第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 






「学校復帰おめでとう!」
「ありがとうーー!」
 いつもの中庭のパレオでランチを取るために待ち合わせたジュリアは、久しぶりに一緒に並んで座る
ペルの祝福に笑顔で応じた。
 プレゼントと称して手渡したジュースに、ジュリアが大げさな態度で賞品を授与されるように受け取
る。
「ジュリアが学校に来てくれるのを心待ちにしてたよ」
「本当? 寂しかった?」
「うん」
 どちらが先輩なのか分からない会話で笑い合う。
「今日はペル特製のお弁当でお祝いさせていただきます」
「わーーい」
 両手を叩いて喜んだジュリアはペルの開けたランチボックスをのぞき込んだ。
 きれいに並んだオープンサンドと大好きなフライドチキン。ポテトグラタンにフルーツサラダ。
「ねえ、これって結構カロリーあるよね」
「まあね。でもたまにはいいんじゃない?」
「だよね」
 ジュリアはこの際ダイエットなんて忘れようねと顔で示すと、真っ先にフライドチキンを手に取った。
 時間が経って冷たくはなっているのだが、口の中で広がる香辛料の匂いに思わず唸った。
「うまーーーーい。最高に幸せ!」
「こんなくらいで幸せ感じてもらえるなら、いつでも作ってあげるからね」
 自分もオープンサンドを食べながら、傾けた顔にかわいらしい笑みを浮かべながらペルが言う。
「ペルって、いいお母さんになるよね」
「そうかな?」
 女の子なら誰でもする普通の会話だった。
 だがその会話が、突然お互いを今ある空間から遊離させた。
 ジュリアには、将来お母さんと呼ばれる可能性がないというを思い起こさせ、ペルには愛した人と引
き裂かれたという思いを。
 だがすぐにそんな暗い回想から思いを現実に戻すと、お弁当箱の中に手を伸ばし、二人してパンを掴
んだのであった。
 目があった。
 それだけでそれぞれに何を考えていたのかが伝わった。
 だがそれには触れずに微笑み合うと言葉は交わさずに食べることに専念した。
 ジュリアは卵の香りを口の中で楽しみながら、隣のペルを伺った。
 どのくらい落ち込んでいるのかと気を病み、昨日からペルに会うことが楽しみであり、同時に憂鬱で
もあった。
 だが今日会った限り、ペルは元気に笑っているし暗さの欠片もなかった。 
 そうはいっても本心を隠す名人のペルのことだから、無理をして平常心を装っているのだろうが。
 よく見れば、目の下に隈が出来ているような気もした。
 いつもは抜けるように白く、陶器のような滑らかさを持った肌が、くすんで青みがかっているように
も見えた。
 いずれにしろペルが悩みを抱えているのは明らかなのだ。
 スイレイとのことをわたしが知っているとは思っていないから、知られないように装っているだけで、
本当は笑っていられる気分ではないはずだ。。
 その悩みを聞き、支えになってあげたい気持ちもあった。ペルは親友なのだ。そして唯一何の偏見も
持たずに恋の話もできるはずの人間だった。同じ人を愛してしまわないかぎりは。
 ジュリアとて、恋の話を楽しげに顔を赤らめながら話す友達が羨ましくないわけではなかった。
 ただ噂と思い込みが入り乱れる自分と、純粋に恋の話をしてくれる友達がいなかっただけで、してみ
たくないわけではない。
 その望みが叶いそうな唯一の存在ペルが、恋敵になってしまったなんて。しかも、今ペルはその想い
人スイレイとのありえない関係に思い悩んでいるのだ。
 話を聞いてあげたい思いよりも、ペルのスイレイへの深い思いを聞いて自分の恋に後ろめたさを持っ
てしまうことのほうが怖かった。
 ペルには同情する。でも、その同情のために自分の恋まで捨ててしまうことはしたくなかった。そん
な自分が薄情にも思えたが、スイレイを好きな気持ちはそう簡単に消せないものなのだ。
「…ジュリア?」
 不意に声を掛けられ、ジュリアは我に返った。
 手にしていたオープンサンドが途中で止まり、口の横に卵の黄身をつけた間抜けな顔で惚けていたの
だった。
「もう、子どもなんだから」
 ペルはジュリアの口元から卵を掬いとると、自分の口に運んだ。
「あ、食べた」
「え? いけなかった?」
「……間接キッスだ」
「え?!」
 思いにもよらないことを言われて、ペルは狼狽したように口に持っていっていた手をあたふたとさせ
