第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 




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 玄関のチャイムが鳴ったのを聞きながら、スイレイはベットの上で寝転がっていた。
 レイリには明日には元気になるとは言ったものの、昨日の夜は悶々と頭の中を取りとめのない考えや
思いが過ぎってばかりで、焦燥に焼かれた心はなかなか眠りを許してはくれなかった。
 誰かが階段を上ってくる。
 思わずベットから頭を起したスイレイは足音に耳をそばだてた。
 ペルか?
 今帰ってこられても、どんな顔をして何を言ってやればいいのか分からない。それでも、心の底では
正直にペルの顔を見たいという思いが頭をもたげていた。
「スイレイ?」
 だが聞こえてきた声はペルのものではなかった。
 安心と同時に深い失望が湧き上がる。
 スイレイはベットに再び寝転がると返事だけは返した。
「開いてるよ」
 ドアの向こうから顔を出したのは、ジュリアだった。
 一瞬スイレイの顔色を窺うように見たジュリアだったが、目が合うと笑顔を見せて勢いよく部屋の中
に入ってきた。
「何のん気に寝転がってるのよ。いい若いもんが」
 いつもの叱咤をしてくれるジュリアが、ありがたくも今はうっとおしくもあった。
「たまにはだらけたい事だってあるの」
 スイレイはジュリアにベットの上で背を向けた。
 その拒絶とも取れる態度にスイレイは背後のジュリアの気配を探った。
 だがそのスイレイの尻を、ジュリアが蹴っ飛ばした。
「甘えるな! そら起きろ!」
 げしげしと蹴るジュリアに後ろを振り返れば、短いスカートの下のパンティーが丸見えだった。
「おい、パンツ丸見えだけど」
「これは見せパンだからいいの。この格好みてわからないわけ? スコートにラケット」
 ジュリアは背中に背負っていたラケットをスイレイに掲げて見せる。
「テニス?」
「そう。コートは予約してあるから行くよ」
「ジュリア、もう運動なんてしていいわけ?」
「手術後の鈍った体を動かしたいからテニスしたいんだけど」
「……それだったら、なにも相手はぼくでなくてもいいでしょ。友達でも」
「……それは嫌味? わたしにろくな友達いないの知ってるくせに。それとも色目ガンガン使ってくる
男どもにこの色気たっぷりの足を拝ませてやれっていうわけ?」
 スコートの下に伸びた長く白い足を示し、ジュリアが偉そうに胸を張る。
 その足をしげしげと見るスイレイに、ジュリアがちらりとスコートを捲ってみせる。
「それともスイレイもわたしの生足に欲情しちゃう?」
「バカいうな」
 気分を害したとばかりに再び背を向けてベットに倒れこむスイレイの尻を、ジュリアがラケットで叩
く。
「早く、早く、早く!! わたしはスイレイとテニスがしたいの!」
 駄々っ子のように叫ぶジュリアに、スイレイはため息交じりで起き上がる。
「わかったよ。テニスでもなんでもしますよ!」
 面倒げに言ったスイレイに、ジュリアが笑顔を見せる。
「だったら早く着替えて!」
 ジュリアはスイレイに指示を出すと、部屋の外へと出て行く。
「全く、わがまま娘め」
 だがそう悪態をついてTシャツを脱ぎながら、スイレイは少しだけ痛みが軽減している心に気付いて
苦笑した。
 ジュリアはジャスティスの娘だ。何も聞いていないということはないだろう。だからこそ、わがまま
を装ってここに来たのだ。自分を励ますために。
 スイレイはドアの向こうに立っているだろうジュリアを思って見つめた。
 そして口の端に小さく笑みを乗せる。
「ありがとな」



 相手が女、しかも病み上がりであることを考えて軽く打ち返したスイレイは、鋭く切り返された球に
思わず走らされて辛くも拾う。だがそれを狙っていたかのようにスマッシュを打ち込まれ、黄色い硬球
が背後に転がっていく。
「やるじゃないか」
 思わずお遊びと思って舐めていた顔が、本気モードに切り替わりそうになる。
 ポケットから新たなボールを取り出したところでジュリアがニヤリと笑う。
「女と思って舐めてもらったら困るわね。わたしだって幽霊テニス部員ですからね」
「威張って言うことか!」
