第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





  それから数日は、まるで何なかったかのように過ぎていった。
 アンネの病状はいいとは言い難かったが、それも悪化することなく停滞を続け、体が回復に向かう
予兆だと思うほどに眠り続けた。
 ジャスティスはアンネの憔悴に少なからず衝撃を受け、しばらくは神経質になっていたようだった
が、次第に落ち着きを取り戻してレイチェルを家に連れて来たり、アンネの見舞いに毎日行ったりと、
日常の平穏な繰り返しの中へと戻っていた。
 そしてローズマリーは、久し振りの完全オフの少し遅い朝の中で、コーヒーを飲みながら窓の外の
景色を眺めていた。
 窓の外はゆったりとした暖かな太陽の陽だまりで白く色づき、木々の枝に留った小鳥たちが軽やか
な声でさえずっている。
 木の枝が地面に描き出す日差しの影絵が、風に揺れて微笑んでいた。
 今日はこれからフェイが来ることになっている。
 先日の事件では随分と嫌な思いをさせただろうと感じていたローズマリーの償いのつもりのランチ
へのお誘いだった。
 もちろんフェイはそんなことを気にする性質ではないし、ジャスティスが家にいないときに二人き
りで過ごせるとあって、ずいぶんと喜んでいた。
「何を期待してるんだか」
 ローズマリーは招待したときのフェイの顔を思い出して、一人コーヒーカップを覗きながら微笑む。
 はじめから誘うつもりでフェイが働くバーへ行ったのだが、なりゆきで出された曰くありげな名前
のカクテルを飲みながら言うと、「それってシーツの間でしっとりとお話しましょうってことか?」
などと小声で返してきたものだった。
 もちろんローズマリーはクイっとグラスのカクテルを飲みほすと、フェイを睨みあげて「ただのラ
ンチよ。昼間っから盛りついてこないでよね」と返したのだが、「はいはい」と返事を返しながらも、
フェイの横顔はニヤついていた。
 バーではクールで男前なフェイが見られると思っていたのに、簡単に普段の顔へと化けの皮をはぐ
ように戻ってしまった。
「そりゃクールなフェイが地であるはずがないものね。仕事モードの気取った顔なんて、長くもつわ
けないわね」
 ローズマリーは食べ終えた朝食の皿とカップを持ってキッチンに立つ。そして水道の水を捻ったと
きに、ふと思い出したことに手を止めた。
 あれ以来レイリから連絡が入っていない。
 妊娠していることがはっきりして、これからその子どもを産むのか産まないのかを決めなければな
らないはずだ。
 それはカルロスともよく話さなければならないことであるはずだから、そうそう簡単に結論が出る
とも思えない。
 だが、レイリの性格から考えて、たった一人で抱え込める問題であるとは思えなかった。
 産むのか産まないのか、その自分の中での決定をすることにも、ローズマリーの助けを必要とする
はずだ。きっとカルロスに相談する決断だって、ローズマリーの後押しを必要とするはずだった。
 それがまったくなんの連絡も入ってこない。電話もメールもなし。
 少し一人で考えたいのかと思ってそっとしておいたが、そろそろ心配になってくる。
 カルロスにしても、あのウサギの飼育に失敗して以来、事の顛末はどうなったのかも連絡してくれ
ない。
 また手伝いが必要になったら言って欲しいと伝言を残したが、返ってきたのは、今までのバイト代
を口座に入金するという結果のみだった。
 どんな処分が下されたのか、残ったウサギたちはどうしたのか、ポンぺ病の子どもたちの薬はどう
なったのか。そうしたことを直接カルロスから聞きたかったが、連絡がつかない状況だった。
 そのうえレイリの妊娠の件があるのだ。なおさら電話しにくくなって、放置してしまっていたが、
それもそろそろ決着をつけておきたいことだった。
「まったくみんなして無責任なんだから」
 ローズマリーはつぶやくと、皿を洗いながら二人の顔を思い浮かべていた。だが脳裏に浮かぶ顔は、
笑顔ではなく、暗い影に覆われた陰鬱な顔だった。


「はぁ〜、腹いっぱい。ご馳走様でした」
 見事に空になった皿を前に、フェイが腹を擦りながら言う。
「食事は腹八分目が健康的なのよ。その出っ張ったお腹では、腹十二分目まで入れたんじゃないの?」
「いや、別腹に入れたから、ちゃんと胃袋の許容量は守りました」
 フェイは皿を持って立ち上がるが、ずいぶんと胃の辺りが重そうな歩き方だった。
 そんなフェイを見て、ローズマリーが呆れた顔を向ける。
「別腹なんてないの。ただ単に胃袋の一部が反応で大きくなるだけ。そのうち胃拡張になっちゃうわ
よ」
