第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 




3

 学校の教室に入ったペルは自分の机の上に置かれていたメッセージカードを手に取った。
「おはよう」
 友達たちに挨拶を送りながら、ペルはカードを手に取った。
 天使の絵が書かれたカードを開くと、見慣れたジュリアの字が並んでいた。
 とてもあのキレイな顔が書くとは思えないミミズが這った様な字だった。
『緊急連絡
 ペルにお願いしたいことがあるから、今日学校が終わったらうちに来て。
 来てくれないと一生恨むぞ!
 わたしにとってとっても大事なことで困ったことが発生!』

 恨むぞ! と念を押されて行かないわけにはいかないだろう。
 あのランチの出来事以来、何日かに渡ってジュリアとのランチはどうしても避けてしまっていた。
 最初は用事があるからと断わり、次の日は本当に課題が間に合っていなかったので図書館に詰めてい
た。
 そんなことが重なり、ジュリアもランチを誘いに来ないようになり、ペルも逃げるように時間をずら
してランチを取ったりしていた。
 ジュリアの姿は何度か目にしていたが、もう一週間ちかく話はしていなかった。
 酷く虚しい日々であるのだが、まだジュリアと面と向かって笑顔で話す気力は戻ってこなかった。
 でもジュリアが大事な友達であるという事実は今でも変わっていない。
 だから、このまま放っておいていいわけではないのだ。
 何もしなくても一生続く友情なのだとたかを括っているほど傲慢ではない。
 ペルはカバンにメッセージカードをしまうと、一つ大きく息をつき決意した。



 台所はメチャクチャに荒れ果てていた。
「何をしたの?」
 ペルはエプロンをしたジュリアを、あきれた目で見た。
「……バカにしてる目だ」
 拗ねた顔で睨みつけてくるジュリアだったが、両手がネバネバの物体で覆われ、鼻の頭に白い粉をく
っ付けた姿では、ちっとも迫力もあったものではなかった。
「お願いって料理を教えてってこと?」
 壮絶な状況とジュリアの姿にもう笑うしかないという感じでペルが聞いた。
「……うん」
 ペルのために用意されていたのだろうエプロンにも小麦粉が掛かり白くなっていたが、なんとかその
粉を払い落とすと、ペルはエプロンを身につけた。
「まずは手でも洗おうか?」
 ペルはジュリアのために水道を捻ってやる。
 ジュリアは素直に手を洗い出すと、口を尖らせて言った。
「どうしてわたしが料理するとこうなっちゃうんだろう?」
 確かにいったいここで何が行われていたのだろう? と疑いたくなる様相だった。
 床一面に小麦粉が飛び散り、その上で溶けたバターが点々と染みを作っていた。
 包丁は野菜やら肉やらの屑にまみれ、シンクいっぱいにゴミと混然一体となった、肉やら野菜が山盛
りになっていた。
 手を洗っているシンクの中にも汚れにまみれたボウルが突っ込まれていた。
「……片付けながらやれば大丈夫だって」
 ペルは自信を喪失したらしいジュリアの横顔に言うと、笑いかけた。
「まずはさ、この洗物を片付けよう。わたしが洗うから、ジュリアは布巾で拭いてしまってね」
「……うん」
 かわいらしい妹ができた気分でペルはジュリアの手に布巾を手渡した。



