第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



   
 朝の起き抜けが一番苦しい時間だった。  空腹だが、強烈な吐き気に襲われる。  湧き上がってくるのは胸から喉までを焼く熱い感覚と、そのあとに来る酸っぱい胃液の味。 吐くものが胃の中にないのだから、胃液を吐くしかない。  レイリは部屋のトイレで一人便器にしがみつく様にして、透明な水を汚す黄色い液体が渦 巻く様子を涙で曇る視界の中で眺めていた。  もう隠しておくことはできない。家の中でも顔を合わせていない両親は気づいていないが、 執事やメイドの幾人かはレイリの妊娠に気づいている。いつ両親に知られるとも分からない 状態だ。  その時までにはカルロスと話し合っておかないとならない。そうでないと、彼がただ、娘 を孕ませて放置した悪人にされてしまう。  それに来月に迫った公演の役についても考えなければならない。  念願のオデットとはいえ、このまま演じ続けることが果たして可能なのかどうか。まだ安 定期ではないのだから。  頭では分かっていても、気持ちが考えることを拒否して逃げ出していく。  レイリは重い体を起こすと、洗面台で口をゆすぎ、鏡の中の自分の顔を見た。  蒼ざめて艶もない悲惨と言ってもいい顔が自分を見つめ返していた。  濡れた手で髪を梳き、乱れて顔の周りに張り付いた髪だけは整える。  まだ膨らんでもいないネグリジェの下の腹が目に入る。  実感は全くない。でもこの辛いつわりが体の中にもう一つの命が宿っていることを物語っ ている。 「わたしがあなたのことをきちんと受け入れていないから、だからこんなに辛いのかな?」  言いながらレイリは自然と頬を伝った涙に大きく目を見開き、それから目をギュッと閉じ た。  子どもができたら、心の底から喜んで、夫となる人と抱き合って歓声を上げられるものだ と思っていた。  それが、こんなに恐怖することになるとは。  それどころか、自分の中に宿った命をうとましく感じるなんてことになろうとは。 「ごめんね。ちゃんと愛してあげられるようになるから」  レイリは涙を堪えながら腹に手を当てると、腹の中の赤子に約束するように呟いた。  一か月ぶりにカルロスへの電話の通話ボタンを押す。  普段はわりとまめに電話をしたりメールに返事をくれたりするカルロスも、研究で忙しく なると他に目が入らないほどに没頭していまい、これまでもそれが原因で何度か喧嘩したほ どだった。  今回も彼の方から連絡がないのは、研究に忙しくて寝食も忘れているに違いない。  そんなときに電話をすると不機嫌極まりない声で応対されるのがおちなのだが、今回はそ んなことで気おくれしているわけにはいかないのだ。  案の定カルロスが電話に出た声は最悪の気分にさせるものだった。 「はい」  低くおざなりに返された声に、レイリの声も震える。 「……久しぶりね。………研究で忙しい時にごめんなさい」 「ああ。忙しいんだ。用がないなら――」  今にも切られそうなカルロスの電話に、レイリは慌てて言葉を継いだ。 「大事な話があるの。本当に大事なの。これでもあなたの研究が一段落してくれればって待 ってたくらいなの。……分かるでしょう? 一か月も連絡いれないで我慢していたのよ」  本当は連絡しようにも、自分の気持ちに決着がつかなかった一か月という期間だったが、 会わずに連絡も取らない期間として現実にそこにある事実に、カルロスも電話の向こうで沈 黙する。 「会わないとできない話なのか?」 「ええ。電話で済ませられる話じゃないの」  カルロスの気持ちをこちらに向けることができた安心感と、これから数時間後に打ち明け なければならない事実に、声が固くなる。  それを感じ取ったらしいカルロスが電話の向こうで沈黙と同時に、何かを探るように考え 込んでいるのが分かる。 「分かった。今日はこれで家に帰るから、昼過ぎに家に来てくれるか?」  面倒そうではあったが、カルロスがそう約束する声に頷き、レイリは電話を切った。  まだ時間は午前9時を少し回ったところ。昼過ぎまでにはまだ時間があった。  