第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 






 誰も家にいない時間を見計らって、ペルはカルロス邸に荷物を取りに来ていた。
 学校の用具に、一時的に凌げるだけの服。日記帳。
 それらをカバンに詰めると、静かに音をたてないように部屋を出た。
 今は誰とも顔を合わせたくなかった。
 レイリにもスイレイにも。
 顔を合わせたときに笑顔を作る気力もなかった。顔をあわせても何を言ったらいいのかも分からなか
った。
 誰も家にいないのだから気にする必要はないと分かっていても、つい音を殺してつま先立ちで歩いて
しまう。
 締まったドアの前でため息をつき廊下を歩き出す。
 とそのとき、玄関のドアが閉まる音がした。
 大きめの足音が廊下を歩き、階段を上ってくる。
 ペルはカバンをギュッと握ると身構えた。
 軽快に階段を上がる音と一緒に、自分の心臓の音が強く胸を叩いた。
 俯いたスイレイの頭が見えた。
 肩にはテニスのラケットを担いでいた。
 その顔が次第に上がっていく。
 そしてペルの姿を目にした瞬間、驚愕に近い表情で立ち止まった。
「……ペル」
 少し日焼けした赤いスイレイの顔が、苦渋の表情へと変化していく。
 今はまだ会いたくはなかった。
 顔を見ただけで、胸が血を噴き出すかのように痛み、張り裂けそうだった。
 目をそらすこともできずに、お互いに立ち尽くす。
 沈黙が重い重圧として二人の上に覆い被さっていた。
 空気は酷く張り詰め、淀んだ色に身動きも取れない。
 カバンを持つ手が震えているのに気付いて、ペルは震える息を吐き出した。
 そして無理やりに笑みを浮かべる。それだけで、酷い徒労にやるせなさが押しよせた。
「テニスに行ってきたの?」
「……ああ」
「スイレイはテニス上手だもんね」
 スイレイはペルの笑みに痛いものを見たように目をそらすと頷いた。
「……ペルは、…大丈夫なのか?」
「……うん。マリーおばさんじゃなくて、お母さんだって分かったんだから。普通はお母さんと暮らす
もんなんだし」
 言葉を重ねれば重ねるほど、まるで自分の吐く言葉から毒が染み出ているかのように痛みが増していく。
 そらされたスイレイの目が苦しかった。
 あんなに輝いていた横顔が、暗く影を落としている。
「……レイリおばさんには、後で挨拶に来るって言っておいて」
 ペルはスイレイの横を通り過ぎようと足を踏み出した。
 スイレイは微動だにせずに階段の中ほどで立っていた。
 ペルはスイレイの姿から目をそらすと階段を一段一段下りていった。
 一歩下りるごとに視界に入るスイレイの姿を視界の中から消し、体に感じる気がするスイレイの体温
を錯覚だと決め付ける。
 眉間に入りそうになる力を意識して抜き、震える口元を唇を噛みしめて堪える。
 スイレイと同じ段に立ち、通り過ぎる。
 スイレイの視線が反らされたままであることは分かっていた。
 会いたくはないと思っていたはずなのに、スイレイの意思によって反らされた視線が心に杭のように
突き刺さる。
 スイレイは声をかけてはこない。
 きっと実の妹に恋心を持ってしまったことに罪悪すら感じているのだろう。触れた唇さえも穢れてし
まったかのように。
 ペルは目を瞑ると、最後の段を下り玄関へと向かって歩き出した。
「……ペル」
 頭上からした声に、ペルは足を止めた。だが振り返りはしなかった。
「もう、ここには帰ってこないのか?」
 先ほどまでの重く沈んだ声ではなかった。
 どこか悲痛な訴えを乗せた静かな声に、ペルは首を横に振った。
「ここにいる理由が…ない」
 ペルはそれだけを言うと歩きだした。
 まるで自分へ宣告を下したように、足早に玄関へと向かった。
 スイレイは追っては来なかった。
 もうわたしたちの間にできてしまった深く底の見えない溝を埋める方法はないのだ。
 目頭が熱を持ったように熱く、痛かった。
 きっと血の涙が流れているにちがいない。
 荷物を持った手に力をこめて歩き出したとき、何かが足元に落ちたのに気付いた。
 カバンのポケットに入れていた日記帳が、アスファルトの上で開いていた。
 自分の書いた最後の日付のページが開く。
 そこにはまるで夢幻の世界を生きていたのではないのかと思うほど、希望に満ちた文字が並んでいた。
 虹色の花々とともに書き込まれたスイレイとのデートへの思い。
―― 少しでもスイレイと釣りあう様に、化粧をして行こうと思う。
 ジュリアに化粧を教わっておいてよかった。ジュリアがかわいいといってくれたピンクのシャドウを
使って、スイレイにもらったネックレスもつけて。
いつもの格好では恋人というよりも妹に見えてしまうから、今から考えないと!
 でも本当にスイレイに好きだと言われるなんて、夢でも見ていたんじゃないのかな?
スイレイはたくさん好きだと言ってくれる。だから夢ではないよね? 
好きって言われると、いつも恥ずかしくてたまらないのだけれど、すごく嬉しい。
だから、わたしも恥ずかしいけれど、ちゃんと伝えたいと思う。
 ちゃんと目を見て言うんだ。
「スイレイのこと、世界で一番大好きだよ」って。



