第三章   スパイス オブ ラブ 


1

 静まり返っている階下の様子が気になり、ペルは二階の部屋から階段を下りていた。
 暗くなった玄関に明かりはなく、真っ暗闇の中に沈んでいた。
 電気のスイッチを入れれば、玄関に飾られた大ぶりな白い花たちが輝き出す。
 玄関の黄色がかった光がペルは大好きだった。
 ここが自分の居ていい、暖かい場所なんだという気持ちになれるからだ。
 冬の朝早くに起きたときに見えるこの黄色い光が、特に大好きだった。
 早起きのレイリがオレンジ色にさえ見える光を身にまといながら、湯気の上がる洗濯機を回している
姿で「おはよう」といってくれるのが、最高に幸せな瞬間なのだ。
 この家に来てまだ落ち着かない頃は、よく眠れずにトイレに起きてばかりいたが、朝の寝ぼけた目で
起きてきたペルを、レイリはよく抱きしめてくれた。
 あの柔らかい体で抱きしめられ、エプロンに染みこんだ石鹸の匂いと、朝食に焼いたパンの甘い匂い
は、その腕の中で眠りに落ちたくなるほど安心感に満ちたものだった。
 レイリの生けていった花瓶のたくさんの花に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。
「う〜ん、幸せ」
 そのとき、別の香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
 これは明らかにおいしい匂い。
 ペルは匂いのするキッチンの方へと歩いていった。
 リビングと一体化したキッチンから、煌々と明かりが漏れ、勢いよく何かを炒める音が聞こえてきて
いた。
 食欲をそそるニンニクの匂いが濃厚に漂ってくる。
 カウンターの向こうのキッチンを覗いたペルは、炎が出るフライパンを振るうスイレイを見た。
「何してるの?」
「おお、ペル。できたら呼ぼうと思ってたんだ」
 スイレイが器用に玉ねぎを炒めながらフライパンを振るっていた。
「レイリおばさんは?」
「今日から親父とちょっとラブラブ旅行に出てきますってさ。手紙があった。だから夕飯はぼくが作っ
てみようとね」
「何作ってるの?」
「カレー」
 カウンターにはなにやらたくさんのスパイスや野菜、肉が並んでいた。
「手伝う?」
「いや、実はなんでも一人でやりたい口なんで。でもサラダだけは作ってもらおうかな?」
「いいよ」
 ペルはスイレイと並んでシンクにつくと、野菜を洗い始めた。
 並んでいるのはレタスにトマト、バジル、玉ねぎ。
「ねえ、モッツァレラチーズある?」
「あるよ」
 スイレイが背後の冷蔵庫を顎で示す。
「この前食べたサラダを再現してみようと思います」
 ペルも張り切って腕まくりする。
 薄くスライスした玉ねぎは洗いながら水に晒す。
「オニオンスライスって実は大好物」
 涙を流しながら玉ねぎを切ったペルに、スイレイが笑いかける。
「うん。この目の痛みさえなければいくらでも切ってあげるんだけどね」
「水中眼鏡したら?」
「うん。今度そうする」
 ぽろぽろと零す涙に、二人は顔を見合わせると笑った。
「スイレイのこだわりカレー?」
「うん。スパイスから自分で混ぜてみます。たっぷりハーブ入りのチキンカレーね」
 自慢げに胸をはるスイレイに、ペルが目を輝かせる。
「おいしそう!!」
 大量のトマトを投入しているスイレイの横から覗き込んで、ペルが鼻をヒクヒクさせて香りをかぐ。
「これは何?」
 そしてスイレイの横に置かれていた袋の中の大量の黒い種に気付いて持上げた。
「それはクミンシード。最初にそれを鍋で炒めたんだけどね、それだけでもうインドの匂い?」
「へえ〜」
 喋りながら、スイレイがオレンジジュースにトマトジュースと、たくさんのものを鍋に投入していく。
 明らかに二人分ではない大量に鍋の中で出来上がっていくカレーに、ペルは絶句した。
「すっごい沢山できたね。誰かくるの?」
 ちょっと遠まわしな多すぎるというペルの言葉に、スイレイのカレーをかき回す手が止まる。
「確かに多いな。本の通りにやったもんだから」
「何人前で書いてあったのかな?」
「8人前? かな」
「……ジュリアも呼ぼうか」
「……そうだな」
 サラダのガラスボウルを出しながら、ペルが電話を手に取った。
 数コールで出たジュリアに、夕飯食べにおいでと誘う。
「うん。いくいく。食達者なジュリアが批評してやるって言っといて。取っておきのDVDも持っていく
ね」
 電話を切ってジュリアの言葉を伝えると、スイレイが苦笑しながらも、味見をして自信たっぷりに親
指を立ててみせる。
「ジュリアの批評もドンと来いだ」
「会心のでき?」
 スイレイがもちろんとうなずく。
「わたしもサラダ盛っておこう」
 サラダを盛り付け出したペルを、スイレイがじっと見ていた。
「なに?」
「キレイに盛り付けるなって思って。料理は芸術だからな」
「そんなに見られると緊張するんだけど」
「大丈夫。キレイにできてるから自信持って」
