第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



  
「やあ、ローズマリー。久しぶり」  明かりのない薄暗い部屋の中で、ディスプレイの青白い光を浴びながら、カルロスが顔を 上げる。  受付で聞いてきた以上の顔色の悪さで、一瞬挨拶で上げた顔を再びコンピューターに向け て作業を開始する。  こんなカルロスは見たことがなかった。  ヒゲも剃らず、髪もろくに梳かしていないだろう。服もアイロンのあたっていない皺だら けで、もしかしたら何日かは同じ服を着ているのかもしれない。  ディスプレイの青白い光を浴びているというのに、どこか黒く沈んだ顔色は、半死人のよ うな顔つきだった。  近づくことをためらわせるその様子に、ローズマリーはドアを開けたきり立ち尽くしてい た。  この男に近づくことは野獣の巣に身を置くくらいに危険だ。  本能の警鐘がそれを伝えて打ち震えている。だが、同時に惹きつけられるように足が部屋 の中に一歩踏み出され、背中でドアを閉める。  取り憑かれたように何かの研究を続けるカルロスは、狂人のようでいて、その中に決して 常人ではたどり着けない場所へと人類を導く鍵を秘めているような可能性の光を見せつける。  だとしたらわたしは、死ぬと分かっていながらその輝く光に身を寄せてしまう蛾のような ものかもしれない。誘蛾灯に誘われて散る夜の蝶。 「いいところに来てくれたよ。きっと君ならこの研究の偉大さが分かってくれるだろうと思 っていたんだ」  キーボードの上を走る指を止めずに、カルロスが言う。 「……いったい何の研究を?」  ローズマリーはディスプレイの上で回転する塩基配列のモデルと、何万と並ぶA・G・T ・Cの文字列を眺める。  ホワイトボードの上に書きなぐられたカルロスの理論を示す数式と樹形図。  ウイルス、NK細胞、NKレセプター、活性、メモリー。  動物における免疫システムの流れを描いているのだとは分かるが、カルロスがいったい何 をしようとしているのかは分からなかった。 「カルロス、これは……」  ホワイトボードの文字を追いながら尋ねたローズマリーに、カルロスが顔を上げる。 「完璧な免疫システム。それが我々の求めるべきものだと思わないか?」  カルロスの顔の中で、瞳だけが妖しい光を発して燃えていた。 「いくら寿命を延ばす研究を続けたところで、病気で死ねばそれまでだ」  理論構築の最終部分にかかっているカルロスは熱に浮かされたように喋り続ける。  それを聞きながら、ローズマリーはそれまで行ってきたカルロスの研究日誌を渡されて目 を通していた。  今取り組んでいる研究の前、カルロスがマウスをつかってテロメアの伸長に関する研究を 行い、平均寿命をはるかに越え、若い肉体を保つことができる個体を作り上げたようだ。だ が、そのネズミもガンを発症して死亡した。いくら長く生きる可能性を与えたところで、病 気になれば、それですべては終わる。  だからこそ、長い命をより完成型にするための免疫力の強化なのだ。 「だが、だたの強化ではない。より完全な免疫システムが必要なのだ。免疫とは、免疫学的 な記憶によってより強度なものにしていくことができる」  人が一度罹った伝染病なら発病しないことがその証拠だ。そしてその理論を用いて、現在 でも活用されるのがワクチンだ。弱毒化した菌体を体内に入れてやることで、菌の形を免疫 システムが記憶する。そうすることで、伝染病を引き起こす細菌に遭遇しても、すぐに体内 に侵入した菌を掃討する準備を整えることができるのだ。  そうして後天的に免疫の記憶として抵抗力を身につけることもできるが、動物によっては 生まれつき免疫を持っているものもいる。  アンネも患う白血病に対して、マウスは免疫作用を持っている。それを利用して人間の白 血病細胞をマウスに感染させることで、マウスの脾臓内部に抗体を作らせることもできる。  ある意味では人間よりも動物の方が、免疫学的には完璧により近いものが多いのだ。 「だから、免疫学的なキメラを作るんだ」  カルロスはそう呟くと、ローズマリーに延々と続く塩基配列を見せる。 「マウス抗体の可変領域と人間の定常領域を繋いで作った、マウス・ヒトキメラ抗体だ。こ うやってできうる限りの免疫を人遺伝子に組み込んでいくんだ。そしてそれをもった受精卵 を作り上げる。そうすれば、より完全な免疫システムを持つ人間が生まれてくる」  カルロスの底光りする瞳に恐ろしささえ感じながら、ローズマリーは気圧されたように頷 いた。  確かに理論としてはできるかもしれない。そして免疫学的なキメラを作ることで、ガンの 治療に役立てるゲノム薬を作ることもできる。  