「作るメニューはね、ハンバーグでしょ、コーンスープ、サラダ、パンにケーキ」
 お皿を拭きながらジュリアがご機嫌に喋り出す。
「え? そんなに一度に作るの? 」
「うん。だって、今日お父さんとわたしの記念日なんだもん」
「記念日?」
「うん。二人ではじめてサイクリングに行った日。お父さんと二人で生きていくことを二人で受け入れ
た大切な日なんだ」
「ふ〜ん。大切な日か」
 ペルも笑顔で応じると、雑巾で床や机の上の粉をかき集めていた。
「じゃあさ、まずは一番時間のかかるパンからやろうよ」
「そうか、時間ってものも考えないといけなかったね」
 今さらながらに頷くジュリアに、ペルは苦笑した。
 この残骸の様子から考えるに、パンを作り始めて分からなくなり、次にハンバーグに映ってみたが、
肉を捏ねているうちに両手があの肉まみれの惨状になったらしい。
 ペルは机の上のハンバーグの種を覗き込み、「あ」と声を上げた。
「え? 何? ハンバーグおかしい?」
「ううん。ただ……どうして玉ねぎが生で入ってるの?」
「ああ。それね。それはうちの伝統なんだって。お父さんはいつもこうやってみじん切りの玉ねぎを生
のままいれるの。普通は炒めてから入れるんでしょ?」
 ジュリアがまだ残っていたバターの残骸に足を取られてよろけながら答える。
「伝統。へえ〜、そうなんだ。きっとその伝統を作ったのはマリー……おばさんだと思うよ」
 皿を戸棚にしまいながら、ジュリアが眉間に皺を寄せて振り返る。
「マリーおばさん?」
「うん。あの人あんな感じだけど、食事の用意とかお弁当とかは必ず作ってくれるの。今も毎朝食事の
支度してくれるんだよ。でね、マリーおばさんの作るハンバーグがこれと同じ。生の玉ねぎを使ってる
の」
「そうなんだ」
 どこかおもしろくなさそうな顔になったジュリアだったが、思い直したように顔を上げるとスキップ
しながらペルの元に走り寄った。
「じゃあ、ペル。パンつくりお願いね」
「え? わたし一人で? 」
「うん。だって時間ないし。お父さん、あと2時間で帰ってきちゃう」
「え〜! だったら急がないと」
 優雅に再びハンバーグ捏ねに入ったジュリアを横目に、ペルは一人パンの生地作りを始めるのだった。



