第八章  幻惑



 
 研究所に足を踏み入れたのは、もう何か月も前のことのような気がした。だが実際には数
日が過ぎただけだ。  その数日の間にいろいろなことがあり過ぎた。  マンネリと過ぎていく日々が瞬きの間に過ぎてしまったように感じるのに対して、精神的
な苦痛に満ちていた日々は、なんと存在感に満ちて重くのしかかっていたことか。  ローズマリーは研究所のエントランスを潜り、受付のカウンターで入所のチェックを受け
ていた。 「カルロスは?」  尋常でない精神状態にあった彼の姿が思い出され、その後どうなったのか気になるところ
だった。 「研究室に入っておられますよ」 「そう」  正常に戻った? と尋ねたいところだったが、堪えて笑顔で受付のガードマンに別れを言
う。  気になると言えば、レイリとのこともどうなったのか知りたかった。  妊娠したことを告げることはできたのだろうか? もしできたのだとしたら、カルロスは
どう反応したのだろうか?   手放しに喜ぶタイプだとは思えないが、レイリにとって少しでも喜ばしいものであって欲
しいと思う。  研究室のドアの前に立ち、認めたくはないが、緊張に体が強張っているのに気づく。  昨夜は頭の中を駆け抜けた閃光のような考えに、全ての迷いが解けた気がした。  自分がこれから向かうべき道を指し示してくれるのは、カルロスに違いないと。  だが、惑いはある。一度はカルロスの前で感じた、倫理に背く行いへの嫌悪感は未だ胸の
内に巣くっている。自分も、科学の未知の世界への魅力に取りつかれ、現実の世界に戻って
来られなくなるのではないかという恐れ。  そして何よりも、生理的に変貌していたカルロスへの恐怖があった。近づいたら、噛み殺
されると本能が警戒している。彼は弱者とみなした相手をいとも簡単に排除する、いわば肉
食獣なのだ。  バカな考えだ。  自分の心に過った思いを否定し、ドアをノックする。  返事を待たずにドアを開け、研究室の中に足を踏み入れる。 「やぁ、ローズマリー。おはよう」  ローズマリーがカルロスの姿を見つける前に、声をかけられる。 「………おはよう」  たくさんのファイルを抱えたカルロスが、目の前に立っていた。  研究室の中を掃除したらしい。 「どうしたんだい? 突っ立て俺の顔をずっと見つめて」  思い描いていたのとはあまりに違うカルロスの様子に、ローズマリーは言葉も継げずにい
た。  すっきりとした顔だった。しっかりと現実の世界に足をつけた、穏やかな青年の顔。 「何か良いことでもあったの?」  いつまでも呆けているわけにはいかないと、カルロスの背中に問う。  それに、振り向いたカルロスが苦笑を浮かべる。 「聞かなくても知ってるだろう。レイリの親友だ」  ファイルを棚に戻しながら、カルロスが言う。 「ええ、まぁね」  レイリが話したのだ。そして、カルロスがそれを受け入れたのだろう。  伸びていたヒゲや髪はすっきりと切られ、服装も以前と同様よく整えられていた。 「パパになる心境は?」 「まだ実感はないよ。でも、体に芯が通ったような気がするよ。自分一人のことを考えてい
ればいい立場ではなくなったんだからな」  うっすらと笑うカルロスの顔が、人間味のある暖かいものになった気がした。 「それを確かめに?」  データーを調べ始めたカルロスが、違うだろうと目で語ってくる。 「そうね。レイリとのことが気になっていたのは事実だけど、ここへ来たのは違う目的ね」  ローズマリーの顔から笑顔が消えていく。  そしてカルロスの幸せに緩んでいた瞳も、空気の変化を感知して細められる。 「この前話していた研究。今も続けてるの?」 「完璧な免疫システムをもった人間を作り上げる研究のこと?」 「ええ」  カルロスの目が、一瞬光る。  だがカルロスはすぐに目を伏せると、資料の目を落とした。 「君はこの前、倫理に反するとか、人間には許されざる領域だとか言ってなかったか?」  攻撃的な言葉ではあったが、口調には揶揄する余裕すらあった。 「そうね。今も、まだ迷いはある。けれど、わたしも知りたくなったの。わたしたちにでき
る最良の治療とは何なのか」  カルロスが顔を上げる。  まっすぐにローズマリーを見つめる目に、野心は見えなかった。  真実を追い求める少年と、責任感を備えた青年が混在する瞳が自分を見つめていた。 「一時的な命の延長か。それとも根源的な遺伝子の強化による寿命の延長か」  カルロスが挑戦的にほほえむ。  君はどちらを選ぶのかと問いかけてくる。 「わたしは後者を選ぶ。だから、手伝わせて」  自分に決意を刻む。  カルロスがイスごと体を向けると、ローズマリーに向かって手を差し出す。 「よろしく頼むよ」  ローズマリーがその手を握る。  と、カルロスがローズマリーの手を返し、腕の内側を上向かせる。 「何?」  腕の自由を奪われ、眉を寄せる。  それに笑顔をむけたカルロスが言う。 「最初の協力を頼む。血をくれ」
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