第八章  幻惑



    
 決められたことを、落ち度なく淡々とこなしていく。  大学へ行き、病院での実習を繰り返し、レポートを提出し、家では今まで以上に家事を計 画的に行っていく。  家ですれ違う度に、ジャスティスがそれを痛々しげな視線で見てくるが、ローズマリーは 気づかぬ振りで会話も交わすことなく過ごしていた。 「もう大丈夫かね?」  ローズマリーの指導教官の医師も、何度かそう尋ねてきたが、その度にローズマリーは 「はい」と一分の迷いもなく返答していた。  いつもと変わることなく、なんでも出来ている。アンネの死によって、傷を負った部分な どない。なぜならこの世界は、アンネが死んでいなくなってしまっても、何一つ変わること なく時間が経過しているのだから。だからわたしも変わらない。  アンネとの思い出を大事に胸にしまってはいるが、失われたことに振りまわされて、現実 から目を反らしてはならない。  ローズマリーは自分にそう言い聞かせ、日常の雑事に自分を忙殺していった。  それがアンネの死と向き合うことから目を背けた行いだということには気づかずに。  入浴を終え、濡れた髪をタオルで拭いながら、ローズマリーは部屋に入り、いつものよう にドレッサーの前に座った。  前よりも随分と長くなってしまった髪が、胸の辺りまでを覆ってバスローブを濡らしてい く。  タオルで髪の先から垂れる雫を拭いながら、視線はぼうっと鏡の中の自分を見つめていた。  心の奥底でわだかまっている澱のようなものが、どんよりとした疲れを放っていた。それ が重くて堪らない。体の奥から人知れず現れた暗雲の手が、心臓をゆっくりと握りつぶそう としているように、息苦しさを感じる。  ただ疲れているだけ。やる事が多くてゆっくりと休む時間がとれないせいで、ストレスが 体を蝕んでいるだけ。そう。ストレスの原因はこの毎日の煩雑とした日常。それ以外のなに ものでもない。  自然と意識するでもなく、言い訳が思いの中を駆け巡っていく。  そして出された結論に、ホッと安堵の息をつく。そう、それでいいのだと。  コンコンとドアを叩くノックの音がする。 「ジャスティス?」  夜のこんな時間に部屋にやってくるとすればジャスティスだが、なんとなくドアの向こう からする気配が弟のものでないと感じたローズマリーが声をかける。  それに対して返ってきた声は、ジャスティスではなくフェイだった。 「俺」  それに一瞬無言という返答をしたローズマリーだったが、追い返す理由もないとイスから 立ち上がり、ドアの前まで歩いていく。  人に会うことが億劫でならなかった。仕事という必要最低限の人間関係は、表情と感情に 上塗りした薄い笑みでやり過ごすことができるが、フェイ相手ではそうはいかない。自分の 感情の奥へと手を突っ込まれる。それが分かるからこそ、避けていた。 「どちらの俺様かしら?」  ドアを開けながら、憎まれ口を叩き、なんとか笑みを浮かべる。 「ローズマリーの恋人の俺様はこの世の中に一人でしょう?」  フェイも笑顔で返すと、ドアの隙間から手を伸ばしてローズマリーの頬に触れ、当たり前 のように顔を寄せる。  フェイの慣れ親しんだ息づかいが頬を掠め、唇に触れそうになる。  その瞬間に、ローズマリーはほんの少し顔を背けた。  フェイのキスは唇をそれて、ローズマリーの口の端に触れる。  一瞬それに気づいたフェイが、ローズマリーの真意を探る様にじっと背けられた目を見つ める。  だが何かを問いかけるでもなく、ローズマリーの肩を抱くと部屋の中に入っていく。 「風呂上がりだったんだ。前から思ってたけど、そのシャンプーいい匂いだね」 「そう? 肌の弱いジャスティスのために見つけたカモミールのシャンプーなの」 「へぇ。ローズマリーは昔から弟思いだからな。俺は何度それに嫉妬して、ジャスティスに なりたいと思ったことか」  ドレッサーの前に戻ったローズマリーの後で、ベッドの上に腰かけたフェイが言う。  それを鏡越しに見ながら、ローズマリーが笑う。 「そうだったの? ジャスティスはあなたに憧れてたみたいよ。体が強くて自分の言いたい ことをはっきりと主張できて」 「それは、俺が主張し続けないと俺の居場所がなくなるって分かっていたから。でもジャス ティスにはそんなことしなくても、ローズマリーっていう帰れる場所があるからな」  痛い思い出を苦笑交じりで語ったフェイだったが、鏡の中のローズマリーと目があってほ ほ笑む。 「でも今は俺にもローズマリーが大事な居場所だからな。もうあいつに嫉妬したりしないし。 ローズマリーにとっても、俺が居場所になれたら嬉しいけど」  その何気ない言葉の中に込められたフェイの思いは十分に伝わったが、ローズマリーは分 からないふりで微笑み返す。 「そうね。彼氏が弟に嫉妬じゃねぇ」  フェイもローズマリーの意図に気づいて歯がゆさを滲ませた笑顔で頷く。 