§ プロローグ



 雨が降り続いていた。
 まだ午後も早い時間だというのに、空を覆う黒く厚い雲のために、まるですでに夜の入り口に立って
いるような錯覚を起させる。
 風はない。
 ゆえに雨にあらゆる音が吸収され、家の中にいれば、耳につくのは時計の神経質に時を刻む秒針の音
だけだった。
 本を読んでいた少女がソファーの上で顔を上げた。
 唐草模様の刺繍が施されたロココ調のソファーの背もたれに手をつき、背後の壁の大時計を見つめる。
針は4時を示していた。
 大時計の中の振り子がユラユラと揺れては、未来永劫を思わせる時を意識させる。
 少女は長い黒髪を肩からこぼれ落としながら、今度は目の前のテラスへと通じる大きなガラス戸の向
こうの庭を見つめた。
 春先の柔らかな色彩に彩られた花々が、今は雨に打たれてうな垂れていた。
 ときに朝食やランチをとるのに使うテラスのテーブルや椅子も、雨の雫を滴らせながら沈黙していた。
「ジャスティス、遅いわね。こんなに遅くまで、何をしているのかしら?」
 パタンと勢いよく本を閉じた少女、ローズマリーは、ソファーから立ち上がると冷え始めた空気に、
暖炉へ火を灯す。
 前時代的な薪をつかう暖炉だったが、手間は手間だが、どんなストーブよりも、ローズマリーはこの
暖炉が好きだった。
 ユラユラとゆれる炎には魂が魅了されるし、なによりも体が芯から温まる。
 弟のジャスティスも、よく暖炉の前にわざわざ毛布を敷いては、寝転がって絵を描いていることがあ
る。
 この大きな家で、弟との二人暮し。
 週に何度か来てくれるハウスキーパーはいるが、基本的に深い接触を持とうとはしてこなかった。だ
から、知っているのは名前と連絡先の電話番号ぐらいで、どんな家族を持っているのか、子どもはいる
のか、趣味は何か。そんなことは、何一つ知らなかった。
 それがローズマリーの望みだった。
 自分と弟の生活に割り込んでくるものが許せなかった。
 自分一人で、ちゃんと弟を育てていける。二人で築いてきたものに、他人の手垢はいらない。
 暖炉の中で、薪がパチパチと爆ぜはじめ、白く発光したオレンジ色の火の粉が舞う。
 ローズマリーは再び時計と雨の降る景色に目を向けると、おもむろに居間を後にした。
 鬱蒼とした闇を抱えた長い廊下を進み、薄闇に覆われた家の中に電気を灯していく。
 そして無駄に広いといつも思う玄関でレインコートを着込むと、傘を持って家を出た。
 階段のステップをおり、重く大きな門を開けて通りを歩きだす。
 さすがにしばらく続いている雨に、住人のほとんどが家にこもっているらしく、出歩いている人間の
姿は見えなかった。
 足元の水溜りを避けながら、ローズマリーは家から少し離れたところにある公園を目指していた。
「ちょっとだけ公園に行って来る」
 そう言って家を出たのが昼食後、30分もしない頃だった。
 いやにそわそわして落ち着かない様子だった昼食時のジャスティスには気づいていたが、ローズマリ
ーはあえて理由を尋ねようとはしなかった。
「ちゃんと傘持っていって、帰りもちゃんと忘れずに持ってくるのよ」
「うん」
 理由を尋ねられないことに安心した面持ちで、いそいそと出かけていった弟の背中に不信の目は向け
てみたものの、まだ子どもの匂いしかしない姿に、とりあえずは見送る。
 顔も美少年で、性格も温厚であるジャスティスには、時折ラブレターらしきものが贈られるらしく、
部屋の机の上に放置されているのを何度か目撃していた。だが、まだそんなことに関心はないらしく、
無造作に置かれた手紙は、読む気がなくても読めてしまう状態で置かれていた。
 そんなジャスティスを、雨の中でも外出する気にさせるほどに駆り立てたものとはなんであろう。
 ローズマリーは公園の生垣の向こうを覗き込み、弟の姿を捜した。
 だが、そこにいたのはジャスティスではなく、弟の幼馴染みの少年、フェイだった。
 やんちゃで怪我ばかりしているいたずら小僧というイメージしかない少年が、ジャスティスの傘をさ
して、困ったように立ち尽くしていた。
 フェイが見ているのは、キリンの滑り台の下だった。
「ジャスティス……どうすんだ? ずっとこうしてるわけにはいかないぞ」
