第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





 電話に出ず、メールにも返事が来ないことに業を煮やしたローズマリーは、しばらくそっとしてお
こうと思っていたが、もう期限切れだとレイリの家へと出向いていた。
 今も実家に住んでいるレイリの家は、父親が銀行家をしていることもあって、かなり裕福な家だっ
た。
 ローズマリーとジャスティスの家もかなり大きな屋敷だったが、レイリの家に比べると見劣りする
かもしれなかった。
 大きな門の向こうに公園の一部かと思うような緑の芝生が広がり、彩豊かな花々が風に揺れて甘い
香りを漂わせていた。
 そしてその庭園によってより美しく装っているのが、白亜の宮殿ならぬレイリの邸宅だった。
 二階に窓辺を飾る濃い茶色の木の窓枠と、そこから滝のように垂れ下がる豪勢なゼラニウムやペチ
ュニアの花が、今自分がチロル地方の別荘地にでも遊びに来ている気分にさせてくれる。
 きっと今日はここにいるに違いない。
 ここへ来る前にレイリの所属するバレエ団の稽古場にも足を運んでいたのだが、今日は体調が悪い
からと早く帰ったと団員の一人に聞いてきていた。そして同時にその団員の不満顔とその理由に、ロ
ーズマリーはどうしてもレイリに会わなければならないと決意したのだ。
『レイリは団のソリストだし、プリンシパルになるのだって時間の問題でしょう? でもだからって、
こう練習を休まれたら、いい迷惑だわ。そうでなくたって、今度の公演はレイリが主演だってのに』
 華やかなバレエの世界も、裏側は熾烈な競争の世界であることに変わりはない。
 常に自分の技や情緒性に磨きをかけ、どんなに努力しても終わりが来ない果てしない道を歩み続け
るのがバレリーナなのだ。
 いったん歩くのをやめれば、あっという間に後続の後輩たちが喜んで抜きだって行くのだ。
 その中で人を蹴落とすことなど考えもしないようなレイリが、地道に一人練習を積んでバレエ団の
中での地位を維持していることは、ローズマリーが思うよりも大変なことに違いない。
 それはあの団員の口ぶりや態度を見ていれば分かる。
 誰からも好かれ、敵と作ることを嫌うレイリが、ライバル意識の渦巻く世界で毎日を過ごしている。
 だがだからこそ、自分が妊娠しているなどとは決して口には出せないのだろう。
 そう口にした瞬間に、今まで我慢し、努力して築き上げてきた地位が崩れるのだ。そしてタイミン
グが悪いことに、こんな時にレイリが長く焦がれてきた役が割り当てられるとは。
 バレエの数ある演目の中でも、白のバレエの最高峰、白鳥の湖のオデット。
 門の呼び鈴を鳴らしたローズマリーに応対した執事が、友人が訪ねてきたことに喜びの滲む親しみ
やすい声で開門に応じ、大きな扉を開けて家の中に招き入れてくれる。
「ローズマリー様、お久しぶりでございます。お変りはありませんか?」
 十代のはじめの頃からこの屋敷には何度か出入りしているローズマリーを、執事が懐かしい大切な
客人として迎えてくれる。
「ええ。今はメディカルスクールに通ってドクターを目指しているんです」
「それはそれは。ローズマリー様は昔から賢くていらっしゃるから、立派なお医者さまになることで
しょうな」
 以前に見たときよりも歳を重ねた白い髪と髭が上品な執事に、ローズマリーは微笑み返す。
「ありがとう。ところでレイリに会いたいのだけれど、取り次いでもらえるかしら?」
「はい。もうお嬢様にはお連絡差し上げております。直接お嬢様のお部屋にお連れするように言われ
ておりますので、これからご案内します」
 優雅に礼をして先を行こうとする執事を、ローズマリーが呼び止める。
「だったら一人で行けるわ。レイリの部屋は昔と同じでしょう?」
「はい」
 ローズマリーがそう言い出すのを最初から分かっていたかのように、振り返った執事が頷いて階段
へと道を示す。