た。
「……ペルっておもしろい」
 ジュリアは手にしていたオープンサンドを口に放り込むと真顔で呟いた。
 からかわれたとのだと気付いたペルも、口を尖らせて文句を言うと、フライドチキンを手にして齧り
ついた。
「あ、それわたしが狙ってたのに」
「ちゃんと2本づつって考えて入れておいたけど」
「わたしが3本、ペルが1本だと思ってた」
「……上げようか、これ」
 齧りかけのフライドチキンをジュリアに差し出すペル。
 思わずそれにはジュリアも苦笑で辞退すると満足げにフライドチキンを食べているペルを見つめた。
 かわいらしくて、明るくて、人を気遣ってくれる優しさに溢れていて、そのうえ料理も上手。わたし
が男だったらペルと付き合うのにな。
 ジュリアはそんな思いでじっと見つめていると、ペルは恥ずかしそうに顔を背けた。
「食べてるところをそんなにジッと見られると食べづらいよ」
「ペルは何をしてても可愛くていいね」
「……可愛くなんてないもん」
 拗ねるペルが可愛くないわけがなかった。
 だがペルは珍しく反撃に出てフライドチキンの骨をジュリアの鼻先に突きつけて笑った。
「そういうジュリアの方こそ、鼻の頭を日焼けで皮むいちゃうなんて、かわいい」
「ああ、これか。久々にテニスやってね」
 スイレイと。その言葉は飲み込んで鼻を掻く。
 だが不自然に止まったペルの動きに、ジュリアが目を向けた。
 固まった笑みを貼り付けた横顔でペルがそこにいた。
「テニス? もしかしてスイレイと?」
 なぜテニスという言葉だけで分かったのか分からなかったが、嘘をつくのは不自然だと思い、ジュリ
アは頷いた。
「…あ、ペルも行きたかった? だってペルは運痴かなって思って」
 ふざけて言って見たが、強張ったペルの表情を和らげることはできなかった。
 ペルがジュリアの目を見つけた。
 真剣な笑みさえも消えた真っ直ぐな目で見つめられ、ジュリアも言葉を無くす。
「……ジュリア」
「……なに? ずいぶん真剣な顔しちゃって、ヤダな」
 茶化した口調が、だがどこか固くなって浮き上がる。
「ジュリアって……スイレイが」
「え?」
 心臓がドクンと強く打った。
 見開いた目で、ペルの瞳の奥底を覗き込む。そこにペルの真意が書かれていると信じているかのよう
に。
「スイレイのことが好きなんでしょ?」
「……」
 あまりの直球に、ジュリアは何の返答もできずに固まった。
 だが自然と顔だけは血が上って熱くなっていく。
 これは興奮した頭を冷却するために顔や首の抹消血管が開いた結果であって……。
 自分への余計な言い訳ばかりが頭を巡り、ジュリアは口から言葉を発することができなかった。
 何言ってるのよと笑い飛ばすことも、わたしが愛しているのはペルよといつものように誤魔化すこと
もできなかった。
 そんな馬鹿正直な反応に、ペルもびっくりして目を見開いていたが、不意に笑顔を作ると、ジュリア
の頭を撫でた。
「かわいい、ジュリア。……わたしでよければ、応援するからね。ちゃんとスイレイとデートしてたん
だ。もう、わたしには内緒ってわけ? 水臭いな」
 そんなんじゃないよ。スイレイが落ち込んでいるのをわたしが引きずりだしただけだから、スイレイ
はデートに行ったなんてつもりは全然ないよ。
 だがそんな言葉も口から出すことができなかった。
 笑顔のまま、顔を蒼ざめさせていくペルが怖かった。
「わたし、ジュリアの友達だもの。ジュリアの恋の手伝いだってするからね」
 そういいつつ、ペルは不意に立ち上がった。
 いつものペルならありえないポケットに手を入れた姿で、ジュリアの顔を見つめていった。
「あ、ちょっとごめん。お弁当全部食べていいからね。わたし、ちょっとトイレ」
 ジュリアも蒼ざめた顔で頷き、走り去るペルを見送った。
 ベンチの上に残されたお弁当までが、輝きを失ってそこにあった。
 ジュリアはその中からオープンサンドを手に取って口に運んだ。
「……おいしいけど、こんなに一人じゃ食べられないよ、ペル。…無理なんてしないでよ。友達なんだ
から」
 ただペルを追い詰めていくだけで救えない自分が友達だと言っていいのか、ジュリアには分からなか
った。
 スイレイに愛されたい。
 ペルとも親友として隣りにいて欲しかった。
 その両方を手に入れる方法は、永遠に遠ざかってしまったのだろうか?
