第三章   スパイス オブ ラブ 





 ペルは机の上に一つずつ大切な宝物を並べていく。
 スイレイに貰ったチェリーのネックレスと指輪。
 今日貰ったどんぐりのペンダント。
 ジュリアとスイレイと三人で行った遊園地で撮った写真。
 目線を上げれば、遊園地に行くときに貸してもらったジュリアのワンピースがあった。ペルに似合う
からと、ジュリアがそのままプレゼントしてくれたのだ。
 他にも二人に貰った物はたくさんあった。
 何よりも感謝しているのは、ペルに惜しみなく与えてくれた愛情だった。
 もう昔のように自分の手を見下ろして虚しい気持ちになることはなくなった。
 誰も握ってくれなかった小さな手は、今はジュリアとスイレイと繋がっていた。
 誰かと常に繋がり、触れ合えることは、ペルに大きな自信を与えてくれた。ここに生きていていいの

だという自信を。
 ジュリアにもスイレイにもどれだけ感謝しても足りない。
 だがその二人との関係が変容しつつあるのも事実だった。
 ペルは写真を手に撮って見つめた。
 ペルを真ん中にして、ジュリアとスイレイが立っていた。
 ペルの持っていた風船に顔を寄せてキスの真似をしているジュリアと、そんなジュリアをあきれた目
で見ているスイレイ。
 この時のジュリアを思うと、ペルは心に重い錘が落ちたような息苦しさを覚えた。
 スイレイを何年も片思いしているのだろうジュリア。
 だからこそ、手術を目前にした状態で無理を通してでもスイレイとデートに出かけたかったのだ。
 その気持ちが、今のペルにはよく分かった。
 女の子として胸を張れる状態で、スイレイの隣りに立っていたい。
 そんな健気な思いを知っていながら、ペルは自分の思いも断ち切れずにいた。
 自分に言い訳をしては、スイレイの横に立つ。
 テスト勉強を毎日一緒にやりながら、浮き立つ心を無視して、スイレイに勉強を教えてもらうのは初
めてではないのだから、特別な意味はないと自分に言い聞かせる。
 そう思いながら、何度となく説明してくれるときのスイレイの細い指の美しさと横顔に見とれて、ス
イレイに苦笑されたものだった。
「ぼくに見とれてくれるのは嬉しいけど、それは次の機会にね」
 そう言われて、何度教科書に目を落としたことか。
 今日にしてもそうだ。
 手紙にはデートとはっきり書いてあるのに、これはテスト勉強をがんばったわたしへのスイレイのご
褒美であって、ちょっと二人で遊びに行くだけよと言い訳する。
 だが、もう言い訳はしようがなかった。
 スイレイの隣りに立つだけで、その体温を腕に感じてしまう。
 何度もスイレイに触れたくなる。
 一時といえども離れていたくないと感じるもどかしい気持ちは、誤魔化しようがなかった。
 初めて知った恋心に、ペルは振り回されるばかりで、その幸福感に酔うよりも苦しさに窒息してしま
いそうだった。
 どうしたらいいのだろう?
 ペルは棚の上に置いてある時計に目を向けた。
 夜の10時半をもうすぐ指そうとしている針に、ペルはジャック・インのためのジャックを手に取っ
た。
 その時間に〈エデン〉でスイレイと待ち合わせをしていた。
 スイレイの唇が触れた頬に手を当てる。
 そしてスイレイが意味深に言った言葉が脳裏に繰り返しリフレインしていた。
 今から〈エデン〉にスイレイに会うために行くことは、自分の意思なのだ。
 ジュリアへの後ろめたさが胃の奥で黒い塊となってあった。
 でもその後ろめたさを上回って焦燥のように、スイレイを求める自分がいた。
 スイレイの隣りにいることの安心感。昂揚感。そして自分も同じように求められているという歓び。
「ジュリア、ごめんね」
 ペルは小さく写真の中のジュリアに呟いた。
 おどけた顔で映るジュリアの顔が、ペルには辛かった。 