 少し強めのショットにボールが高い音を立てる。
 それをジュリアが乾いたいい音を立てて打ち返してきた。
 軽くロブで返そうかとも思ったが、挑発的なジュリアの視線を感じて高い打点で叩きつけるように打
ち返す。
 軽く回転をかけた球に、予想とは異なる球の動きになる。
 ジュリアはボールを追ったが取れそうにない球に足を止める。
「早くも本気モード?」
「まだまだ序の口」
 担いだラケットでトントンと肩を叩けば、ジュリアの顔に悔しげに眉間に皺を寄せられる。
「じゃあこっちも本気でいかせて貰うわ!」
 負けず嫌いに叫ぶと、ルールなど無視でジュリアがサーブを打ちに下がる。
 高くトスしたボールを、撓らせた体で打ち込んでくる。
 そのボールをスライスしながらカットすれば、逆回転のかかったボールはあまり跳ねずに転がり出そ
うとする。
 それをすくい上げたジュリアに、すでにボレ―の位置に着いていたスイレイの姿が入ったが遅かった。
 すくい上げたボールを見もせずに、悪いねとでもからかう表情で、スイレイがジュリアとは反対方向
にポトンと落とす。
 意地になってそのボールを追ったジュリアだったが、間に合うはずトントンと跳ねて転がっていって
します。
「ああ悔しい!」
 叫び声を上げるジュリアに、スイレイは爽快だと笑い声を上げる。
「幽霊部員なんてやってなきゃ、もっとうまくなっていたんだろうに」
「うるさい! スポーツに青春を燃やす趣味はわたしにはないのよ」
「文武両道が出来ない奴の言い訳」
 笑いながら指を指されて言われたジュリアは、言い返そうと口をパクパクさせたがうまく言葉が出ず
に舌打ちした。
「はいはい、ジュリアは美人なんだから、そういうはしたないことはしないこと」
 スイレイの忠告にフンと鼻を鳴らしたジュリアが背を向けて歩いていく。
 そして不意に足元に転がっていたボールを拾い上げると、サービスの位置について予告なしてサーブ
を打った。
 ネットのところに立っていたスイレイに肉薄したボールに、慌てて背を向ける。
「痛えなあ」
 ボテっと当たったボールがスイレイのコートに落ちる。
「やったー!! ジュリアの勝ち!」
 一人勝どきの声を上げて飛跳ねるジュリアがいた。
「そんなズルあるか」
 だがスコートの裾をヒラヒラさせながら嬉しそうに飛跳ねている姿が、子どもの頃と変わらないこと
にスイレイは思わず苦笑した。
「おまえはちっとも成長してないな」
「はぁ? ちゃんと成長してますけど。こことか」
 胸を突き出してみせるジュリアに、スイレイは口をあんぐりさせる。
「おまえなぁ。いつもそんなことしてるんじゃないだろうな」
「まさか。スイレイにだけの特別サービス」
 ウインクして見せたジュリアがラケットでボールを拾い上げる。
 その姿にスイレイは再びボールを打ち込まれるのを予想して後ろに下がる。
「お、学習能力?」
「そう何度もズル勝ち宣言されては堪らないからな」
 ジュリアが不敵の笑みを浮かべてスイレイを見る。
「じゃあ行きますことよ、すてきなお兄様」



 無難なラリーの応酬にしては鋭い打ち合いの果てに、両者息を切らす。
「ちょっと休憩」
 スイレイが先にラケットを上げて合図を出した。
 ベンチの上で荒い息をつきながら、二人並んでベンチに座り込む。
「…スイレイ……このぐらいで根をあげるなんて鈍ってるんじゃない?」
「……高校出てから運動らしい…運動してないしな」
「…腹出ちゃいますよ」
 今はまだよく締まった平らな腹を手で押さえながら、スイレイが思案顔をしてみせる。
「中年太りはまだ早いからな」
「そんなスイレイは見たくない」
 本気で顔をしかめるジュリアにスイレイが苦笑した。
 ジュリアは持参していたバスケットからスポーツ飲料を入れた水筒を取り出すと、一つをスイレイに
手渡した。
 よく冷えた液体が体の中に染み渡り、それだけで生き返った気分になれる。
「ああ、うまいな」
 ストローで吸い込んでいたジュリアも、その一言に笑みを浮かべる。
「わたしも久しぶりの運動で楽しかった。卵巣とかとると太ることがあるって言われて本当は戦々恐々」
 その一言でジュリアのした手術のことが頭に上り、スイレイは一瞬言葉を飲み込んだ。
「……傷のほうは大丈夫なのか?」