 ジュリアは涙を堪えると、黙々とお弁当を食べていった。
 味もわからずに、ただ詰め込むようにして。
「おいしいよ、ペル。ありがとうね。…ありがとう。……でもわたし、スイレイも好きなんだよ」
 涙で濡れたパンが塩辛かった。



 駆け込んだトイレで、食べたものが全て逆流して吐き出された。
 意思に逆らって奥底になりを潜めていた本心が噴出したようだった。
 胃が痙攣して、食べた物と一緒に苦痛となる思いまで体内から覗き去ろうとしているかのような反応
だった。
 苦しい嘔吐に涙が浮ぶ。
 便器にしがみ付くようにして胃の内容物を全て吐き出す。
 口中に広がるすっぱい味に涙がポタポタと流れ落ちた。
 ジュリアとスイレイが一緒にテニスに行ったというだけのことではないか。
 頭では分かっているのだが、直感のように感じたものを否定することはできなかった。
 スイレイにとって、わたしなんていう存在はたいしたものではなかったのだ。妹だと分かったら、す
ぐに切って捨てられる程度の存在だったの。
 思い悩んで魂をすり減らすようにしながらスイレイを望んでいたのは、自分だけだったのだ。
 自分がダメならジュリアへとその関心は移っていく。
 スイレイがそんな人ではないと思いながらも、そんな自虐が進んでいく。
 やっぱり自分は誰からも愛されるに値しない人間だったのだ。
 それはそうだろう。
 親友が長く片思いを続けていると知っていながら、スイレイとのデートを楽しみ、今もただ一緒にテ
ニスに行ったと聞くだけで応援するなんていいながら、耐え切れずに吐いてしまうような人間なのだか
ら。
 なんて独占欲と思い上がりなのだろう。
 ペルは全て吐き終わると、トイレを流した。
 キレイに全てが流れ去っていく様子を見ながら、こんな風に自分の中に澱のように溜まってしまった
嫌な感情を全て除き去ってしまいたかった。
 涙を拭おうとして手を顔に持上げた。
 だがその右手が握っているものに気付いて、握り締めていた手を開いた。
 そこにあったのはスイレイがプレゼントしてくれたサクランボのリングだった。
 力いっぱいに握り締められたそれは、歪んで汗にまみれていた。
「……歪んでしまったわたしには似合いだってこと?」
 涙で滲んだ視界の中で、サクランボがコロンと揺れた。
 今日とて意識的にリングを持ってきたつもりはなかった。無意識のうちにスイレイに縋るかわりに掴
んできていたのだろうか?
「……もう、スイレイはわたしなんか用済みだってさ」
 今までどおりの友達。いや、それ以下になったのだ。
 ペルの顔を見るたびに背徳の味を思い出し、嫌な気分を彷彿させる存在に成り下がったのだ。
 きっとスイレイは優しいから口にはしないが、憎むべき存在になったに違いなかった。
 自分さえ目の前に現れなければ、スイレイとていらぬ痛みを覚える必要はなかったのだから。後ろめ
たさを覚えることなく、ジュリアと付き合うことだってできただろう。
 ジュリアにとっても自分はひどく邪魔な障壁になることだろう。
 今の傷を抱えた状態のペルやスイレイを見ながら、楽しい恋人関係をスイレイと築けるわけもなかっ
た。
 親友にとって、もっとも邪魔な存在が自分になってしまったなんて。
「最低」
 ペルはサクランボのリングを手から落として便器の中に流してしまおうとした。
 だが手の平は考えとは裏腹に、その平を反そうとはしなかった。
 ただ震えてばかりいるだけで、滑り落ちそうに揺れ始めるとビクっとして大事そうに抱え込む。
 スイレイに自分を繋ぎ止めておくものは捨て去らなければならない。
 そうは分かっていても、まだそれを行動に移すことは苦しすぎた。
 物も捨てられなければ、心にある想いも捨て去ることはできそうになかった。
 ぺルは情けない打ちひしがれた思いでリングを再びジャケットのポケットにしまうと目を伏せた。
 最低で生きる価値もない人間。
 それでもここに生きている。息をして、心は痛みにうめきを発し続けていた。
「……スイレイ。……ジュリア。……ごめんなさい。……わたしがここに命を受けて生きていて、ごめ
んなさい。ゆるして」
 青い顔をしてトイレから出たペルを、授業がすでに始まってしまった静まり返った学校という空間が
迎えていた。

 
 
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