第八章  幻惑



 
 その後、フェイによれば、ローズマリーは冷静な様子で事に当たっていたという。亡くな
った男の子の母親に話を聞き、慰め、葬儀には顔を出すと約束した。病院でも、何人かの子
どもたちと面談し、笑顔を向けていたと。  でも、ローズマリーは何も覚えていなかった。  家に帰り、ソファーに疲れた体を横たえる。そして一日のことを思い返そうとするのだが
切れ切れの場面しか思い出せない。そこに、自分の感情など一片も見いだせなかった。  まるで自分という皮を被った機械が、代わりに今日一日を過ごしていたのではないかと思
える。記憶として、見た映像記録だけをローズマリーの脳にコピーしていった。それくらい
に現実味がなかった。  何もする気になれなかった。立ち上がって部屋に行くことすら億劫だった。  ソファーのクッションを頭に押し付けて、目を閉じる。  耳についてしまった音が、頭の中でなり始める。  人工呼吸器のシューという、途切れることのない連続音。痰の詰まった苦しそうな息の音。  医学とはなんなのだろう。医者として、自分は何ができるのだろう。  医者は神ではない。できないことがあるのは当たり前なのだ。それは理解できる。だが、
心が納得していなかった。  人間の能力には限りがある。そう自分に言い聞かせても、割り切ることができないのだ。  なにか手があるはずだ。生きる見込みも力もあるはずの子どもたちが、なぜ苦しみ、希望
もなく命を絶たれなければならないのか。理不尽だと、怒りすら感じる。  不完全な命。死、そして罪。  遺伝子に組み込まれたこの負の連鎖を、どうにか断ち切る術はないのか?  その時だった。不意にカルロスの顔が脳裏を過った。そして、同時に、重苦しい暗雲に覆
れていた胸の内が、一瞬清々しい風に撫でられたような心地よさを感じた。  希望の光の予感。  カルロスは語っていなかっただろうか。完璧な免疫システムを持つ人間を作り上げるのだ
と。  ローズマリーは顔を覆っていたクッションを払いのけ、起き上った。  自分の向かうべき道筋が真っすぐ目の前に伸びていた。
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