「うん。見てみる? ちょっと下だからココで見せたらやらしいしてるカップルに見えるかもだけど」
「いや、結構」
 スイレイは慌てて顔の前で手を振る。
「痛くないならいいや」
「うん。痛くないよ。でも……ちょっと傷は怖くて見れないんだ。惨たらしい傷だったらどうしようか
なって」
「……風呂入るときも見ないの?」
「目を瞑ってね。お医者さんも看護士さんもきれいな仕上がりだよって言ってくれてたけど。でも一般
人から見たらどうか分からないよね」
「……見てやろうか」
「え?」
 さっきは自分で見せようかなどと言っておきながら、本気で驚いた顔でスイレイの顔を凝視した。
「だから他の人から見て傷が不快なものなのかが心配なんだろ。ぼくだったら、絶対にそんなものでジ
ュリアを嫌いになるなんてことはありえないんだからさ。…ああ、もちろんいやらしい意味もないし」
 ジュリアの目が躊躇いの中で揺れ動いていた。
「別にあえて見たいというわけではないんだけどさ」
 フォローで言ったスイレイの目の前でジュリアが立ち上がった。
 そしてスイレイのまん前に立つとTシャツの裾を捲った。
「見て」
 だがそう言った本人はぎゅっと目を瞑っている。
「そんなに力いっぱい目を瞑らなくてもいいんじゃない?」
「いいの」
 スイレイはジュリアの服の裾に手をかけながら、一応周りを見渡した。
 誰もいない。
 自分にその意思がなくても、女の子の服に手をかけていること自体に恥ずかしさがこみ上げるのも事
実だった。
 何考えてるんだ。相手はジュリアじゃないか。
 スイレイはそっけない素振りでジュリアの服に手をかけた。
 そっと中をのぞいてブラジャーが見えた時点で、ああ下かと自分の思い違いの行動に酷く後悔する。
 なんだか心臓がドキドキしていた。変な下心があるみたいじゃないか。
 自分の心臓に叱咤すると、スコートにウエストに手をかける。
「スコートの下なの?」
「そう」
 相変わらず目を瞑っているジュリアの顔が、下から見上げるとおかしくて思わず吹き出しそうになる
のを抑える。
 スコートと手前に引いて中を覗くが白いつるりとした腹の肌が見えるだけだった。
「傷なんてないけど」
「もっと下」
「下? …スコートが邪魔で見えない」
 そう言うと、ジュリアは躊躇いも見せずにスコートのウエストを外した。
「……」
 見るなんていわなければよかった。
 後悔の中で、スイレイはスコートをずらして傷を捜した。
 腰骨が露わになった時点で、思わず手が震え上にあるジュリアの顔を見上げた。
「見えた?」
「まだ」
 目をつぶったままのジュリアに気付かれないようにため息をつくと、そろそろとスコートを下げた。
 白い下着の裾から赤い引き攣れた傷が見えていた。
「あった」
「どんなかんじ」
「まだ新しい傷だから赤いけど、きれいな方だよ。別に醜くないよ」
「本当?」
「うん」
 ジュリアが目を開くと、恐る恐ると自分の傷を見下ろした。
 下着の下に隠れていた傷も露わにすると、わずか数センチの傷であることも分かった。
「なんだ。こんなもんなのか」
 指で傷の盛り上がりを撫でながら、ジュリアが緊張していた声で言った。
「はぁ〜、よかった」
 そう言って目があったスイレイに、目を向けてから笑った。
「スイレイ、顔赤い」
「うるさい」
 スイレイは目の前のジュリアの体を押しやると水筒のスポーツ飲料に口をつけた。
「わたしの体、きれいでしょ?」
「……黙秘します」
 そっぽを向いたスイレイにジュリアが余裕の笑みを浮かべてスコートのウエストを止めると、隣に座
った。そしてスイレイの肩を抱くと耳元に顔を寄せた。
「わたしの体が必要になったらいつでも言って。今日のお礼はさせてもらうから」
「バカか」
 そのジュリアの頭を押しやりながら、スイレイはますます顔を赤面させた。
「うそだよ」
 ジュリアはスイレイの手の下でもがきながら、スイレイに抱きつこうとして手を伸ばした。
「全くお前ってやつは、いつからそんなに下品になったんだか」
 手の下で子犬のように手をバタバタさせるジュリアに観念して手を離せば、ジュリアがすぐに腕に抱
きついてくる。
 抱き枕に顔を寄せるように擦り寄ってくるジュリアを見下ろしながら、スイレイは心を占めているも
う一人の女の子のことを思った。
 今ごろペルはどうしているのだろう? 
