第一章 地球創造 




 廊下のベンチで母を待っていたスイレイは、居心地悪くうな垂れて座っていた。
 婦人科病棟のためにたくさんの妊婦が通っては、若いスイレイをちらちらと気にして歩いていく。
 随分若い父親にでも見えるのだろうか?
 そのとき不意にポケットでした振動に、ベンチから立ち上がった。
 携帯電話のメールの着信を伝える振動だった。
 電源を切り忘れていた。
 でもこの場を離れるいい機会だと、スイレイは携帯を片手に外付けの階段の踊り場まで歩いていった。
 メールはペルからのものだった。
―― 緊急警報って、ジュリアに何かあったの?
 スイレイもレイリおばさんもいないから、大変なことが起きたのかと思って。
 わたしはどうしたらいい?

〈エデン〉にジャック・インして見た緊急警報の文字とイサドラの説明に、混乱している様子が手に取
るように分かった。
 スイレイは通話ボタンを押すと、ペルに電話をかけた。
 わずか数コールで出たペルに、今か今かとスイレイの連絡を待ち続けていたペルの様子を想像した。
「もしもし、ペル? ぼくだけど」
「うん。どうしたの?」
「ジュリアが倒れたんだ。今病院。母さんがジュリアに付いて、ジャスティスさんが先生の話を聞いて
る」
 電話の向こうでペルがしばし沈黙する。
「そんなに悪い病気なの?」
「よく分からないけど、手術するって」
「手術?!」
 小さく悲鳴のように言ったペルが、声をなくす。
「今すぐってわけじゃないらしいけど、入院はするみたいだ。もうしばらくしたら母さんと帰ると思う
から。とりあえず今すぐジュリアがどうこうなることはないから、心配しないで。いいね」
「うん」
 ペルの不安の滲んだ声に、スイレイは何か言うべき言葉を探した。だが、言うべき言葉が見つからず
にただ電話の向こうにいるペルの息遣いを聞いていることしかできなかった。
「ペル?」
「何?」
 スイレイはただ呼んでしまったその名前に、続けるべき二の句が見つからずに焦った。
「明日……一緒にジュリアのお見舞いに行こうな」
「うん」
「それで……ジュリアのために持って行けるようにパソコンとMOディスク。それから……植物の図鑑
とか持ってるかな?」
「植物の図鑑? 持ってないよ」
「きっと父さんの書斎にはあると思うんだけど、入っていいから、ジュリアのために用意しておいても
らえるかな?」
 電話の向こうでペルがうなずくのがわかる。
「でも、なんで図鑑なの?」
「〈エデン〉の環境が、もうそろそろ植物の生育に適した状態になるんだ。入院中って暇なもんだろ?
 しかもやる事がないと暗い思考へと入り込みやすい。病院っていう暗い気持ちになりやすい環境にい
るわけだし、無理はさせないようにするけど、やるべきことがあるっているのはいいことだと思うんだ。
ジュリアは小さい頃から、バラ育てたりガーデニングに詳しかったりするんだ。だから、ちょうど適任
だと思うんだ」
「うん。わかった」
 ペルにも、ただ待つだけの不安を取り除いてやれただろう。
 スイレイは別れを告げて電話を切ると、病院の高台からイルミネーションの輝く夜景を見渡した。
 つい数時間前までふざけあっていたジュリアが、今は病院のベットの上にいる。
 いつもと変わらないと思っていた平穏な時間の連続は、こうして突然異物の混入によって困惑させら
れる事態へと導くことがあるのだ。
 世界は全くいつもと変わらず動いているのに。
 ジュリアは、いったい今どんな気持ちでいるのだろう?
 男のスイレイには考えても想像すらつかないことだった。
 でも、いつもの元気で不敵な笑顔を浮かべたジュリアでいて欲しかった。
 そのために支える必要があるなら、いくらでも助けになりたかった。
 スイレイは吹き付けてくる冷気を孕んだ風に背を向けると、病院の中へと戻っていった。