だが、カルロスの考えはさらにその先の、倫理を踏み越えたところにあった。  人間を作り上げるのだ。より完璧な人間を作ることを目指して、遺伝学的には現在の人間 とはかけ離れたハイブリッドな人間を作りあげる。 「何をそんなに奇異な目でわたしを見る。科学者なら、誰でも目指してきたものは病気を撲 滅することだろう。今まではウイルス、細菌、寄生虫、そういった病気を媒介するものを消 滅させる方向で研究を進めてきた。だが、人間という種が他の種を滅ぼすなんている驕りは 未知のさらなる危険を産んできただけだ。結核一つ、撲滅なんてできなかった。  だったら発想の転換だ。共存だよ。世界に共にありながら、ともに生きていくためには、 人間がともに生きていくだけの強さを持てばいい。そうだろ。そうすることで、人間は苦し みからの解放を味わうことができる」  極論として語られる言葉に、ローズマリーは呑み込まれそうになりながら、踏みとどまっ て、科学者としてではなく人間として、それが正しいのかを考えようと、手の中のカルロス の研究日誌をギュッと握った。  自然と足も一歩後退る。  床の上でコツンと響いたヒールの音に、カルロスが眉を跳ね上げる。 「ローズマリー、君の意見を聞こうか?」  反論など聞く気はないという意思の刻まれた瞳を見返し、ローズマリーは息を飲んだ。  カルロスのやろうとしていることは、科学の新たな一歩かもしれないが、明らかに間違っ ている。 「キメラ抗体を作ることは構わないわ。そうやって研究を続けることで、より多くの病気へ の新たな治療法が見つかるかもしれない。  そしてより完璧な免疫システムを持つ人間を生み出したいという願いを持つことも間違っ てはいない。長い歴史の中で、多くの人間が挑んできたことだもの。でも、その命を生み出 すために、不用意に手を出していい領域ではないはずよ。キメラの人間なんて、ちゃんと人 間の姿で生まれてくる保障なんてどこにもないでしょう。生まれる以前に、命になるのかさ え分からない」 「だから実験するんだろう」 「命を安易に利用して切り刻むことは」 「許されない? 君もそんな青臭い倫理を振りまわす人間だとは思わなかったよ。どんな医 学の発展も、外面をいくら取り繕ってみたところで犠牲の上に成り立っていることに変わり はない。ミスとエラーを生身の人間相手に繰り返しながら真実を見極めていく。そうだろう」  カルロスが、ローズマリーに興味を無くしたことを示して背を向ける。  その背中を見つめながら、ローズマリーは語るべき言葉を探していた。  カルロスの語ることに真実がないわけではない。医学の進歩は非道で人外な行いによって 築かれてきた部分も多分にある。  そして今では当たり前の技術として取り入れられているものでも、当初は大きな批判と弾 圧を受けてきたものも多い。臓器移植とて、受け入れられている今では当たり前の治療法だ が、当初は人の人体を切り貼りする悪魔の所業とされたのだ。 「いずれ世界がわたしたちを受け入れる。そしてそれが法によって保障される。だが人に許 されるという保証がないと、君は新たな世界に踏み出せない臆病者だったのか? わたしが この研究をすすめ、法律的に合法と認められた後でないと仲間に入れないような小心者か?」  カルロスはローズマリーの気持ちを揺さぶるように語り続ける。  訴えかける目を向けられているのではないのに、物言わぬ背中が迫ってくる。  おまえはそれでも科学者か。自分が足を踏み入れる最初の人間になる世界を見たくはない のかと。 「わたしは……」  ローズマリーはカルロスのデスクに研究日誌を置くと背を向けた。 「科学者としての好奇心も持っているし、野望もないわけではない。でも、その前に人とし て、命を大切に扱いたい。そして命を大切にするからこそ、この地上のある命がより幸福に あれる方法を探そうという気持ちになるんだと思う。それが科学の真実でしょう。この世の 中にある全ての法則は、命の尊厳を守るためにある。それを解き明かすのが科学なら、その 命の尊厳を踏みにじるべきではない」  言い切ったローズマリーが部屋を出ていこうとしたところで、カルロスが顔を上げる。 「命の尊厳を手の平に乗せていいのは、神だけだと?」  嘲笑うように言うその言葉に、ローズマリーは無言のまま振り返る。 「それこそ科学ではない。宗教だ。その保守に傾いた頭の中が変化したら、またここに来る んだな」  そうでない限りは、ここに近づくな。邪魔をするな。  威嚇するような光を宿した目に、ローズマリーは言葉もなく背を向けた。  その背中を、冷たい汗が流れおちていった。
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