 自分ひとりがこんなところで楽しんでいていいのだろうか?
 今ごろペルは、ローズマリーのいない部屋の中でたった一人で泣いているのかもしれない。
 スイレイはジュリアを見下ろす。
 目の合ったジュリアが「なに?」と目で訴えかけてくる。
「……ペルに…会ったか?」
 ジュリアの体が、ペルの名前に強張る。
 だがそれも一瞬のことで、何も知らないことを装って笑顔になる。
「ううん。昨日会おうって約束してたんだけど、ペル来なかったんだ」
「そうか。……今、ローズマリーのマンションにいるらしんだ。会いに行ってくれないか?」
「……うん。わかった」
 お互いの間にできてしまった秘密ごとのうちで、語れる言葉は少なかった。
 沈黙が下りていく。
 ジュリアはスイレイから体を離すと、腕時計を見た。
「もうお昼だね。実はね、わたしからスイレイにプレゼントがあるんだ」
「プレゼント?」
 ジュリアがバスケットを開けると、中から大きな包みを取り出して手渡した。
 銀色のランチシートに包まれた固まりが、手にずっしりと重かった。
 意外なほど照れて顔も上げないジュリアを見ながら、スイレイはランチシートを開けてみた。
 中から出てきたのは、不恰好でやけにでか過ぎるハンバーガーだった。
 いやに分厚いハンバーグの挟まったパンからは、ケチャップとマスタードがはみ出していた。
「これ、ジュリアが作ったのか?」
「……うん。お父さんの真似したんだけど、うまくいかなかった。捨てようかと思ったけど、もう新し
く作る時間もなかったし」
 朝早く起きて台所をめちゃめちゃにしながら料理をしているジュリアの姿が目に浮んだ。
 きっと片付けはジャスティスの仕事になったことだろう。
 どこから口をつければいいのか分からないほど大きなハンバーガーだったが、スイレイは思い切りよ
く齧りついた。
「……どう?」
 心配そうに見るジュリアの視線を受けながら、スイレイはハンバーガーを租借した。
 生に近い玉ねぎがシャリシャリと音を立てて辛い。
 だが思いの他、味は悪くはなかった。
「…うん。おいしい」
「本当?」
「うん。玉ねぎはちょっと生だけど」
「それはうちの伝統なの。お父さんがこうやってハンバーグ作るんだもん」
 そういいつつ、ジュリアは自分のハンバーガーを食べて顔をしかめた。
「でもちょっと生過ぎるかも」
 口の横にケチャップを付けながら顔をしかめるジュリアを、スイレイは笑顔で見つめた。
 ジュリアなりの心遣いが溢れていて、スイレイは胸が温かくなっていくのを感じた。
 外に現れる表現の仕方は違うけれど、ペルもジュリアも、持っている優しさは同じだった。
 ジュリアを好きになっていたら、どんなだったのだろう?
 一瞬頭を過ぎった考えに、スイレイは自分で愕然とした。
 こんなことを考える自分が許せなかった。打算で人を愛そうとするなんて、もっとも軽蔑すべきこと
だった。
 今はまだどうすることも出来ない血を流し続ける心の中で、ペルへの苦しい思いしか見えない。その
気持ちにきっちりと落とし前をつけるまでは、逃げてはならないのだ。
 スイレイの沈んでいく思考に気付いたのか、ジュリアが黙ってスイレイを見つめていた。
 スイレイはジュリアの顔に手を伸ばすと、口の横のケチャップを拭った。
「子どもみたいだぞ」
「……いいの、こどもで」
 無邪気な笑顔で笑ってハンバーガーにかじりつくと、口の周りじゅうがケチャップだらけになる。
「ま、いいか。ぼくとジュリアだけだしな」
 スイレイもハンバーガーにかじりつくと、冷たい感触が口の周りにつく。
「スイレイ、ドラキュラみたい」
「自分だって」
 二人は相手の顔を指差しながら笑いあう。
 秋の高い空の下で、子どものような笑い声をこだましていた。
 仲のいい兄妹のように見える二人に、通りかかった人たちも、微笑ましい光景を見下ろしていた。

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