「そう、俺はマリーの彼氏だからね」  フェイはそう言ってベッドから立ち上がると、ドレッサーの前のローズマリーの背中に立 ち、屈みこむようにして抱きしめる。  ぎゅっと強すぎず、だが体全体を覆ってくれる暖かなフェイの体温に、ローズマリーが目 を閉じる。 「風呂上がりのくせに、体が冷えてる。これじゃあ風邪ひくぞ。医者の卵さん」 「だったらアスピリンを飲んでおく」 「そうやってなんでも薬に頼るのが、現代医療の悪い癖だ」  耳元で囁いたフェイが、もう一度ギュッと抱きしめると、ドレッサーの上のドライヤーを 手にとってローズマリーの髪を乾かし始める。 「随分と髪が長くなったな」  ゴーというドライヤーの大きな音の向こうから、フェイの声が聞こえる。  頭に当たる暖かい風に、冷え始めていた体全体も再び暖かい湯を浴びたようにほぐれてい く。 「そうね。このまま放っておいたら、本当にラプンチェルのお姫様みたいになるかしら?」  フェイの指が頭皮を撫でていくのを感じながら、ローズマリーが呟く。 「あの王子様を待てずに、自分の長くなった髪をロープ代わりに塔から脱出しちゃったお姫 さまの話?」  濡れてウェーブを描くローズマリーの髪をひと房掴んで笑いながら、くるくるとそれを捩 じってロープになるのか? などと呟く。  だがその髪を手の中から離すと、ローズマリーの耳元に顔を寄せて囁く。 「そんなことになる前に、俺が助けだすから」  フェイがドライヤーのスイッチを切り、ローズマリーをイスの上から抱き上げる。 「まだ髪が乾いてないわ」  フェイの腕の中に抱きあげられながら、ローズマリーは抗議するように言う。 「頭皮あたりは乾いた。今度は体を暖めないと」  ベッドの上に運ばれながら、過る予感にフェイの胸に当てた手をぎゅっと握る。  ローズマリーをベッドに横たえ、上から覆いかぶさったフェイがじっと瞳を覗きこむよう に見つめ、囁く。 「俺がローズマリーを守るから。ラプンチェルの姫みたいに、一人で逃げていかないで」  数センチの距離で見つめるフェイの目が、ローズマリーの心を見透かそうと、一瞬の動き も見逃すまいと覗きこむ。  それに耐えきれず、そっと目を反らし、代わりにフェイの唇を見つめる。  何度もキスをした柔らかい唇。その少し開いた隙間から白い歯が見える。何かを言おうと したのか、赤い舌が動き、それから言うべき言葉を見つけられずに閉じられる。  キスで誤魔化すことは嫌いだった。その場の勢いと慾情で話し合うべきことから目を背け、 一瞬の快楽に覚える。そんな人間にはなりたくないと思ってきた。  だが、今はフェイに自分の心の中を暴かれたくはなかった。  そしてそれを、フェイの自分への気持ちを利用することへの言い訳にした。  自分の上にあるフェイの首に手を回し、頭を起こして自分からその唇にキスをする。触れ るだけのキスから、深くつながるようにその下唇を舌で撫でる。  すぐにフェイもそれに応え、ローズマリーの舌に自分の舌を絡める。  起こしていた頭をベッドの枕に押し付けられ、息もたえだえに唇を離す。  フェイの手がローズマリーの肩にかかる。  こんな風にフェイと体をともにすることが正しいとは思わなかった。ただ自分の感情を持 て余し、逃避のための材料にするなんてことは。  それでも、今はそうするしかないと思えた。フェイの暖かさに甘えたいと。  ローズマリーはフェイの手が自分の体に触れてくるのを待って目を閉じた。  だがなかなか肩から下りていかない手に、いぶかしむように目を開けた。 「今抱かれたい?」  ほんの少し笑みを混ぜた真剣な顔で聞かれ、ローズマリーは応えに窮して目を見張った。 「俺は、……本音を言えば、いつだってマリーを抱けるなら抱きたいと思ってる。でも、… …今は違う。何度もするセックスの中に、こんなのもあっていいかもしれない。慰めあうだ けのものも。でも、今はそうしたくない。……わかるだろ?」  一言一言を選ぶようにゆっくりと話すフェイに、ローズマリーは自分を恥じて目を閉じ、 静かに頷いた。  フェイはローズマリーの頭を抱きしめると、ベッドの中に自分ももぐりこみ、冷えた体を 抱きしめた。 「でもいつだって俺はマリーを大事にして側にいてあげたい。こんな風に冷えた体を温めて あげたり、傷ついた心に手を当ててあげることくらいはしたい」  その声をフェイの胸から直接聞きながら、ローズマリーは体に込めていた力は抜き、体の 全てをフェイに預けた。 「ありがとう」  頬をフェイの腕に擦りよせて目を閉じる。  熱いほどの体温が心地よかった。  今はこの腕の中で眠ってしまいたかった。  そっとフェイがローズマリーの髪を撫でる。 「大丈夫。俺が側にいるから。誰にもマリーを傷つけさせないから」
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