴んだスイレイに、イサドラが叫んだ。
「ペルが死んじゃう!」

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