第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑




 死の前の静寂。
 まるでこの世を去る準備を終えた者に与えられた、最後の別れのための時間。
 それまでの苦しみが嘘であったように、喘鳴が止まり、静かに目を閉じた白い顔が穏やか
に眠っていた。
 眠れる森のお姫様のようだった。
 後でジャスティスが呟いたその言葉のままに、側に立ったローズマリーとジャスティスの
気配に目を開けたアンネがほほ笑む。
「………」
 アンネの唇が二人の名前を呼ぶ。だがそれは音にはならなかった。
 でも確かにその声を聞いた二人が、微笑み返してその手を握る。
 熱があるはずの手が、いやに冷たくなっていた。
 その指が、ローズマリーの手の平に言葉を紡いでいく。
―― 今までありがとう。ローズマリーに会えて良かった。
 指の記すアンネの言葉に、ローズマリーはただ静かに頷いた。
 そしてジャスティスの手にも、同じように言葉を記す。
―― わたしの王子様になってくれてありがとう。とっても大好きだったよ。
 指で一文字一文字、大事な言葉を記していく。ゆっくりと、決して消えない思いを刻みつ
けるように。
アンネは少し疲れたようにほうと息をつくと、母親に目を向ける。そして手を伸ばす。
 その手を笑顔で握り、アンネの母が娘の頬を優しく撫でる。
 その手触りと温度に安堵して目を閉じたアンネが、小さくささやく声で母の耳に告げた。
「わたしを産んでくれてありがとう。ママが大好き。もっと一緒にいたかった」
 閉じられたアンネの笑みに形作られた眦から一筋涙が流れていく。
「うん、そうね。ママもアンネともっと一緒にいたいな。でも、こうしてアンネに会えて、
ママはとっても楽しかった。アンネも楽しかったよね。だから、安心して眠っていいんだよ。
ママがずっと抱っこしていてあげるからね」
 子守唄のように安らかに耳に流れるその声を聞きながら、アンネがゆっくりと頷く。
 そして静かに永遠の眠りについた。


 人が死ぬことなんて当たり前で、そんなことは小さな子供だって知っている。
 でも知っているのと理解しているのとは、こんなにも違うことだったのだ。
 アンネの葬式を終え、アンネの眠る墓に花を手向けながらローズマリーは考えていた。
 アンネの死が、ローズマリーの初めて経験する間近で見る死であった。
 誰もが死ぬ。
 でもアンネの死は間違っている。まだ死んでいい命ではなかったはずだ。
 本当ならアンネの母を気遣って助けてやるべきだと分かっているのに、かえって気遣われ
るような状況だった。
 多くの友人や親族が家を訪れ、慰めの言葉やアンネとの思い出を語り合う。そうした人た
ちをもてなし、言葉を交わす。
 時に涙も見せるが、アンネの母は自分を慰め、アンネへの思いを語ってくれる友人たちに
感謝の言葉を述べ、気丈に振舞って、一人悲しみに逃げ込んでしまおうとはしなかった。
 ローズマリーもそうでなければならないと思っているし、忙しい彼女を助けるために来た
のだからと、客のための接待の準備をしたり、片付けをしたりと忙しく動き回っているのだ
が、気がつくと暗い思考の先へと沈んでしまう。
「あの子は本当に我慢強い子でね、転んでも平気だよなんて公園で泣きもせずに足の怪我を
自分で洗っていたわね。きっと泣いたりしたらお母さんを煩わせるって、幼いながらに考え
ていたんでしょうね。偉い子だったわ。それなのに、ねぇ……」
 紅茶のグラスを手渡した婦人がローズマリーに語ると、そのまま言葉を無くしてハンカチ
で目元を覆う。
「本当にいい子でしたからね。皆様に愛されていたのがわかります。わたしも本当にアンネ
ともっといろんな話をしたり、遊びに連れて行ってあげたりしたかった」
 悲しみよりも悔しさがこみ上げる。
 あの子が死ぬなんて、間違っている。
 空いたコップを台所に運びながら、ローズマリーは心に湧きあがる想いに整理がつけられ
ず、蛇口をひねると皿を洗いながらボーっと流れる水を見つめていた。
『いちいち患者一人の死で感傷的になっていたら、この仕事はやっていけない。悲しむなと
は言わない。だが、感情で仕事をするな。理性で動け。自分に求められていることはなにか。
それを考えろ。今、お前がすべきことは、死んだ子供のことを考え続けることじゃない。
次の患者は救えるように、より技術磨き、知識を蓄えることだ』
 指導担当の医師に告げられた言葉が脳裏を過る。
 それが正論であることは、よく理解できた。
 でも頭では分かっていても、心がそれを受け入れてくれない。
 アンネの死を、済んだことだと過去に流すことができない。
 ましてアンネの死を踏み台に、自分が医者としてのステップアップしていこうなどという
気にはなれない。
 アンネを死なせてしまったことが悔しかった。何もしてあげられなかった自分が憎かった。
 まるで自分の手の平で作った水たまりに浮かんだ小さな美しい花を、水の流れに逆らえず
に、ただ流れ落ちて消えていくのを黙って見つめていたような気持ちだった。
 自分の手の中にあるのに、何もしてあげられない。救うことも、抗うことも。
 そんな考えに沈んでいたローズマリーの肩を、そっと握る手があった。
「ローズマリー。ありがとう」
 アンネの母がそう言うと、隣に並んで洗った皿をゆすぎ始める。
「あの子が大きくなったら、一緒にキッチンに並んでお料理するのが夢だったの」
 笑顔でそう言ってローズマリーを見上げたアンネの母が、どんな顔をすべきなのか分から
ずに眉を下げるローズマリーに優しく微笑む。
「わたしは、何一つ思い残すことはないの。短かったけれど、思い出も一緒にたくさん作ろ
うねって、二人で毎日いろんな話をしたわ。空想の世界を二人で旅したこともあったわ。本
当に楽しかった。あの子がわたしの子どもとして生まれてきてくれて、本当に嬉しかった。
そしてあの子も、あの子の人生を楽しむことができたはず。心から信頼できるお姉さんに出
会えて、初めての恋もした。そうやって、誰もが持てるわけではない大切な絆を感じながら
眠りにつくことができた」
 そのアンネの母の言葉を聞きながら、ローズマリーは初めて自分の目から溢れる涙を堪え
ずに流すことができた。
 声もあげず、ただ顎から滴る涙を見ながら皿やコップを洗い続ける。
「ありがとう。ローズマリー」
 アンネの母がローズマリーの背中に手を置くと、労わる様に撫で、去っていく。
 アンネの母はああ言っていたけれど、確かにそうなのかもしれないけれど。
 ローズマリーは誰もいなくなったキッチンで手を泡だらけにしながら、嗚咽を上げると崩
れるように床に膝をついた。
 あの子にしてあげられなかったことがあり過ぎる。
 死んでほしくなかった。
 思い残すことがないなんて、どうがんばっても言えない。
 なぜ死んでしまったの。
 あふれる感情に思いを押しつぶされながら、ローズマリーは一人涙を流し続けた。

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