第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



 アンネの元へお見舞いへとやってきたローズマリーは、無菌室へと通じる廊下に入った瞬間に、先 客があったことに気づいた。  病院には不似合いな、元気にあふれた笑い声や話し声が聞こえてきたからだ。  その声だけで、病院の持つ鬱々とした湿った空気が、そこだけ晴れ渡っていくようだった。  レイチェルだ。 「それでね、わたしがチャンスだって一発アッパーかましたら、相手のアゴにクリーンヒット。この 瞬間に笑わないで、いつ笑うってくらい勝ちを確信してさ、もうガッツポーズ。でもね、格闘の最中 の笑いって、もう怖いのなんの。後で知って後悔。額から血流してギラギラした目で笑ってる女って どうよって感じでね。ほら」  フットワーク軽く右へ左へと対戦相手のパンチをかわす様子から、天高くアッパーを打ち込む様子、 そして壮絶ともいえる笑顔でガッツポーズをするところまで熱演しているレイチェルがいる。 「これは酷い」  横からアンネに見せるためにガラス窓に向けていた写真を覗きこんだジャスティスが、レイチェル とは反面のように冷静な声で一言つぶやく。 「ね、そうでしょう。って、ジャスティスはここで『そんなことないよ。血を流している君も素敵さ』 なんていい男なコメントださないと!」  まるで夫婦漫才のようにレイチェルがジャスティスの頭をペシっと叩く。 「まあ、こんなところにコメディアンが来てくれてるのかしら?」  ローズマリーは二人の後ろに立つと、困った人たちねと肩をすくめて笑う。そして持ってきた花を 掲げながら無菌室の中を覗くと、アンネの笑顔がこちらを見ていた。 「アンネが好きかと思って、オレンジのガーベラいっぱい入れてもらったからね」  ローズマリーはアンネがピンを指している辺りを示し、持ってきた透明なガラスの花瓶に生けてみ
せる。  アンナがそれをジッと言葉なく見つめていた。  言葉はなくとも、その瞳に宿る感情が、それを見る人間に如実に伝わってくる。  太陽のように大きくオレンジの光を広げたガーベラの力強さと美しさに、穏やかな喜びと安らぎを 見出し、その中にじっと浸っている。  ここのところ、いつ見てもアンネはオレンジのガーベラのピンを髪に挿していた。いくつかジャス ティスが贈った中でも一番のお気に入りらしい。  アンネの母が言うには、朝一番に髪を梳かしてどのピンを付けるか決めるのだが、元気になれる色 だからとこれを選ぶのだという。 『以前は男勝りというか、女の子らしいピンクやオレンジなんかの暖色系は好きではなかったのに、 どうしたのかしらね。ジャスティスさんに恋して女の子になったのかしらね』  そう笑って言っていたが、言いつつもその背後に隠した思いも同時に感じ取れた。  自分の命が擦り減っていく気配を無意識に感じ取って、別の何かからその力を得ようとしているの かもしれないと。  アンネはもう二週間、一切の食べ物を口にしていない。点滴のみで生かされているのだ。  だから痩せることもなく、かえって過剰な水分でむくんで丸い顔をしていた。それでも、それは生 きる力に満ちた感は全く生み出さず、ただ人為的に生かされている無理が見え隠れさせる。  それでも今の苦しみを乗り越えられれば、必ず前と同じ、元気なアンネが戻ってくるのだからと、 信じてそのむくんだ腕に点滴の針を刺し続ける。  少し頭を起こしたベッドの上で横になったまま三人を見るアンネが、それでも今ここにいてみんな に会えるのが嬉しいと、その笑顔で伝えてくれる。 「アンネ、元気になったら一番何がしたい?」  レイチェルが尋ねながら、パンチの真似事をしながら「ボクシング教えようか?」などと言ってい る。  それに笑って首を横に振ったアンネが恥ずかしそうにしながら小さな声で言う。 「クレープが食べたい。