第八章 幻惑
これは夢だ。
ローズマリーは目の前の光景を、そう自覚しながら眺めていた。
暖かな春の日差しにあふれた部屋だった。開け放たれた窓から心地よい風が入り込み、白 いカーテンを揺らしていた。
姿は見えないが、そのカーテンの向こうに誰かがいるのが分かっていた。フェイだ。
「いつまで寝てるんだろうな、寝ぼすけのママは」
ママ?
揺れたカーテンの合間に見え隠れする人影に目を凝らす。
そうしながら心はある期待を抱えて高鳴っていた。
フェイであろう影が、高い高いをして抱き上げる子どもの姿が目にはいる。そして続いた 女の子の甲高い笑い声。
わたしの子? わたしとフェイの?
幸せに満ちた安堵が心の中に広がっていく。
なんて心地いいのだろう。愛する人と、一緒に育む子どもという宝物を手に入れ、こんな 春の朝を迎えている。こんなわたしも、こんな幸せを手に入れることができたのか。
体を覆う布団の暖かさの中で目を閉じ、体から溢れ出す幸せをため息に変える。
だが同時にわきあがる疑問の声。
わたしにそんな幸せが訪れるはずがない。子どもを産んで、愛する人と家庭を築く。そん な普通な幸せを求めていたのがわたしかしら?
そんな疑問の声に、ローズマリーは胸の内で応える。
分かっている。これは夢なのだと。だからこそ、今だけは、この幸せに浸らせ欲しいと。
「パパ、お腹空いたね」
フェイに肩車してもらっている、影の娘が舌っ足らずな言葉で言うのが聞こえる。
「そうだな。ママを起こそうな」
フェイと娘が、カーテンの向こうからやってくる。
笑顔で二人を迎え、頬にキスを送ってあげよう。
光の向こうから来る二人を、目を細めて迎える。
腕に娘を抱いたフェイがカーテンを潜り、目のあったローズマリーに微笑みかける。
「おはよう」
「おはよう、フェイ」
今までに交わしたどの挨拶よりも、愛情をこめたまなざしで応える。
フェイが、腕の中の娘の顔に掛ったってしまったカーテンを手繰り、困っている娘を笑い ながら助けている。
「困ったカーテンさんだね。きっとおまえが可愛いから放したくなくて抱きついてるんだろ うな」
フェイの言葉に、キャッキャと嬉しそうに手足をバタつかせた娘が、白いカーテンの中か ら顔を出す。
二つに束ねた黒髪が、顔の横で揺れていた。
まだピンクのパジャマのままの小さな手足が、「ママ」と手を伸ばしてくる。
だが、ローズマリーは抱きしめるための手を差し伸べることができなかった。
息を飲んだ口に手を当て、悲鳴を押し殺す。
フェイに差し出される子どもの手を逃れ、ベッドの上を後ずさる。
「ママ、どうしたの?」
巨大な腫れものに覆われた子どもの口が、悲しげな音を発する。
これがわたしとフェイの子ども?
それは醜い怪物のような姿だった。
跳ね起きたローズマリーは、喘ぐ息に胸を抑え、手の下で狂ったように打つ心臓の音を感 じた。
夢だ。現実ではない。あれは夢だ。
夢の中でも言い続けていたように、目覚めた今も、そうと自覚していながら、恐慌に陥り そうな自分の心に、ローズマリーはギュっと目を閉じた。
吐き気がした。
何かの病に侵されて変色した肌と、腫れあがった瞼。その下から怯える黒い小さな目が自 分を見つめていた。
その愛らしい子どもとはかけ離れた姿に、吐き気を覚えているのではない。たとえ夢の中 であろうと、その手を取ってやろうとせずに悲鳴をあげた自分に吐き気がするのだった。
自己嫌悪。
だが同時に恐怖もあった。
「どうした?」
突然飛び上がるようにして起き上ったローズマリーに気づき、隣に寝ていたフェイが頭を 起こす。
「ううん。ちょっと……嫌な夢を見ただけ」
誤魔化して、震える息を全て吐き出す。そしてベッドに身を横たえ、フェイの腕に顔を寄 せた。
フェイはローズマリーを抱きしめ、髪を撫でながら、すぐに眠りに落ちていく。
穏やかな寝息が耳に心地よかった。
同じように息を合わせながら、ローズマリーも目を閉じる。
今はこの暖かさに包まれて、嫌なことからは守られていたい。
だが確実に胸の内で刻まれた思いがあった。
もしかしたら、あれはただの夢ではなく、現実になりうる未来の姿なのかもしれない。そ れを完全に否定することは、誰にもできないのだから。
「病気の子どもたちが入院しているんだから、騒がないで静かにしていてよ」
「子どもじゃないんだから、言われなくたって分かってるよ」
ローズマリーが振り返って注意する。それに不貞腐れた口調でフェイが反論する。
そこは、以前にローズマリーとカルロスが訪れたポンペ病の子どもたちが入院する病院だ った。
自分たちのミスによって薬の供給が遅れたことを、ローズマリーは長らく気にかけていた。
なるべく早く様子を見に再び訪れようとはしていたのだが、機会が作れずにいたのだ。
だが今日の朝、どうしても今訪れなければならないという焦りを感じ、急きょ病院に行く ことをフェイに告げたのだった。
午前中で帰ってくると約束しているにもかかわらず、自分も行くと言い張ってついてきた フェイが、邪魔で仕方がない。
もちろん、本気でフェイが子どものように病院で騒ぐと思っているわけではない。
ローズマリーの中では、フェイとはプライベートな時間に共にありたいという思いが強か った。仕事をしている時のローズマリーの顔は、普段フェイに見せている顔とは違うからだ。
どんな顔をして接すればいいのか分からないくなる。
この病院の訪問が正式な仕事の範疇を超えているのが、ギリギリ妥協した理由だった。
黙ったままでエレベーターに乗り、チラリと横のフェイを見上げれば、真面目くさった顔 で上昇を示すランプを見つめている。
「ポンペ病っていう病気の子どもたちが入院しているの。わたしとカルロスは、その子たち の薬を作るための実験をしていた。でも失敗して」
「ああ」
フェイも立ち会った、大量のウサギの死体が生んだ現場を思い出した様子で頷く。
「わたしたちの失敗で、あの子たちは命をつなぐ希望を断ち切ってしまったのかもしれない」
ゆっくりと上昇を緩め、目的の階に近づいたことを示すエレベーターの中に、沈黙が落ち る。
「マリーは一生懸命にやった。それは俺がこの目で見ていたから」
その言葉に頷くことはできなかった。
一生懸命になっただけでは許されない世界があるのだ。ことに命が関わる仕事の世界では。
エレベーターのドアが開く。
開いたドアの向こうに、涙をこぼす家族の姿があった。
そしてストレッチャーの上のシーツに包まれた死体が一つ。
涙をこぼす母親が手にしていたのは、ローズマリーにも見覚えがあるクマのぬいぐるみを 描いた絵本だった。
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