第八章  幻惑



          
 精を放ち、荒い息のままでしばしの余韻に浸る。
 だが同時に急速に冷えていく興奮の熱が、抑え込まれていた理性を呼び戻す。
 自分の吐く息で上下する自分の体と、その下で未だ自分と繋がったままのレイリの体。開
かれたレイリの足の間に分け入っている、傲慢な自分の体を見下ろし、痺れていた頭が何か
を訴え、カルロスを責めていた。
 暴かれたレイリのブラウスの間には、自分の唾液に濡れた歯型が、痛々しく紫色に変色し、
強く掴んだ手形をその乳房の上に残していた。
 耳につくレイリのすすり泣きの声。
 両手で顔を覆って、洩れる声を必死に抑えようと口を押さえている。
 怯えれば怯えるほど、この猛獣を猛らせるのだと本能的に理解いているように。
 一体自分は何を考えていたのか。
 カルロスはそっとレイリの中から自分自身を抜くと、ソファーから立ちあがってレイリを
見下ろした。
 何かに憑かれていたとしか思えない。なぜ自分があんなにも、誰かを傷つけたいと思った
のか。この自分が愛しいと思える存在を泣き叫ばせて、快感を得てしまったのか。
 欲望という麻薬に侵されていたかのようだった。体から抜け去った欲望の後に残るのは、
後悔と虚しさ。
「……レイリ」
 レイリが震えるソファーの足元に膝を付き、自分の犯した罪の大きさに戸惑いながら、カ
ルロスが声を掛ける。自分の声だとは思えないほどに、自信のない、罪の許しを願う怯えた
子どものような声だった。
「すまない。こんなことをするなんて……。信じられない。本当に」
 怯えるレイリを宥めるように、そっとレイリの額に手を当て、髪を撫でる。
 その手に一瞬、ビクっと体を震わせ、これ以上逃げられないというのにソファーの上で体
を縮こませたレイリに、カルロスの胸の内が引き裂かれるように痛んだ。
「許してくれ、レイリ。二度とこんなことはしない。どうか許して」
 今まで、これほどに誰かの許しを乞うたことがあっただろうか。そう自問して、カルロス
は一度としてそんなことがなかったことに自分の傲慢さを思い知った。
 失敗もした。故意に悪事を働いたこともあった。それが露見し、怒られようが、口では謝
罪の言葉を述べようとも、心から悔いたことはなかった。
 なぜなら、自分は今までに目にした誰よりも価値があると思っていたからだ。自分より無
価値な者に、なぜ頭を下げなければならない。なぜ、気持ちを思いやってやらなければなら
ない。気を遣うのだとしたら、それは俺ではなく、お前たちの方だ。世の中のためにならな
いのなら、せめて俺を楽しませろよ。
 言葉にして腹の中で思っていたわけではない。だが、それだけに、それが自分の本質とも
いうべき真理なのだ。
「レイリ」
 どうか許すという言葉を聞かせてほしいと、泣き続ける恋人の手を握る。
 顔を覆っていた手をそっと包み、顔を出させる。
「愛してる。本当だ。誰に蔑まれようが、おまえにだけは、愛されていたい。だから」
 自分の中から、こんな言葉が生まれようとは思ってもみなかった。
 プライドを身にまとったもう一人のカルロスが、ありえないと首を振るのを感じながらも、
このままレイリに背を向けられるのを何よりも恐れる自分がいるのを感じていた。
 レイリが涙に濡れ、赤くなった目でカルロスを見つめかえす。
「……手を。……手を離して」
 レイリの震える声に、掴んでいた手を離しながら、カルロスは自分の手ですら振り払われ
るほどに嫌悪されているのかと、胸に苦みを感じる。
 レイリは上体を起こすと、カルロスから顔を背けて涙を拭い、乱れた衣服を整える。
 このまま自分の前から居なくなってしまうのだろうか。
 そんな想像にレイリの肩に手を置こうとする自分がいたが、同時にそこまで縋ろうとする
自分の情けなさに、その行動を抑える自分がいた。
 ただ瞳だけがレイリの動作の一つ一つから、答えを見出そうと必死に動いていた。
「カルロス」
 レイリが顔を背けたままで名前を呼ぶ。
 それに耳を傾け、カルロスは次の言葉を待った。
「わたし、本当に怖かった」
 レイリの肩が震えているのに気づき、カルロスはなす術もなくうな垂れる。
「すまない。どうしてこんなことをしてしまったのか。レイリを傷つけるなんてこと」
 だが言いかけたカルロスの言葉を遮って、レイリが言う。
「わたしのことじゃない。あんな風にされたら、赤ちゃんが死んでしまうんじゃないかって」
「……赤ちゃん?」
 カルロスはその言葉の意味を取り損ねて、呆然とした顔でレイリの背中を見続けた。
 だが次第にそれが頭の中で意味をなしていく。
「レイリ。それは、今、レイリのお腹の中に俺との子どもがいると?」
 その問いかけに、レイリが背中を向けたままに頷く。
 自分の子ども。
 その衝撃に、カルロスは自分がどんな顔をしているのかも分からず、レイリの肩に手を掛
けた。
 レイリが振り返り、カルロスの表情を確かめるように探る眼で見つめる。
 お互いに相手の真意を見出そうとしながら、言葉にはできないまま、それを肌から伝えよ
うとして抱きしめあう。
 子どもができた? 
 喜ぶべきことなのだとは思った。だが気持ちがついてこなかった。
 それはきっと、こんな事態になってしまったことと、突然の告白に脳がマヒしてしまって
いるからに違いない。
 カルロスはそう自分に言い聞かせ、戸惑いを感じ取らせまいとレイリを抱きしめた。
 そしてレイリも、その抱擁が何を意味するのか分からないまま、きっとそれが自分の望ん
でいる答えと同じなのであろうと思おうとしていた。
 レイリはそっと手を伸ばし、カルロスの背中に手を添えた。

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