第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑




 他愛のない世間話で笑った次の瞬間に訪れる一瞬の静寂。
 そのわずかな時間に脳裏に浮かんでくるのはアンネの目を閉じた死した瞬間の顔であった。
 ほんの数ミクロンの隙間でも空白があれば思い出さずにはいられなかった。
「ジャスティス?」
 そんな感情を感じ取ったように声をかけてくれるレイチェルに、ジャスティスは無理に笑
みを作る。そして隣りにあるレイチェルの手をとってギュッと握る。
「……アンネのこと、考えてたんだね」
「うん。ごめん」
 自分一人で時間を過ごすことができずに、家に呼び出したのは自分だというのに、大学が
終わってすぐに駆けつけてくれた彼女に何もしてやれずにいる自分が情けなかった。
 それでもレイチェルは何も言わずに隣りに居続けてくれた。
 ただ手を握って、時折ジャスティスの気持ちを紛らわせるように笑い話をして。
 その一瞬、一瞬だけは心を占める痛みから離れられるのに、すぐに強烈な誘引力で泥沼の
暗澹たる思考へと引きずられていく。
 泥の粘度をもって絡めとられた悲しみは、ジャスティスの体と精神を確実に侵食していた。
 横顔からそれを感じ取ったレイチェルは、そっとジャスティスの肩に手を回すと胸の中に
抱き締めた。
 その胸の中に倒れ込んだジャスティスは、レイチェルの背中のシャツを握りしめる。
「ジャスティス。泣いていいよ。我慢することなんてない。泣きたいときには思いっきり泣
いたらいいだから。ね? わたしも一緒に泣いてあげるから」
 レイチェルは僅かに震えるジャスティスの背中を撫でながら、一緒に堪えることなく涙を
ジャスティスの背中に落し続けた。
 あのアンネの命が尽きたなどとは、レイチェルにも信じがたいことだった。
 白い棺の中で眠る姿も目にした。
 人形のように美しい顔だった。
 棺の中でも、アンネはジャスティスに貰った髪留めを誇らしそうにしていた。
 ジャスティスが冷たく青ざめたアンネの唇に初めてのキスをする姿が、胸がつぶれるほど
苦しかった。
 きっと生きていたら、どれだけキレイな子になっていただろう。とてもわたしなんて敵わ
ないだろうなとレイチェルは思った。
 そうしていたら、ジャスティスはアンネに取られちゃっていたかな? そうならないため
に正々堂々と闘って、それから友達になりたかった。同じジャスティスを好きになった女の
子同士として。
 それともアンネが大きくなれば、ジャスティスなんて目じゃないくらいに素敵な男の子が
現れて、誰もが羨む恋人同士になれていたのかな?
 レイチェルは自分の胸を濡らすジャスティスの涙を感じながら、決して未来にも会うこと
が叶うことのなくなったアンネの姿を消すことができなかった。
 どうしても会いたかった。
 まだどこかの空の下で、憎まれ口を叩きながら笑っているアンネがいるのだと信じたかっ
た。


 泣きながら眠ってしまったジャスティスに布団を掛けて部屋を出たレイチェルは、同時に
玄関のドアが開いた音がしたのに気づいた。
 ローズマリーが帰ってきたのだろう。
 お葬式の後も残ってアンネの母の手伝いをすると言っていたが、きっと疲れているだろう。
 そう思ったレイチェルがお茶でも淹れてあげた方がいいだろうと玄関に向かった。
 玄関には薄手のコートを脱いでいる最中のローズマリーが立っていた。
 薄暗くなりはじめた玄関のせいかもしれないが、暗く沈んだローズマリーの顔は、声を掛
けるのをためらわせるほどだった。
 だるそうにスリッパを履いた足で歩きだそうとしたローズマリーが、立ち尽くしていたレ
イチェルに気づいて顔を上げる。
 目が合いそうになって、レイチェルは慌てて笑顔を作る。
「おかえり。お疲れ様でした」
「ええ。あなたもお葬式に来てくれて嬉しかったわ」
「うん。お別れだけはしておきたかったの。……ねぇお茶でも淹れるよ。少し一息入れて。
それから休んで。ジャスティスも疲れたみたいで寝ちゃってるから」
 レイチェルは重く沈んだローズマリーと会話をこのまま続けることが苦しくなって、台所
にむかって小走りに駆けだした。
 だがその背中にローズマリーのが言う。
「……気を使わせてしまったわね。ありがとう。でも、悪いけれど今はそういう気分になれ
ないの。少し、一人にして欲しいの」
 疲れの滲む声で小さく言われ、レイチェルは慌てて「うん。そうだよね」と勢い込んで頷
く。
「わたしなら大丈夫だから。ジャスティスについていてあげてくれる? あの子は繊細だか
ら、一人で人の死を乗り越えることができないかもしれないから」
 ローズマリーが微かに微笑む。
 それに頷き返し、レイチェルは廊下を歩み去っていくローズマリーの背中を見送った。
 いつもの真っ直ぐに伸びた背中が、腕にコートを掛けて切なく泣いている。
 それが分かっても、助けになれないことがレイチェルには哀しかった。
「……全然大丈夫じゃないじゃない」
 レイチェルは歯がゆい思いを手の中で握り締めるとつぶやいた。

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