「二階東塔の手前から三番目のお部屋でございます。では、わたくしはお茶の用意をしてお持ちいた
しますゆえ」
「ええ。ありがとう」
 ローズマリーは執事に礼を言って歩き出す。
 土足で歩くのに気が引けるほどに磨かれた大理石の床を、ヒールがコツコツと音を立てる。
 普段はこの音が自分の前へと進もうとする向上心を後押しするようで大好きだったが、こんな大邸
宅の中で響くのは不釣り合いで不躾な気がした。
 毎日生き急いで駆け足で走り抜ける日々とはかけ離れた、ゆったりと時代という単位の時間の中を
生き抜いてきた空気が、この屋敷の中を覆っていた。
 レイリがおっとりとした温和な性格なのは、この家で育ったからなのかもしれない。
 滑るような滑らかな曲線を描く階段の手すりを掴みながら、ゆっくりと二階へと上がっていく。
 昔よくこの階段でレイリとしゃがみこんで話したものだと思いだす。
 ついさっきまで部屋で思う存分、何時間も話していたのだというのに、帰るために部屋を出ても尽
きなかった話題に、二人並んで階段に座り込んで話したものだった。
 それを笑って見守っていたのがあの執事で、気がきくことに、階段にお茶とクッキーを運んできて
くれるユーモアも持っていた。
「何をそんなに話すことがあったのかしらね」
 大人になった今では思い出そうとしても思い出せないことだったが、それが何物にもかえがたく楽
しかったのだけは昨日のことのように覚えていた。
 あの頃から時間は流れ、大人になってしまった。自分の中では、何も変化していないように普段は
感じていても、やはり振り返れば自分の中にあの頃の無邪気さはない。
 そしてただ共にあって隣りに並んで話しているだけで満ち足りて通じあえた友情も、どこか変化し
ている。
 あの頃と変わらずにレイリを親友として大事に思っているのは確かなのだが。
 ローズマリーはレイリの部屋の前に立つと、その扉をノックした。
「レイリ。わたしだけれど、入っていい?」
 部屋の中に声を掛けながら、内部から聞こえてくる音に耳を澄ませる。
 静まり返っていた部屋の中で、スリッパが扉に向かってくる音が近づいてくる。
 そしてゆっくりと開いたドアの隙間からレイリが顔を見せる。
 友人を迎えるにしては暗い、この部屋の主だというのにローズマリーの顔色を窺うような怯えた目。
 そして何日も眠れていない様子の目の下の隈。乾いた肌。
 一瞬その様子に目を疑ったローズマリーだったが、あえて笑みを浮かべるとレイリに代って大きく
ドアを開け放った。
「どうしたのよ。全然連絡がないから心配で来ちゃったのよ」
「ごめんね。メールにも返事できなくて」
 ひどく悪いことをしてしまったように謝るレイリに、ローズマリーはあえて返事をせず、部屋の中
に足を踏み入れた。
 カーテンも引きっぱなしの薄暗い部屋にため息をつき、勝手にカーテンを開け放って窓を開ける。
「ほら、こんな空気まで湿った中に蹲っていたら、気分はどう頑張ったって上昇できないでしょう。
人間らしく太陽の光を浴びて、清々しい空気を胸一杯吸って、それからおいしいものでも食べましょ
う。それから元気になるための方法を考えたらいいんだから。悩んで沈み込んでいたって、何にも変
わらないの」
 太陽の光で明るく照らされた部屋の中を振り返って見たローズマリーに、レイリが小さくほほ笑む
「ローズマリーらしいわね」
 その前向きさが羨ましいと微笑みながらクッションを抱いてソファーに座るレイリに、ローズマリ
ーが皮肉たっぷりに眉を上げる。
「そりゃ、うちにも落ち込み名人が一人いるからね。一緒になって落ち込んでたら、あの家は崩壊じ
ゃない」
 その一言にレイリが声を洩らして笑う。
「そんなこと言って、今頃ジャスティス、くしゃみしているかもしれないわね」
 そのとき、測ったようなタイミングで執事がお茶を運んでくるのであった。


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