脳裏に過るのはローズマリーの顔だった。  助けてほしいと思うのが本音だった。  これから一人でカルロスの元に行って話を付けることができるのか。不安で仕方がなかっ た。  でも同時に自分の彼に会うのに第三者を立ち会わせるのはおかしなことにも感じる。  自分がカルロスを信頼していない証ではないかという気もしてくる。 「一緒に行ってもらわなくても、その前に話はしておくくらいならいいわよね」  この前ローズマリーが家に訪ねてきてくれて以来になるが、あの時に自分の頑なな態度も 謝っておきたい。  レイリは出掛ける支度を整えると、ローズマリーの家へと車を走らせた。  だがローズマリーに会うことは叶わなかった。  ちょうどローズマリーの家から出てきたレイチェルと出会ったからだ。 「あの、今日はちょっと会わない方がいいかもしれないですよ。アンネって知ってますか?  マリーお姉さんが担当していた女の子なんですけど、白血病が悪化して亡くなったんです。 昨日までお葬式とかなんかですごく忙しくて」 「そう」  レイリは車の運転席で頷くと、自分の中で広がっていく不安を感じて目を伏せた。  それをじっと見下ろしているレイチェルの視線に気づき、レイリが顔を上げると、思いつ いた考えに笑みを浮かべた。 「ねぇ、レイチェル。ちょっと一緒にお茶でも飲みに行かない? わたしたち、まだ個人的 にはいろんな話をしたことがないものね」  そのレイリの提案に、レイチェルは素直に嬉しそうに笑顔で頷くと、レイリの示した車の 助手席に乗り込む。  元気が体全体から触れ出しているような、明るい笑顔が隣りに座るだけで、レイリは自分 の中にも太陽の光が射した暖かさを感じた。  ローズマリーの助言のようなものは得られないかもしれないけれど、カルロスに会うまで の不安な時間を、少しでも楽しく過ごすことができるかもしれない。  午後は大学があるというレイチェルのために、大学の側の喫茶店に二人で入る。  そしてここでも思いがけない人物に出会うのであった。 「いらっしゃいませ」  若い男の声が聞いたことのある声の気がして目を向ければ、カウンターの中でコーヒーを 入れているフェイに気づく。 「あ!」  そして先の声を上げたのはレイチェルだった。  その声に顔を上げたフェイが思いがけない二人の登場に、少しびっくりした顔をしてから 笑顔で「いらっしゃいませ」と応じる。  レイチェルが人懐こくカウンターの前まで駆け寄っていくと、フェイに何やら真剣な顔で 話しかけている。  それを見ながらレイリはその後を追えずに立ち尽くしていた。  今の状態では、大好きなコーヒーの匂いも吐き気を起こすものになるからだ。淹れたての コーヒーの強烈な香りに近づくことができない。 「はいはい。分かってますよ。ご助言ありがたく受け取っておきます」  フェイはレイチェルに相槌と打つと、カウンターの席に座ろうとしていたレイチェルを遮 った。 「そこじゃなくて、向こうの特等席にご案内しますよ」  カウンターから出てきて二人を先導しようと腕で先を示すフェイに、レイチェルがなんで ? という顔をしてレイリの顔を見る。  だがレイリはフェイの何も言わず、顔には出さないまでも自分の状態を察してくれている 様子に、恥ずかしさと同時に緊張が解ける安心を感じていた。 「レイチェル、特等席ですって。せっかくだから、案内していただきましょう。ね?」  すでにカウンターの回る椅子に座っていたレイチェルだったが、レイリの巧みな言葉に 「うん」と上機嫌で飛び降りるようにして椅子から立ち上がる。  そしてフェイの横を通り過ぎて先へと走っていく。 「本当に特等席?」 「はい。もう、キレイなお嬢さんしかご案内しない特等席。ついでに俺のおごりでアイスあ げるから」  フェイの世辞に満足そうに満面の笑みを見せたレイチェルが振り返る。  その顔をかわいらしいと思って眺めながら、レイリはフェイに微笑みかける。 「ありがとう」  いろいろな意味を込めた言葉に、フェイは全てを理解した顔で頷く。 「どういたしまして」
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