「………わかってるけど。………でも、こんな寒い雨の中に置き去りになんてできないよ」
 フェイとジャスティスの会話の声が、雨の向こうから細々と聞こえてくる。
 ジャスティスに傘をさしてやっているせいで、フェイの背中は雨にうたれて濡れていた。
 フェイが雨に冷えた体を震わせる。
「………フェイは帰っていいよ」
「俺だって、おまえを放って帰るほど薄情じゃないんだよ」
 そう言いつつ、フェイの足は一刻も早くこの場を離れたそうに小さく足踏みする。
 ローズマリーは公園の中へと入っていくと、そっとフェイの体の向こうの弟の姿を見た。
 キリンの滑り台の下で、うずくまって何かを胸に抱えていた。
 茶色くて丸いものを、大事そうに抱きしめていた。
 ローズマリーの足元で水音がはねる。
 その音にフェイが振り返り、ジャスティスが顔を上げた。
「………マリー」
 ジャスティスが胸に抱きしめていたものを隠すように、身を折り、フェイはさらに弱った様子で一歩
脇へと足を進めた。
「何をしているの? こんなところで蹲っていたら、風邪をひくわ。そうでなくても、ジャスティスは
体が弱いのに」
 チラっと横に立つ少年を見れば、どこまでも冷静なローズマリーの声に居心地が悪そうで、目が合っ
た瞬間にわずかに身をすくめた。ローズマリーの存在に恐れを感じながらも、怖いと思っていること
を気取られるのはプライドに関わると虚勢を張る様子が、手に取るように分かった。
 立ったまま見下ろすようにして弟を見ていたローズマリーだったが、頑なに胸に抱くものを見せよう
としないジャスティスに、目線まで腰を落とすと、じっと目をみつめた。
「そんなに抱き潰したら、苦しいって言われるわよ」
 ジャスティスの胸でキューキューと泣き声を上げているものを指さして言えば、ハッとした顔で抱き
潰していたものを抱き上げる。
 それは、あまりにも小さな子犬だった。
 目もやっと開いたばかりだろう茶色の犬が、いくぶんぐったりしてジャスティスの腕の中でうずくま
っていた。
「………昨日から捨てられていたんだ」
 それで昨日の夕飯でパンと肉を後で食べるなどといって残したのだと、ローズマリーは思い返して頷
いた。
「こんなに小さいのにひとりぼっちで、しかも雨が降ってきちゃって。かわいそうじゃないか」
 じっと子犬の濡れたような黒い瞳をみつめ、強情そうにうつむいてジャスティスが言う。
「フェイのことはどう思うの? ジャスティスに付き合わされて雨に濡れてるのは、かわいそうじゃな
いのかしら?」
「いや、俺は………」
 慌てて口を挟んだフェイだったが、ジャスティスは泣きそうな顔でフェイを見上げて言葉をなくす。
「それで、ジャスティスはどうしたいの?」
 ローズマリーはそれたジャスティスの思いを戻すように、冷たく言った。
「ぼくは。………この子を飼いたいんだけど」
 その言葉に、ローズマリーがスッと立ち上がる。
「あ、俺んちは叔父さんがうるさいから飼えないんだ。でも俺も犬好きだから、見捨てたりはしたくな
いんだ。ジャスティスと二人でちゃんと散歩とかするし」
 友人思いのフェイが立ち去ろうとするローズマリーの背中に言う。
 その切羽詰った声に、ローズマリーが振り返る。
「だれがダメだと言ったかしら? ジャスティスが自分の意志で飼いたいと思って、それに責任がもて
るなら、別に反対はしないわ。好きにすればいい」
 その言葉に、ジャスティスが途端に顔を輝かせ、犬を抱いて立ち上がる。
「本当? 飼ってもいいの?」
「お好きに」
 ローズマリーは笑顔こそ見せなかったが、うなずくと公園を出て歩き始めた。
 だが不意に足を止めると、顔を寄せ合ってよかったなと声を掛け合っている少年二人に言った。
「さっさと家に帰ってきなさい。フェイもよ。濡れたまま帰ったら風邪をひくわ。必ずうちに寄りなさ
い」
 厳しい命令口調だったが、ジャスティスとフェイは顔を見合わせると、雨に濡れた笑顔を見せて頷い
た。
 まったく手のかかるガキどもだこと。
 心の中で言ったローズマリーの口元に、ほんの少し笑みが浮んでいた。



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