 たった一日で世界が崩壊した。
 一日前に生きていた世界と、今息をするだけでも苦しいこの世界が同一のもとは思えなかった。
 結局スイレイに自分の気持ちを伝えることはできなかった。
 持つことさえ禁じられた気持ちだったからなのだろうか?
 スイレイを男として愛してしまった気持ちが罪なのだろうか?
「スイレイ……」
 自分の出した縋るような音に、唇を血が滲みそうなほど強く噛みしめた。
 日記帳の上に大きな雫が落ちる。
 ポタポタと音を立てて落ちる涙の雫の下で、日記の文字が滲んでいく。
 スイレイのことが世界一好きだと書いた文字が滲んでいく。
 文字さえもこの世から消し去らなければならないとでも言うように。
「スイレイのことが……世界で一番好き……いまでも……」
 ペルは立ち尽くしたまま口をついてでた嗚咽に口を押さえた。
「……どうしたらいいの?……ねえ、どうしたら」
 ペルは断ち切られたスイレイとの絆を手繰り寄せて、スイレイを好きでいていい理由を捜した。
 だがそんな理由はどこにも見当たらなかった。
 断ち切られた絆を結びなおすことは、永遠に不可能なのだ。


 二階の窓からペルの姿を見下ろしていたスイレイは、足を止めたペルの姿に窓ガラスに手をついた。
 震える肩で荷物を落とし、口を押さえて泣いている。
 窓ガラスの上で拳も握り、スイレイは激しく葛藤する思いと戦っていた。
 今すぐに駆け寄って抱きしめたかった。
 ペルを泣かせたくはなかった。
 側にいて守ってやりたかった。
 ペルは妹。
 永遠に断ち切ることの出来ない家族という絆を手にいれたのだから、悲しむことなんてないはずだ。
 そんな風に自分に言い聞かせていた。
 だがいざペルを目の前にすると、そんな詭弁は功を奏さなかった。
 自分が求めているペルとの絆は、兄妹なんかではない。
 隣でただ微笑んでいてくれればいいなんて思えなかった。
 自分の腕の中で抱きつぶしてしまいたくなるほどに、愛しい存在だった。
 心の奥底にまで触れたい。
 欲しいのは血の繋がりなんかではない。心のつながりだった。
 何より愛しているという情熱だった。
 ペルが道路から何かを拾い上げると、逃げるようにして走り去っていった。
 その後ろ姿を見守りながら、唇を噛みしめた。
 きつく握った拳が震え、壁を殴りつけていた。
 拳に感じる痛みよりも心が痛かった。
 ペルを守れない、ただ傷つけるだけの存在になりさがってしまった自分が情けなかった。
 心はペルを求めているのに、体がペルの手を取ることを躊躇って動こうとはしてくれなかった。
 必死に自分に語りかけてくれていたペルから目を背け、ただ時が過ぎるのを待っているだけのように
沈黙を守るだけだった。
「くそ! ……なんで」
 スイレイは何度も繰り返し、そのたびに言っても詮のないことと分かっていながら、口にせずには言
われない言葉を吐いた。
「なんでペルがぼくの妹なんだ。……なんで愛してはいけない!」
 スイレイは開いてみた手の平で顔を覆った。
 手の平から一度は感じたペルの体温が消えようとしている気がした。
 
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