第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 






 誰もいない部屋の鍵がシリンダーの回る音で開く。
 ペルは戻ってきたローズマリーのマンションへ足を踏み入れた。
 ひんやりとして薄暗い部屋がペルを迎える。
 ペルは靴をそろえる気力もなく脱ぎ散らかすと、ソファーの上に倒れこんだ。
 学校は早退した。
 とても勉強などに集中できる気分ではなかった。
 ジュリアにも何も連絡してこなかった。
 目だけを動かし、携帯電話を見た。メールぐらいはした方がいいのかもしれない。早退したからと。
そうでないと、帰りの待ち合わせに現れない自分を捜させることになる。
 連絡をいれないと。
 頭ではよく分かっていた。
 だがどうしても体が動いてくれなかった。
 しかも早退したなどと書けば、ジュリアに変な勘ぐりを入れられることになるのかもしれない。そう
でなくても、ランチを途中で放り出してきてしまったのだから。それだけで十分におかしなことなのだ
から。
「ジュリア…ごめんね」
 ペルはそのまま目を閉じると、ソファーの上で眠りに落ちた。



 目を開けてみた部屋はすっかり夕闇の中に落ちていた。
 ペルはソファーから起き上がると、乱れていた髪の毛を寝ぼけたまま手で梳いた。
「……」
 時計を見れば、夕方の5時を指していた。
 どうやら2時間ほど寝入っていたようだった。
 頭はまだぼんやりとして霞みが掛かったような状態だったが、少なくとも体を動かす気力は回復したよ
うだった。
 立ち上がって窓まで歩いていくと、レースのカーテンを開けた。
 紫色に染まった空に、一番星が白く輝いていた。
 自分がどんなに苦しんでいようが世界は変わりなく時間を進めているのだ。
 闇が訪れ、世界は静まり返った眠りの時を迎え、そして再び訪れた暖かい太陽の下で目覚めるのだ。
新たな一日の始まりを祝して。
 わたしにもそんな朝がまたくるのかな?
 でも今はこの空のように。まさしく闇への一歩を踏み出したところなのだ。
 こんなに美しくも穏かな闇の気配ではないのだが。
 ペルは窓から離れると自分の部屋へと歩いていった。
 ここ数日閉じこもって過ごした陰鬱な空気に満たされた部屋だけに、なんとなく足が遠のくのだが、
その部屋だけが唯一ペルだけを受け入れてくれる場所だった。
 だがその部屋への途中、いつもならきっちりとその口を閉ざしているローズマリーの寝室のドアが開
いていた。
 子どものころから、決して足を踏み入れたことのない部屋だった。
 他の部屋には何の気兼ねもなく入れるのだが、寝室だけは避けていた。
 別にローズマリーに立ち入りことを禁止されていたわけではなかった。だが、ペル自らが戒めていた
のだった。
 別にその部屋にローズマリーが男を連れ込んだのを見たこともないし、音を聞いたわけでもなかった。
 いつもローズマリーの部屋から聞こえてくるのは静寂の音のみだった。
 だからこそ、この秘密めいた部屋に禁忌を感じていたのかもしれない。
 だが今その秘密のドアが開け放たれていた。
 そっと中をのぞき込む。
 厚いカーテンが閉じているせいで闇がうずくまっていた。。
 その中に大きなベットが置かれ、白いベットカバーが掛けられていた。
 きちっとベットメイキングされた清潔な部屋だった。
 ドアを大きく開ける。
 そして部屋の中に足を踏み入れて見回した。
 出窓に置かれたサボテンの鉢と写真立て。
 クローゼットの前に掛けられたローズマリーがいつも使っているピンクのバスローブ。
 本棚に並んだ本と、シンプルなスタンド。
 夜にはこのスタンドの光の中でベットの上で本を読むローズマリーの姿が想像できた。だがその表情
が夜の憩いのときであっても穏やかであるとは思えなかった。
 常にあるような冷たい無表情が本を見下ろしている。
 ペルはローズマリーのベットの上に腰を下ろすとホッと息をついた。
 部屋の中にローズマリーの匂いが満ちていた。
 バラのような濃厚な女の匂いに、だがどこか温かみを感じた。
 皺一つなく掛けられたベットカバーの上に寝転がる。
 わたしはローズマリーの娘。
 かつてこの匂いの中で抱き上げられ、慈しみにみちた母の瞳で見下ろされたことがあったのだろうか?
 ローズマリーの乳を飲んだこともあったのだろうか?
 母性を滲ませたローズマリーなど想像できなかった。だが、目を閉じたペルはこのローズマリーの匂
