第二章 息づく世界へ 




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「よ、スイレイ。元気か?」
 研究所の廊下で人を待っていたスイレイは、声をかけてきた人物に笑顔を見せて手を揚げた。
 白衣を着た金髪の美男子が、ガラス張りのラボの中から出てきたところだった。
 ハンサムなのに気取ったところのない、寝癖さえついた頭を掻きながら、笑顔で歩いてくる青年。
「カイルさん。呼び出してすいません」
「カイルさんはなし。カイルで結構」
 父の研究所で働いているカイルは、スイレイと仲のよい研究員だった。
 所長の息子と気張るでもなく、年齢の近いスイレイを弟のようにかわいがってくれる。
 スイレイには頼もしい存在だった。
 趣味の分野も似ていて、夜通し話していて飽きない相手だった。
「で、相談って?」
 研究所内の喫茶室に立ち寄りながら、カイルが尋ねる。
 共にまずいと有名なコーヒーを片手にテーブルにつくと、向かい合って座った。
「ゲームは進んでます?」
「まあな。今やってるゲームなんて最高だぜ。スイレイにもコピーやるからな。って、ゲームの話をし
たくて呼んだのか?」
「う〜ん。なんていうか…」
 含み笑いのスイレイに、カイルがテーブルの上に身を乗り出す。
「なに? おもしろい話?」
 この乗りのよさがカイルの愛すべき特徴だった。
「バーチャルリアリティーって関心ないですか?」
「ああ、あの体感型ってやつか。関心ないわけないじゃん。RPGの世界なんて毎度旅したいと思って
るし。まあ、あんなに草原や山道を走り続ける自信はないけどね」
「あの体感型の理論は分かりますか?」
「ああ、脳を騙せばいいんだろ? 自身の体験であるかのように、脳内に信号を送ってやればいい。脳
内にはそれぞれ視覚を司るところ、聴覚を司るところ、平衡感覚を司るところ。いろいろな部位がある。
その部分に電気信号が送られれば、脳は見た、聞いた、歩いたと感じる。そうすれば人は、見た、聞い
た、歩いたという体感を得ることになる」
 スイレイは真剣な顔で頷きながら聞いた。
 それを実現することは可能なのだろうか?
 実際にそういうゲームが無いわけではない。
 ヘルメット型のゲーム機で、それを被ってネットの世界に接続すると、体感としてそのゲームの世界
を旅することができる。
 それをもっと簡易な形に改良できればいいのだが。
「あの既存のバーチャルリアリティーの装置をもっと高性能にできたらすごいですよね」
「ああ、できるんじゃない?」
 スイレイの悩みなどどうということもない、という調子で軽く言ったカイルに、スイレイが怪訝な目
を向けた。
「軽く言いますね」
「まあ、一般じゃあ、行き過ぎで危険だって言われそうだけど、この研究所の関係者だからこそできる
ことがあるんだよ」
 カイルがよく考えてみたまえと、スイレイの前で指を振る。
「何をどうするのです? 全然思いつかない」
「まあ、分かったら怖いか。研究内容の漏洩だからな」
 自分ひとりだけ分かっている満足感と優越感でうなずくカイルを、スイレイが困った顔で見やる。
 その反応にカイルはますます快感と笑みを浮かべた。
「もったいぶらないで教えてくださいよ」
「しょうがないな」
 そういうと、カイルは席を立ち、スイレイについて来るように手招きした。


 カイルに連れて来られたのは、ジャスティスの研究室だった。
「まあ入って入って。今副所長いないから」
 自分の研究室のようにスイレイを招きいれたカイルは、一台のコンピューターに近づくと、操作した。
「脳の神経網を構築するために働く遺伝子が特定されたんだ。脳のネットワークは複雑でまるでカオス
の世界のように無意思に伸び広がるように見える。だが、そこには一定の法則があるというのが、ジャ
スティス副所長の考えなんだ」
 描き出された脳内部の映像を示し、カイルが言う。
「人は学習によって脳内の神経を伸ばしていく。その伸びた神経網が張り巡らされているシナプスと連
結することで、巨大迷路に抜け道を作り上げたみたいに思考の道筋が短縮されて賢くなっていくわけ。
 この神経の広がりが無作為ではなく、ある一定の法則があり、それを操れるとしたら?」
 スイレイの注意を引いてカイルは画面の中で脳の中に一つの結晶を落とした。するとみるみるうちに
脳内に神経の網目が広がっていく。
 だがそれは一定の方向のみに広がり、脳全体に広がることはなかった。
「今のが、視覚野の神経に対してその神経網を広げる遺伝子を現しているんだよ」
 難解なパズルを解くような難しい顔をしていたスイレイの顔が、次第に輝きを増していく。真っ暗な
トンネルの向こうに光を見つけて走り出そうとしているときのような。
「ゲームに必要な神経野は?」
 カイルの質問に、スイレイが口を開く。
「視覚に聴覚、触覚、運動神経」
「それに嗅覚なんてのも付けられたら、今までのゲームの中では味わえなかった世界が広がるな。なん
せゲームの中で未知の料理なんてのを出されても、想像だけで匂いも味もなかったわけだからな。これ
だと味覚も必要か」
 腕を組んでうんうんと頷くカイルに、スイレイは縋るような目を向けた。
「なんだね、その目は」
「これ実用化できないかな?」
「え?」
「別に商業レーベルにのせるほどの出来でなくていいんだけど、ゲームのように人工の電気刺激に対し
て必要な反応を作り出せる機構。それもなるべき簡便な形で」
 見るからに熱意満々に語るスイレイに、冗談でしょ?という態度を取っていたカイルも唸る。
「まあ、可能だとは思うけど、倫理的に認可が下りないものを使用していいのか分からないし」
「だから、ぼくが実験台になるから」
「ええ??」
 驚きつつもカイルの顔にあるのは、早くも好奇心に唆される自分のとの戦いに負けた顔だった。
「見つかったらぼくが怒られるじゃん」
「まあ、まずは動物実験を試してみましょうよ。ぼくが仮想世界のプログラムを組んでおきますから、
ネズミで実験できるように準備してもらえますか? 準備できたら教えてもらえれば飛んできますから」
 もう決定事項のように語るスイレイを見ながら、カイルは別のことを考えていた。
 スイレイはやっぱりカルロス所長の息子なんだな。穏かそうな性格に見えるが、こうして興奮するよ
うな出来事に出会うと、あの圧しの強さがそっくりに出てくる。
「お願いできますか?」
 目を輝かせて言うスイレイに、カイルが苦笑とともに頷いた。
「うまくいくか分からないよ。うまくいっても人間に実用できる安全性が確認できなきゃ、実行はしな
いし」
「それはもちろん!」
 熱心さに圧される形で承諾したカイルに、スイレイがその肩を抱く。
「カイルと友だちでよかった」
「だったら、今度からタメ口で喋ってよ」
「わかった」
 そのときラボに入ってきたジャスティスが、二人の抱き合う姿を一瞥して言った。
「当研究所はゲイにも寛容だから安心しろ」
 当惑する二人に、ジャスティスがニコッと笑った。 



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