第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑




 いつもの歩きなれた道だった。
 街路樹が風に樹冠を楽しげに踊っているように揺れ、その下を足早に通り過ぎていくビジ
ネスマンや、笑い声を上げながら戯れて歩く少女たち。虫が羽音を立てて飛び回り、花々が
世界を極彩色に染めて輝く。
 平和で幸福に満ちた日常の風景。
 だがその中を歩きながら、ローズマリーは自分がそこに馴染めない、遊離した感覚の中を
漂っていた。
 まるで自分とは隔絶した理想の世界をガラスの向こうに眺めているような気分。手を伸ば
しても、目の前にあるのに触れることはできない。指にあたるのは冷えて硬いガラスの手触
り。
 そして自分と同じ世界にいる気配があるのはカルロス。
 カルロスの描き出す狂気の世界に飲み込まれてしまったのだろうか。それとも、その世界
に自ら惹かれて後ろ髪がひかれているのだろうか。
 ローズマリーは立ち止って大きく息をつくと、自分が今いる場所を確かめるように空を見
上げた。
 大丈夫。わたしはちゃんとこの世界の中にいる。この世界の一つのパーツとして嵌ってい
る。外されてはいない。
 自分の体が感じる全てを辿って生きている証明をしていく。
 風が肌を撫でていく。カラリと乾いた太陽の香りのする空気。光を受けてきらめく木々の
葉。青い空。その下でする鳥の声、人の話し声、車の走る音。遠くからはクレープを焼く甘
いにおいが漂ってくる。
「クレープか」
 アンネのことが頭をよぎる。
 その時、ハンドバックの中で携帯が着信を知らせる音を奏でて震える。
 ディスプレイに出た名前はジャスティス。
 仲はいい姉弟だと思うが、それでもジャスティスが携帯に電話をかけてくることは珍しい。
 一瞬嫌な予感が胸のうちを過る。
「ジャスティス? どうしたの?」
 問いかけた電話の向こうで、ジャスティスの震える声が聞こえた。
「………わかった。すぐに行く。ジャスティスは?」
 すでに涙声の弟を励まし、電話を切ったローズマリーは、再び世界から遊離していく自分
を感じて目を閉じた。
 この幸福な世界でいる場所を得られなかったのは、わたしではない。
 幸せな日常の中を歩いていける自分と、その中にあることを望みながら遠ざけられてしま
った者。
「アンネ………」
 ジャスティスの電話は、アンネの危篤を知らせるものだった。


 病室の廊下でうな垂れ、ただ奇跡を祈るように手を握る。
 ジャスティスのそんな姿の隣に、疲れきった顔で呆然としているアンネの母がいた。
 駆け付けたローズマリーの姿に顔をあげたアンネの母が、ほんの一瞬微笑んでから悲しく
顔を歪めた。
 涙はない。この時が来ることを誰よりも考え、受け入れる準備をしてきた者の達観が、そ
の体全体から滲んでいた。
「肺炎を起こして熱が下がらないんです。意識ももう無くて、朦朧とした熱に浮かされた目
を涙でいっぱいにしながら苦しそうにもがくんです。何度も肺までチューブを入れて吸引さ
れて、それでも息はゼイゼイと音を立て続けて」
 隣に座って背中に手をまわしたローズマリーに、アンネの母が語る。
 何もしれやれなくてと小さく言う声に、ローズマリーは黙ってその背中を抱くことしかで
きなかった。
 何もしてやれないのは医者とて同じだ。
 医学は万能ではない。医者も神ではない。
 ふっと息をついたアンネの母が背中を丸める。
「そんな風にあの子が苦しんでいるのに、あの息の音が生きている証拠だと安心してしまい
なんて酷い母親よね。あの音が止まらないでほしいと願ってしまう」
 どんな状態であろうと生きていてほしいと願ってしまう。
「ええ。生きて欲しい。わたしもそう思います」
 背中を抱く腕に力を込め、ローズマリーは言った。
 病室の中のアンネには人工呼吸器は取り付けられていない。延命処置はしないという選択
を取ったのだろう。
 アンネが自力で呼吸をすることができなくなったら、その時、アンネの命は歩むことを止
める。
「アンネが言ったんです。前に他の病室を覗いて大きな機械に付けられて眠っているだけの
子がいたのを見たって。あんな風にはなりたくないって。大きなおばけに体を乗っ取られて、
助けてほしいって言っているのが聞こえたって言うんです」
 人工呼吸器で強制的に酸素を送り込まれ、上下する胸と大きな音を立てる機械の音は、ア
ンネのような小さな子どもには恐ろしいかもしれない。
 だがもっと根源的な命としての危機を、アンネはこの時本能的に感じ取ったのかもしれな
い。
 こんな姿になって生きていることは、はたして生きているといえるのだろうか?
「死ぬのは怖い。けれどあんな風になるのはもっと怖い。死んでこの世界からわたしがいな
くなってしまうのは寂しいけど、死んだらもう苦しくないんだもの。ただ電気が消えるみた
いに暗くなって何も分からなくなるだけ。だったら、ママ、あんな風にしないで」
 アンナの言葉をそのままに暗唱して言うアンネの母が、手の中のハンカチをギュッと握っ
た。
「ずっと話し合ってきたんです。元気になれるように頑張ろうって語るのと同じくらい、死
を迎えるまでに何をしたいか、どうあって死にたいのか」
 赤くなった目をあげてアンネの母がローズマリーとジャスティスの手を握る。
「元気になったら、ローズマリーとジャスティスにキャンプに連れて行ってもらう。でも死
んでしまったら、わたしをずっと忘れないでたまに思い出して、心の中でわたしとお話した
り遊んでほしい。それがあの子の願いです」
 気丈にそう告げたアンネの母の目から涙が伝い落ちる。
「わかりました」
 頷いたローズマリーがアンネの母の手を握り返し、ジャスティスは俯き、声を殺して涙を
こぼす。
 そのとき、病室のドアが開く。
「ご家族は病室の中へ」

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