いに安心感を覚えていた。
 そしてふと寝転がって初めて目に入ったベットサイドの写真立てを手に取った。
 普通の写真立てよりも大きな、ローズマリーの趣味にしては甘いつくりのフォトスタンドだった。白
い陶器製で、ピンクのバラの絵が描かれていた。
 その中にあった写真に、ペルは思わず写真を持つ手に力を入れた。
 まだ1歳くらいのやっと立っているペルを後ろから支えて笑うジャスティスと、その横で笑顔を見せ
ているローズマリーがいた。
 自分のまだ歯も生え揃わないあどけない笑顔が、ローズマリーを見上げていた。
「……こんなの覚えてないよ」
 覚えているのは、引き取られてからの冷たい、自分との絆など求めていない無関心な態度だけだった。
 ローズマリーはこの写真をなぜここに飾っているのだろう?
 この家に写真の類は飾られていない。
 極端なまでに装飾の排除された家だった。
 あるのは手のかからない多肉の花たちと、陶器製の動物の置物くらいだった。
 その中で唯一飾られた写真。それが自分の子供時代の写真だった。
 写真の置かれていたベットサイドの棚の引き出しを開ける。
 整然と整理された引き出しの中に、一枚だけ異質な紙があった。黄色く色あせて硬くなった紙が、大
事そうに折りたたまれて一番上に置かれていた。
「作文用紙」
 それが何なのかある程度の予想はついていた。
 手に取って開いて、その予想が的中していたことに嬉しさよりも胸に穿たれた穴に風が通り抜ける違
和感だけを感じた。
「わたしの家族」
 作文の題名を読み上げて、過去を思い出す。
 中学の授業での宿題だった。
 自分の家族について作文を書いてくるようにと言われたのだった。なんて自分にとって酷な宿題なん
だと落胆した覚えがあった。
 わたしの家族は死んだのだ。今は家族と呼ぶには余りにも遠いところにいる叔母とすごしているだけ
だ。
 それでもそんなことを作文に書くことはできなかった。
 わたしの家族はいません。一緒に住んでいるおばさんはわたしには冷たく、笑いかけてもくれません。
 そんなことが書けるはずもなかった。だが嘘も書きたくはなかった。
「わたしは叔母さんと一緒に住んでいます。父と母が事故で亡くなってしまったからです。叔母さんが
わたしを引き取ってくれなかったら、わたしはきっと一人で悲しくて毎日泣いて暮らしていたかもしれ
ません。叔母さんが迎えにきてくれるまで、わたしはずっと毎日公園で母が迎えに来てくれるのを待っ
ていました。
 子どもの頃から遊んでいた公園でブランコに揺られていたら、母が「ペル、夕飯だから帰ろうね」と
言って現れてくれるような気がしていたからです。
 母は現れませんでした。でも叔母さんがわたしを迎えに来てくれました。
 わたしは今一人ではありません。
 ずっと父や母に手を引かれて歩いている子どもではなく、叔母の助けになれるような家族になりたい
と思います。
 わたしを引き取って育ててくれている叔母に感謝したいからです。今はまだ助けてもらうばかりで叔
母の役に立るようなことを何一つできません。
 でもいつか、恩返しができるようになりたいと思います」
 読みながら、ペルはこの作文を書いたときの苦渋に満ちた思いが今感じているがごとくに感じること
ができた。
 やっかいなお荷物を迎えに来てやったというローズマリーの見下げた視線。
 抱きしめることも、手を握ることもしてはくれなかった。
 どれだけ自分の手を見下ろして空虚感を飲み込んできたことだろう。
「でもわたしを迎えに来たのは、本当にお母さんだったんだ」
 ペルは作文を畳んで引き出しにしまうと、ため息をついた。
 ローズマリーの心を読み取ることは難しい。
 長い時間を共に過ごしてきたジャスティスも、わからないと言い切るほどに難解なのだ。でも……。
 ペルは写真と引き出しの中の作文を思って少し冷めていた心に暖かさが戻った気がした。
 ローズマリーは、母と呼ぶにはまだ嫌悪感がないわけではないけれど、全く愛情のない冷血漢ではな
いのかもしれない。
 ただの義務感ゆえに引き取っただけではないのかもしれない。
 娘として愛する気持ちが皆無ではない。
 ペルはそれを信じたかった。
 自分を思ってくれる心が、この世に一つでもあるのだと信じたかった。


 
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