「スイレイ」
 廊下で待っていたレイリが、戻ってきたスイレイに駆け寄った。
「ジュリアが、話をしたいって」
 スイレイは頷くと、病室のドアに手をかけた
 そのスイレイを後ろからレイリが呼び止めた。
「スイレイ。ジュリアはきっとあなたにしか弱みを見せない。ずっと一緒に育ってきたあなたにしか。
ジュリアの力になってあげて」
「わかってるよ、母さん」
 振り向かずに言ったスイレイは病室の中へと足を踏み入れた。
 病院特有の消毒の匂いが鼻につく。
 引かれたカーテンの向こうを覗き込み、スイレイはベットの上のジュリアを見た。
「どうだ?」
 まだ青い顔はしていたが、半身を傾けたベットの上に横たえたジュリアが微笑んでいた。
「スイレイが救急車呼んでくれたんだってね。ありがとう」
「ああ。びっくりしたよ。いきなりイサドラが緊急警報なんて出して叫ぶから」
「そうか」
 くすくすと笑い声を上げるジュリア。だが、明らかにいつもの勢いはなかった。
「ごめんね。これから〈エデン〉が本格始動ってときに」
 殊勝に謝るジュリアに、スイレイはヒリヒリとするほどジュリアの傷ついた心を感じたが、気付かな
い振りで肩をすくめた。
「何言ってる? ジュリアが入院したからって、〈エデン〉の創作から手を抜いていいなんて言ってな
いけど」
「え?」
 ジュリアは力の入らない顔で眉を上げて、スイレイに問う。
「明日、ペルとジュリアのためにパソコンとディスクを持ってくるよ。ちょっと頼みたいこともあるし」
「頼み?」
「そう。まあ、それはまた明日話すよ」
「うん」
 笑顔に力が戻らないまま、ジュリアがうなずいた。
 スイレイはそれ以上何をジュリアに語っていいのか分からず、布団の上に投げ出されていたジュリア
の手を握った。
 握られるままに、ジュリアは俯いて微笑んだ。
「ねえ、スイレイ」
「ん?」
「わたしね、お腹の中で卵巣ってところが膿んで腐っちゃってるんだって。変だよね。全然気付かなか
ったし、今だって痛みがなければそんなことが起きてるなんて思えないんだもん」
「うん」
 ジュリアは笑みを浮かべたまま、語り続ける。
「だからそれを手術で取っちゃうんだって。それで痛みからも解放される。よかったよ」
 笑みを浮かべながらも呆然と語るジュリアを。スイレイは痛い思いで見つめていた。
「でもね、それと引き換えに、赤ちゃんが産めなくなるんだって。大変なことだよね」
 初めて聞く話に、スイレイはどうしたら良いのか分からないまま、ジュリアの手を握り続けた。
「大変だってことは頭では理解できるんだよ。でもね、よく分からないんだよ。いきなり赤ちゃんが産
めないよって言われたってさ、産む予定なんて遥か彼方の時のような気がしてたし、今切実に産みたい
なんて思ってるわけないし」
 少し困ったように苦笑すると、ジュリアがスイレイの手を握り返した。
「わたしって、女として欠陥があるのかもね。精神的にも。そして今度は肉体的にも」
「欠陥?」
 スイレイはジュリアの焦点の定まらない目を見つめた。
 虚ろに精神の暗部を彷徨うようなその視線。
 スイレイはたまらなくなってジュリアの肩を掴んだ。
「そんなこと考えるな。ジュリアはジュリアのままだ。いきなりのことで気持ちがついてきてないだけ
のことじゃないか。ジュリアほど女らしい女なんていないじゃないか。子どもを産むのだけが女の価値
じゃないだろ。いつものおまえなら、一番にそう言って食ってかかってくるじゃないか。ジュリア、し
っかりしろ!」
 スイレイの強い訴えに、しかしジュリアは半ば惚けた顔でスイレイには見えないどこかを見ているよ
うだった。
「スイレイ」
 ジュリアがつぶやいた。
「ねえ、キスして」
「え?」
「わたしが女として生きていけるって、証明してよ」
 気持ちの入らない言葉を吐いて、スイレイに向けられた顔は、次第に紅潮し涙にうるみだす。
 そして次の瞬間、何かがはじけたようにジュリアが叫んだ。
「もう、なんだか分からないのよ! 子どもが産めないなんてことが悲しいんじゃないのよ。でも、わ
たしの価値がわからない。誰もわたしを愛してくれないじゃない。欲しいのはわたしのこの面だけでし
ょ。だったら殺して飾っておけばいいじゃない。生きていることの価値はそこにないでしょ! 本当の
わたしを必要としている人なんて」
 スイレイは叫びを上げるジュリアを強く抱きしめた。
 ずっと強がって生きてきたジュリアの溜め込んできたものが弾けた瞬間だった。
 ジュリアの手がスイレイの背中をぎゅっと強く握り締めた。
「大丈夫だ。ジュリア、大丈夫だから。ちゃんとジュリアを大切に思っている人がいるから。ジャステ
ィスさんだって、かあさんだって。ペルだって。…ぼくだってジュリアのことが大好きだよ。ジュリア
の全部が好きなんだ。生意気な口の利き方も、不敵に眉をつりあげてみせるところも、なにもかも」
 ジュリアの嗚咽がスイレイの胸に響いた。 
 初めて聞く、子どものような泣き声だった。
 スイレイはジュリアの頭を撫でながら、小さくなって震えるジュリアを抱きしめた。
 ジュリアを覆っている苦しみから、この腕で守って上げられるのなら、一生でも抱きしめていてあげ
たかった。
「ジュリアは誰にでも手に入るような、安っぽい宝石じゃないんだよ。孤高に輝いてればいいんだ。そ
して、その側にいることが許されるのは、ぼくのような男だってことだろ?」
 スイレイのあえてした軽口を、ジュリアは黙って胸の中で聞いていた。
「だから、他の誰がジュリアを馬鹿にしても、それは負け犬の遠吠えさ。ジュリアは最高にいい女。だ
から側にいるのも最高にいい男のぼく」
「うん」
 涙声でくぐもった声だったが、ジュリアがうなずいた。
「ごめんね、スイレイ。泣いたりして」
 謝るジュリアを、スイレイは胸の中から起すとその額にデコピンをくれた。
「だから、謝ったりしないの。孤高の輝ける宝石は。いつもの調子で言ってみな」
 赤くなった涙目でスイレイを睨んだジュリアが、照れたようにそっぽを向く。
「わたしは孤高の最高級の宝石だけど、スイレイはどうかしらね」
「そう、それでこそジュリアだろ」
「けなされて嬉しいなんて、スイレイも本当にマゾね」
 笑顔で言ったジュリアが、スイレイにもう一度抱きついた。
「ありがとう」
 スイレイは頷くと、ジュリアをベットに横たわらせた。
「明日、またくるからな。ジュリアはゆっくり休め。いいな」
 ジュリアは顔の半分までを布団で覆うと、目だけを出して頷いた。
 スイレイはその額にキスをすると、病室を後にした。
 その背中にジュリアの「ありがとう」を聞きながら。

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