ローズマリーが作ってくれた、あのクレープが食べたい」  その子どもらしい一言が、だが、三人には涙を堪えずには聞くことができない一言だった。 「そうね。いっぱい作ってあげるからね。新作も研究しておくから。アンネのためだけのアンネス ペシャルとか作っちゃおうかな」  ローズマリーが笑顔で応じると、アンネが頷き、それから少し疲れたように目を瞬かせた。 「アンネ、ぼくたちそろそろ行くね。明日も必ず来るから。おみやげも持ってくるから、楽しみにし ていてね」  もっと一緒にいたい。でも体がそれを許してはくれない。  悲しそうに目を曇らせながらも、我がままを言うことなくアンネが頷く。  病室の中でアンネの母が頭を下げる。  それに頭を下げ返しながら、三人はアンネに手を振り、病室の前を後にした。  無菌室の並んだ廊下を後にして一般病棟の廊下に出た瞬間、今まで三人の中で一番の笑顔を浮かべ ていたはずのレイチェルが声を洩らして泣き始めた。 「レイチェル……」  ジャスティスがレイチェルの手を握って宥めるように名前を呼んだが、それがかえって呼び水にな ったように、声をあげて泣き始める。 「アンネがかわいそうだよ。どうしてあんなに小さい子が……」  泣けない当事者に代るように、レイチェルが心のままに涙を流す。  レイチェルをベンチに座らせると、ローズマリーはハンカチを握らせ、ジャスティスは飲み物を買 いに走っていく。  その後ろ姿を見送っていたローズマリーの隣りで、レイチェルはハンカチで顔を覆って泣きながら、 喋りにくそうにしながら言う。 「わたし……お金なくてご飯食べられないことがあっても、次の日こそは……ステーキ食べてやるぞ とか思って……乗り越えるの。毎日毎日、一日に三回もご飯食べてるのに、一回抜くことだって、苦 しい。……ずっと次は何食べようって考えちゃうくらいに。……食べられないって、言葉以上に苦し いことだよ。……わたしだったら、……きっと頭がおかしくなっちゃうくらいに苦しいことだよ」  ヒックと泣きじゃっくりを上げながら、必至にレイチェルが訴える。  それに頷きながら、ローズマリーがレイチェルの背中を抱く。 「ええ。そうね。どんな人間でも最後に残る楽しみだものね。それが奪われることがどれほど苦しい かは、味わった人間にしか分からない」  アンネには、苦しみだけは存分に与えられ、喜びは端から奪われていく。  同じ年くらいの友達を笑い転げながら学校へいく楽しみを奪われ、歩きまわって看護師と笑って話 したり、庭に出て清々しい空気を味わう自由を奪われ、ジャスティスやローズマリーと直接に会って 肌を触れ合わせる安らぎを奪われ、生きていることを実感する力を奪われる。そして食べるという楽 しみもアンネの前から消えた。 「クレープが食べたい………か。普通ならいつでも食べられる年頃なのに。友達と学校帰りに歩きな がら食べたり、お母さんが作ってくれたおやつで食べたり、自分でだって作れるかもしれないわね。 ……でも、アンネにはできない」  この先も、それができる日が来るという保証はない。 「わたしたちって何のために生きているの? ただ息をしてそこにいれば生きているってことじゃな いでしょう。いろんなこと感じながら、楽しい、嬉しいって感じられるから幸せなんじゃないの?  アンネにはそれがあるの?」  レイチェルが苦しそうに呟く。  ローズマリーがその背中を擦りながら、分からないと心の中で返事をする。 「だからこそ、できることだけは逃さずにしてあげたい。わたしたちに会うことを楽しみにしてくれ ているなら、その約束を果たしていくだけ」  手にジュースの入ったカップを持ったジャスティスが目の前に立つ。  その顔を見上げ、苦さのにじむお互いの顔を見合いながら、ただ頷くことしかできなかった。
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