 だが、本当に緊張していたペルは、残っていたトマトのヘタを取ろうとしてナイフを動かし損ねて指
までカットした。
「あ!」
 ペルよりも先に声をあげたスイレイが、とっさにペルの指を握った。
 びっくりしてナイフを握ったままのペルに、スイレイがまずはナイフを下ろしてと指示する。
「別にそんなに痛くないけど」
 そういいつつ、ナイフを下ろす手が震えてシンクの上にガチャンと音を立てて落ちる。
 そっと握った手を開くと、溢れてきた血がスイレイの手を汚していた。
 スイレイはその手を握ったままリビングまでペルをともなって歩いていくと、救急箱を開いた。
「どんな傷も甘く見ないこと。きちんとした消毒が傷を早く治す近道だからね」
 手を離したスイレイの代わりに自分で指を握ったペルが、恐る恐る傷を見ていた。
 それほど深くもなさそうだが、血は滴り落ちるくらいには出てくる。
「血が流れるのも、一緒にばい菌を流し去る効果があるからね。そんなに恐れるなってこと」
 蒼ざめた顔で血を見ているペルに、スイレイが笑った。
「男の人の方が血に弱いのかと思ってた」
 力なく笑うペルに、スイレイが笑う。
「まあね、たいした怪我でないのに出血みてショック死するのは男のほうが多いだろうね」
「わたしはきっとショック死する方ね」
 そんなことばかり自信たっぷりに言うペルに、スイレイが笑い声を上げた。
「ぼくは小さいときによく木に登って落っこちたり、シーソーから吹っ飛ばされて頭から落ちたことも
あってさ」
「ええ? そんなにやんちゃだったようには見えないけど」
「いやいや、いろいろやって、母さんを驚かせたね。でもそのシーソーから落ちたときの母さんの対応
が忘れられないな。頭から落ちて顔中血だらけにしているぼくの顔を両手で叩いて、泣いたからとりあ
えず大丈夫って、タオルで傷口押さえて病院連れてかれて。あの強さに惹かれてしまったというかね。
こんな風になりたいなって、思ったよ。後からきた父さんの方があたふたしてて、こんなにはなりたく
ないって、本気で思ったよ」
 器用に消毒をしてバンソウコウを張ってくれたスイレイが、出来上がりとゴミを手の中で丸めながら
言った。
「ありがとう」
 言いながら恥ずかしそうに俯いたペルの頭をスイレイが撫でる。
「料理もできないダメなわたし、なんて自分を責めるなよ。ペルがちゃんと料理できるのは知ってるか
らね。それに、ちょっとドジなペルが好きだし」
 ちゃんと忘れずにフォローしてくれるスイレイの隣りが、ペルには居心地が良かった。
「そんな優しいこと言ってくれるのはスイレイくらいだよ」
「じゃあ、ぼくがお嫁さんに貰ってやるから」
「え?」
 立ち上がりながら言ったスイレイの顔を見上げ、ペルがたちまち顔を赤面させた。
「えって、ぼくじゃ不満?」
「ううん。そうじゃなくて」
 ますます混乱の極みで耳の端まで熱で火照り出す。
 ペルは耳を手で覆うと、恥ずかしさ全開でスイレイの顔を見上げた。
「じょ、冗談だよね」
 エヘラと笑うペルに、スイレイはその前に座る。
「冗談じゃ、ないよ」
 そしてバンソウコウの貼られた手を握ると、じっとペルの顔を見つめた。
 スイレイの目が、泳ぐペルの目を追って動く。
「ペル」
 囁かれて見たペルの目に、微笑んでいるスイレイの顔が映る。
 スイレイの手がペルの首の後ろを押さえると、顔を寄せた。
 重なる唇に、ペルは思い切り目を強く瞑った。
 ギュッと握られた手がスイレイの胸に当り、その胸の硬さと、唇の柔らかさがペルの感じた全てであ
った。
 離された顔に目を開けたペルは、恥ずかしくて目を上げることができなかった。
「嫌だった?」
 前髪にスイレイの吐息がかかるのを感じならが、ペルは首を横に振る。
「わ、わたし、こんなことはじめただから、どうしたらいいか分からなくて…」
 スイレイは初々しいペルの反応に笑うと、胸に抱きしめた。
 カレーのスパイスの匂いが香る胸に顔を埋めながら、ペルはおずおずとスイレイの背中に手を回した。
 そして初めて心の中からわき上がってきた感情に胸が押し潰されそうになった。
 スイレイが好き。
 その甘やかでいて張り裂けそうな感情に眩暈すら感じながら、ペルはその感情に陶酔していった。
 だがその感情はたちまち凍りついた。
 玄関でした呼び鈴の音。
 ジュリア。
 スイレイが好きなのはジュリアなのだ。
 わたしは……。
 固まったペルに、スイレイはこれは秘密ねを示して口の前に人差し指を乗せる。
 それに頷きながら、ペルは玄関へと歩いていった。
 言えるわけがない。
 スイレイに片思いを続けているジュリアの気持ちを知っていながら、そのスイレイを好きになってし
まったなんて。
 玄関の鍵を開けるガチャンと言う音を聞きながら、ペルは逆に心のドアに鍵をかけた。
 今は、出てくるな、スイレイへの恋心など。




 
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