 〈エデン〉は夜から朝へと変わろうとする濃い闇の中にあった。
 月明りを受けた砂浜に、スイレイの後姿を見つけ、ペルは静かに近づいていった。
 海の波の上に月が滲み、揺れ動きながら溶け出している。
 柔らかい砂に足を取られながら、ペルが音を立てないようにスイレイの背中に近づく。
 じっと海を見つめて砂浜に座り込んでいるスイレイの背中に飛びつくようにして抱きつく。
 そんなペルを、スイレイは分かっていたかのように腕を回して抱きしめる。
 そのまま砂浜に倒れ込むと、スイレイはペルを仰向けに抱き寄せ、月明りの中でバラのつぼみのよう
に浮かび上がる赤い唇に唇を寄せる。
 ペルはそれを目をつぶって受け入れた。
 波の音がすぐ側で寄せては返す。
「ペルのために作ったものがあるんだ」
 スイレイはペルを上から見下ろしながら言った。
「作ったもの?」
「そう。こっち来て」
 スイレイは立ち上がって砂を払うと、ペルの手を引いて歩き出した。
 そして海辺に立っていた木の下までくる。
 そこにはロープと木の板をつないで作ったブランコが出来ていた。
「ブランコだ!」
「乗ってみてよ」
 ペルが乗る間後ろからロープを押さえてくれるスイレイが、板の上に腰を下ろすとそっと背中を押し
てくれる。
 ふわりと舞い上がる感覚に、ペルはロープをギュッと握り締めた。
 子どもの時以来の遊戯に、高く上がっていくブランコの上で声を上げて笑う。
「スイレイー」
 意味もなく下で自分を見上げてくれているスイレイに声を掛けて手を振る。
 ペルは一旦ブランコを止めると、まるで子どもが遊ぶのを見守る父兄のようなスイレイの手を引いた。
「一緒に乗ろうよ」
「え? そんな強度があるかは保障できないんだけど」
 そう言いつつ、立ち上がったペルの代わりにブランコの板に腰掛けると、膝の上にペルを抱きかかえ
た。
 二人の重みに木の枝がミシっと音を立てる。
「……しなったね」
 二人で木の枝を見上げる。
「絶対折れるな」
「じゃ、ちょっと揺らすだけね」
 ペルはスイレイの腰に手を回してしがみ付く。
「コアラの子どもみたいだな」
「じゃあ、スイレイがコアラママだ」
「ママかい?」
 苦笑するスイレイが少しブランコを揺らす。
 木のしなりが大きくなり、それだけでペルが悲鳴を上げる。
「ペルはさ、あまり子どもの頃の話をしないだろ?」
 耳をつけたスイレイの胸から直接響き声が言った。
 その声に上を見上げたペルは、遠くの海を見つめているスイレイを見た。
「あんまりいい思い出がなくて、それゆえにぼくやジュリアに引け目があるように昔から感じてた」
「……」
 ペルは自分でも意識していたわけではない心の奥を言い当てられた気がした。
 子どもの頃の話を楽しげにしているのを聞くのは嫌いではなかった。自分もその中の一員として遊ぶ
姿を想像して楽しめるからだ。
 だがいつ自分について話が振られるかわからないという思いが、底にはあった。だから子どもの頃の
思い出話を始めると、自然に足は違う方向を求めて歩き出していた。
 ジュリアやスイレイはそういう話を振ってくることがないので、安心していた。
 ジュリアが話す子供時代の思い出話は話し上手も嵩じてとてもおもしろかった。だが聞きながら自分
の小さい頃との違いと比較しなかったわけではない。
 あちらこちらと居場所を変え、自分に無関心なローズマリーと何年もの間をともにすごしてきたのだ
から。
 自分に笑いかけてくれないローズマリーの機嫌を伺い、次第に卑屈になっていく自分に嫌気がさした
子ども時代をすごしたのだ。
 そんな嫌悪を抱えて子どもとして時を過ごす人間がどれだけいるのだろう?
 子ども時代を思い出すと、そんな卑しい自分がはみ出してくる気がして避けていたのだ。
 それをスイレイは感じとっていたのだろう。
「……ペルにとって言われたくないことかもしれないけど」
「ううん。ちゃんとわたしを見てくれてたんだなって、スイレイの観察眼に畏れ入ってただけ」
 笑って言うペルの頭をスイレイが撫でる。
「子ども時代にペルに体験してこれなかったことを、一緒に追体験できたらいいなって思ったんだ。一
緒にブランコに乗ったり、砂遊びしたり」
「肩車したり?」
 ペルはスイレイがしてくれた肩車でみた光景を思い返した。
 高い視点の中でみた景色が、なんだか自分を偉くしてくれたような気分のよさをもたらしたのを思い
出す。
 自分を支えていてくれる力強い手の感触と、世界を見下ろす感覚。
 子どもはその気持ちにどんなに喜びを感じることだろう。
「ペル、見てごらん」
 スイレイが海の方を指差す。
 そこには黒い海の下から浮かび上がってこようとしている太陽の燃えるような光があった。
「日の出だね」
 ペルは穏かな気持ちでその光景を見守った。
 水平線の彼方まで弧を描いて広がっていく太陽の光に、波が金色を帯びて揺れ動く。
 大きな太陽の球が海の中から誕生する。
 その誕生に、地球が喜びの声を上げたように、朝の目覚めを迎えていく。
 大気が暖かく太陽を抱きしめる。
 幾重にも重なる柔らかな大気の襞の中で、太陽が大きく産声を上げて空へと昇っていく。
 ペルは自分の体を覆うスイレイの温かさに身を預け、微笑んだ。
「スイレイ」
「ん?」
 スイレイがペルを見下ろす。
 安心感に包まれた子どものようなあどけない顔が、スイレイの胸にもたれかかっていた。
「ありがとう」
「うん」
 眠りにつくように目を閉じたペルを、スイレイは優しく抱きしめた。


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