「はぁ〜」
 ソファーの上で脱力したペルに、ジュリアがコップに入ったジュースを手渡す。
「ご苦労様」
 ペルは黙ったままジュースを受け取ると、一気に飲み干してコップをジュリアに手渡した。
「ペル、本当に馬車馬みたいだったね」
 クスクスと他人事のように笑うジュリアに、ペルが「コラッ」とその手を叩くと脱力したまま目を閉
じた。
 僅かな時間の間に、ロールパンを焼き、スープを作り、サラダを作って、イチゴのたくさんのったケ
ーキまで焼き上げたのだ。
 その間ジュリアは優雅にハンバーグを焼き、ポテトを揚げ、食卓に花を飾り、ナイフとフォークを並
べていたのだった。
 おかげでホテルの食卓のような一角が出来上がっていた。
 まだほかほかと湯気を立てるパンがカゴに盛り付けられ、銀色の食器が輝いていた。
 ジュリアはペルの横に座ると、一緒になって背もたれに転がった。
「ありがとね、ペル。ペルがいないとわたし何もできないからさ」
 珍しく弱気なことを言うジュリアに、ペルは目を開けた。
「ジュリアらしくない」
「ペルだって。この頃らしくなかったじゃん」
 暗に避けていたことを悟っていたらしいことを匂わされ、ペルは申し訳無さそうに苦笑を浮かべた。
「わたしね、知ってるんだ」
 ジュリアは前を見ながら言った。
「え?」
「ペルとスイレイが兄妹だってこと」
 ペルは今の今まで忘れていた事実に立ち返らされ、表情を無くした。
「ローズマリーはおばさんなんかじゃない。お母さんだったんでしょ」
 ジュリアの真っ直ぐな視線と視線がぶつかり、ペルは震える目でその視線を受けた。
「ペルは、どう思ってるの?」
「どうって?」
 固い声が漏れた。
「これからのこと。マリーおばさんと暮らすの?」
「それは……」
 ペルも今まで何度となく考えてきたことだった。
 母親が側にいると分かったのなら、母親とともにいるのが道理だということはわかっていた。
 だがその母親が、自分をレイリの家に預けたのだ。
 そこにどんな経緯があったのかは分からないが、自分がローズマリーの手元にいることに不都合があ
ったから手離したのだろう。
 それを今は一時避難だとしても、ずっと側にいることをローズマリーがどう思うのかは分からなかっ
た。
 かと言って、もうスイレイのいるカルロス家に戻ることもできなかった。
 もちろんカルロスも自分の父親ということになるのだが、カルロスに父を感じたことは一度もなかっ
た。
 あと一年足らずで学校も卒業して大学に進むのだ。だったらそのときに一人立ちすればいいという気
もしていた。その僅かな期間さえ耐えればいいのだ。
「大変なことになっちゃったね」
 言葉を濁したまま考え込んだペルに、ジュリアは無理に答えなくていいよと言うように立ち上がった。
 そしてテーブルの上にワイングラスを並べはじめた。
 その姿を呆然として眺めながら、不意にその行動に疑問をもった。
 テーブルのセットされている食器の数が4つなのだ。
 ジャスティスとジュリア。
 そしておそらく自分の分も含まれているのだろう。
 だがもう一つの意味がわからなかった。
「ジュリア」
 ペルはソファーから身を起すと尋ねた。
「今日は誰が来るの?」
 明らかに緊張した声に、ジュリアがハッと顔を上げた。
「誰って」
「どうして四人分あるの?」
「……お父さんと、わたしと、ペルも食べていくでしょ?」
「もう一人分は誰の?」
「……」
 ペルはその沈黙の意味を悟って立ち上がった。
 ペルはただジュリアがどう感じるのかも考えずに、逃げるようにして自分のカバンを取上げて玄関に
向かった。
「ペル!」
 ジュリアの声が追いかけてくる。
 だがペルは立ち止まることができなかった。
 靴も突っかけるようにして履き、玄関のドアを開けて外に駆け出す。
 だがそのペルの体が大きなものにぶつかった。
 遅かった。
 ペルは目を上げなくてもぶつかった相手が誰であるのかを悟って立ち尽くした。
「ペル」
 スイレイの声が頭上から降る。
 スイレイも知らされていなかったのだ。ペルが来るなどとは。
 ただジュリアの画策で二人が顔を会わせるように計られた。
 後ろから追いかけてきたジュリアが、ペルとスイレイの間にある凍りついた空気に立ち尽くした。
「ジュリア、おまえ」
 スイレイが困惑した声で言った。
「だって、わたしたち友達でしょ? このままギクシャクして崩壊してしまうなんて嫌なのよ。ただ逃
げていたって、問題の解決にはならないじゃない」
 ジュリアの声が二人に向かっていた。
 だが、それはまだ二人には受け入れる準備のできていない言葉だった。
「部外者なのに」
 ペルが俯いたまま呟いた。
「え?」
「……ジュリアは部外者でしょ。だからそんなことが言えるのよ」
 怒りさえもこもった暗い声がペルから漏れた。
 スイレイもそのペルを見下ろした。
「わたしとスイレイがどんなに傷ついたいるかなんて、ジュリアには分からない」
 顔も上げずに吐き出された言葉に、ジュリアが顔を歪めた。
「ええ、わからないわよ。全然話してもくれないじゃない。学校でも避けまくって。わたしはペルの親
友でしょ。だから助けたいのよ」
「何の助けになれるっていうのよ!!」
 ペルが絶叫した。
「返ってこうなって一番おいしい思いしてるのはジュリアじゃない。わたしが知らないとでも思ってる
の? ジュリアが誰を好きでいるのかなんて、ずっと前から知ってるわよ!」
 ジュリアの顔が紅潮し、それから蒼ざめた。
「高見に立って見下ろしているから、わたしにそんなことが言えるのよ。かわいそうなペル。わたしが
やさしく助けてあげましょう。でもスイレイはわたしのものよって」
 叫んでから、ペルも自分でも思いにもよらない言葉を吐いたショックで蒼ざめた。
「……ペル。そんな風に」
 真顔で蒼白になったジュリアの顔に、ペルは頭を殴られ、胸に太い杭を打たれたような痛みを感じた。
 手足が震え始め、息が過剰に速くなっていく。
「ああ……わたし……」
 急激な興奮にペルは体を折ると、胸を押さえて蹲った。
 体を大きく震わせながら、喘息のように荒い息をつく。
「過呼吸だ」
 後ろからペルの体を抱え上げたスイレイがジュリアにタオルを持ってこいと指示を出す。
 頷いたジュリアが走ってバスタオルを取ってくると、スイレイに手渡す。
 そのタオルでペルの顔を覆ったスイレイは、ジュリアにまた後で来るからお前も家でおとなしく待っ
ていろと指示を出す。
 そしてペルを抱えた家を出る。
「ペル、できるだけゆっくりと息をして」
 涙で溢れかえる顔と、嫌な音を立てる息にパニックになりながらも、ペルは今スイレイの腕の中にい
ることに安心感を覚えていた。
 次第に落ち着いていく息に安堵しながら、ペルは意識を失っていった。

 
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