第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





 お茶はバルコニーでいただくのはいかがですか?
 執事のその提案に、ローズマリーとレイリは花が咲き乱れた庭園のようなバルコニーで、
並んでお茶を飲んでいた。
「それにしても相変わらず凄い家よね。バルコニーに噴水まであるんだから」
 チロチロと水音を立てて咲き乱れる花の間を流れていく透明な煌めきを眺めながら、ロー
ズマリーがお茶を飲む。
「噴水っていっても、そう大したものじゃないじゃない。公園のみたいに吹き上がるわけじ
ゃないし」
 レイリも舐めるようにほんの少しお茶に口をつけ、穏やかな水音に耳を傾けた。
「つわりなの?」
 不意に問いかけられたレイリの顔が、いつ聞かれるのか用心してただけに、凍った微笑み
のままで固まる。
「そうなのかな? なんだか食欲なくて。変に気分も高ぶったりするから眠れないし。女っ
て損なことばっかりね」
 余裕の笑顔で答えたように装いながら、その実この話にはこれ以上突っ込んでこないでく
れと壁を張り巡らせているのが分かる。
 話したくない。考えたくない。できるならば、何も起きなかったことにしてしまいたい。
 そんなレイリの気持ちがほんの少し引きつる目もとに表れていた。
「カルロスには?」
 ローズマリーの問いに、レイリが笑顔のままで首を横に振る。
「まだ話してない。自分の気持ちの決着がつく前に彼に話したところで、どうして欲しいの
かも伝えられないなら、話し合いにならないじゃない」
 ほんの少しこわばった顔でカップをソーサーに置くレイリを、ローズマリーは黙って見つ
めた。
 レイリとカルロスの間にあるのは信頼関係ではなく、主従関係に近いのかもしれない。要
求を伝え、それに応じるか否か。そんな関係が出来上がっている。
 二人で手を取り合い、困難を前にどんな進路をとるべきなのか、ともに話し合うという余
裕がない。
 カルロスが船長なら、レイリは副船長ではなく、命令を受けて動くだけの船員に過ぎない。
あるいは、それですらないのかもしれない。同じ船という職場に立つ人間ではなく、レイリ
は単なる客に過ぎないのかもしれない。客として丁重に扱うが、操船の仕方に口出しするこ
とは決して許されない。
同じように、カルロスはレイリをサービスとして愛し、愛しむかもしれないが、彼の前にあ
る人生という航路への介入は許さない。言い渡される言葉があるとすれば、邪魔をするな。
それぐらいなのかもしれない。
「ねぇ、カルロスと話し合う中で、正直な自分の心が見えてくるかもしれないって思わない
の? 今のレイリは自分の気持ちってよりも、カルロスがどう反応するか、自分の立場はど
うなるのか、そんな外側の事情に惑わされてしまっているように見えるの」
 なるべく批判的に聞こえないように優しく言ったローズマリーだったが、レイリの口元が
ピクリと震えて頑なな表情へと変化する。
 それを感じ取ったローズマリーは、それ以上の追及はしないでおこうと溜息をついた。
「じゃあ、この話はここで終わり。でも、もしカルロスに話に行くのが一人では行きにくい
なら、わたしも付き合うから。そう思っておいて」
 ローズマリーはそう言い残すと立ち上がった。
 それに気づいたレイリが慌てて顔をあげる。
「帰っちゃうの?」
 一人取り残される怯えた子どもの表情で見つめられ、ローズマリーは困ったようにほほえ
む。
「今日は様子を見に来ただけだもの。まだやり残している仕事もあるし、また今度来るわ。
それか、レイリがうちに来てくれてもいいし」
「そう。……そうね。また連絡するわ」
 きっと子どもだったらイヤだと駄々をこねて泣きわめきそうな顔だったが、レイリが頷く
と見送るために立ち上がる。
「ねぇ、これうちの執事が焼いたクッキーでとてもおいしいの。……わたしは今食べられな
いから、よかったら持って行って」
 レイリは手早く皿の上のクッキーを包むと、ローズマリーに手渡す。
「ええ、ありがとう。でも、レイリも食べられると思ったものは口にするようにしてね。そ
うでないと体がもたないから」
「ええ。ありがとう」
 レイリは微笑みながら頷くのを見届け、ローズマリーは踵を返した。
 その背中にレイリが問いかけた。
「ねぇ、ローズマリー。妊娠の初期にバレエを踊り続けるって、危険なことかしら」
 振り返ったローズマリーは、今まで以上に真剣な思いつめた目のレイリを見つめた。
 それは長い長い年月と自分の持つ体力の全てを捧げてきた、彼女の執念を感じさせる目だ
った。
「危険なことに変わりはないわ。バレエは優雅な見かけ以上に激しく体を酷使するものでし
ょう。男性よりも飛んだり跳ねたりは少ないだろうけれど………」
「でも、わたしがずっと願っていた役がもらえたの」
「白鳥ですってね」
 ローズマリーは悲しく微笑む。
 きっとこんな場面でさえなければ、どんなに祝福して、ともに抱きあって喜びあげたこと
だろう。
 そしてきっとレイリのお腹の中にいる子どもも、このタイミングでさえなければ祝福され
て生まれてくることができたのかもしれないのに。
「運命って、どこまでも残酷にできているのね」
 レイリが悲しく微笑む。
「……そうね。でも、……その運命を、幸運にするのも不運にするのも、その人次第よ」
 あえて断ち切るように言いきったローズマリーは、背を向けるとレイリの部屋を後にした。


 もう一か所、ローズマリーは訪ねておきたい場所があった。
 カルロスだ。
 もちろんレイリのことで口をはさむつもりはなかったが、こちらも音沙汰ないことがどこ
か不気味だった。
 共同でしていた実験の失敗に対して、ただの助手に過ぎなかったローズマリーに咎めがな
いのは当たり前としても、事後報告くらいはあってしかるべきだと思ったのだ。
 それに、レイリの様子を見る限り、レイリとも連絡を取っていないようだ。
 完全な音信不通状態だった。
 研究所の受付でカルロスの所在を聞けば、ちゃんと研究所には出てきているらしい。
「あの、彼の処分とかは?」
 顔見知りになっていた受付の女性に声をかけたローズマリーに、耳打ちするように小声で
答えてくれる。
「特に表だってはないわ。でもそれが反感食らってるのは事実ね。インフルエンザを洩らし
たチームは助手以上は全員解雇。カルロスもいくつかリーダーとして携わっていた研究から
外されたらしいけどね」
 かかってきた電話を取りながら、受付の女性が内緒よと目配せする。
「結構ショックだったんじゃないかしら? 日に日に暗い顔になっていくから、心配してた
の。あれはそのうちキレるわよって」
 それにローズマリーは「おお、こわ」と肩をすくめると、礼を言ってカルロスの研究室に
向かう。
 小さいが彼専用に与えられているラボにいるはずだという。
 一度の失敗でそれほど落ち込むほど弱い男ではないと思っていたが、プライドが高いだけ
に折れると弱い部分があるのだろうか。
 ローズマリーはそんな疑問を持ちながら、カルロスの研究室へと急いだ。
 そしてそこで、何かに取りつかれたかのようにコンピューターに向かうカルロスの姿を目
にするのであった。



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