「大丈夫。このあと運動すればエネルギーはきっちり消化するから」
 ローズマリーの先を歩いてキッチンに入って行ったフェイが、意味ありげな顔で振り返ってほほ笑
む。
 それを冷やかな顔で見返したローズマリーがプイっと目を反らす。
「運動って? 一人でやってね。わたしは付き合わないわよ」
「ええ? 一人でやれって、そんな殺生な。ローズマリーが目の前にいるのに、どうして一人エッチ
なんか」
 皿を流しに入れながら悲鳴じみた声で言ったフェイの尻を、ローズマリーが膝で蹴り上げる。
「誰がそんなこと言ったのよ。全く」
 罰として全部の皿洗いを命じられたフェイは、不貞腐れた顔で皿を洗っていたが、それを眺めなが
らコーヒーを入れるローズマリーの顔には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。
 フェイが皿を洗う水音と皿の触れあう音。食器棚からカップとスプーンを取り出して歩くローズマ
リーのスリッパの音。コーヒーメーカーから上がる湯気の立つ音と芳ばしい香り。
 それらを黙って感じていた二人は、何も言葉を交わさなくても居心地のいい空間に自然と表情を和
らげていく。同じ空間を共有していることに、触れ合わずとも空気を介して肌を寄せ合っているよう
な安心感が生まれてくる。
「なぁ、こうやってると、俺達新婚夫婦って感じしないか?」
 フェイが言ったその言葉に、ローズマリーはカップにコーヒーを注ぎながら小さく笑いを漏らす。
「夫婦? フェイはわたしと結婚するつもり? こんな怖い女と結婚したら、一生こき使われそうと
か思わないわけ?」
 コーヒーを注いだカップを手に持ちながら、皿を洗い終えてタオルで手をふくフェイを上目づかい
で見上げる。
 それにフェイは自分のカップを受け取りながら素知らぬ顔でコーヒーに口をつけながら答える。
「別にローズマリーが怖いなんて思ったことないし。それに、マリーは人をこき使うってよりも、な
んでも自分でやっちゃうから、もっと俺を使ってほしいって思ってるくらいだね。もっと俺を頼れっ
てさ。だから、この前、研究所に助けに来てほしいって言われた時は、本当に嬉しかった」
 流し台に寄りかかりながら言うフェイの言葉に、ローズマリーが目を丸くする。
「そうなの? この前のこと、嫌じゃなかったの?」
「嫌なんかじゃないさ。……ああ、ウサギの死体の山はそりゃ、普通ではお目にかかることがないん
だから、ショックはショックだったけど、それも、ローズマリーに代わって俺がやってやれたんだっ
ていう自負はあるわけで、全然嫌じゃない」
 フェイは自信たっぷりに頷きながら言うと、自分を見上げているローズマリーに笑いかける。
 そして自分のカップを流し台の上に下ろすと、ローズマリーの腰を抱き寄せた。
「もっと俺に頼れよ。………それともまだ年下で頼りないって思ってるのか?」
 腹から下が密着した状態で、じっと見つめられながら尋ねられたローズマリーは、自然と赤くなっ
ていく顔を隠すために黙ってコーヒーを飲むと、視線をコーヒーカップに注いだままで口を開く。
「別にそんなことないけど。……でも、ありがとう」
 照れながら感謝の言葉を口にしたローズマリーに、フェイはその手からコーヒーカップを取り上げ
ると、自分の首に回させる。
「じゃあ、逆に質問。マリーは俺と結婚してもいいと思ってる?」
 フェイの腕が腰から背中に回され、さらに体が密着する。ぎゅっとフェイが腕に力を込めれば、ロ
ーズマリーは自分の姿勢を保てなくなってフェイの胸に顔を押し付ける結果になる。
 ローズマリーは直接自分の耳に聞こえてくるフェイの心臓の鼓動を聞きながら、真っ直ぐに目を見
て話さなくていいことに安堵していた。そして同時に、自分の心臓の鼓動が早くなっていることに、
どうかフェイが気付きませんようにと祈っていた。
「結婚なんて、そんなことはまだ考えてないわよ」
「でもこの前は俺に聞いてきただろ。子どもできたらどうするって」
 簡単にこの話題から離してやらないとフェイが笑いながら、ローズマリーの頭上から問いかける。
「あれは………そうね。確かに聞いたわね」
「マリーの答えは? 俺との子どもができたら、どうするの?」
 笑みを含んだ、でもそれ以上に真剣な問いかけに、ローズマリーは戸惑いながらも自分の中で今ま
で考え続けてきた答えを口にした。
「わからない。………でも、きっと産むと思う。フェイの子どもなら、この世の中に残してあげたい
から」
 顔が極限まで熱くなっていくのを感じながら、ローズマリーは素直に言葉にした。
 レイリの妊娠が明らかになって以来、何度も自分に問いかけてきた答えがこれだった。
 子どもが好きかと聞かれれば、答えはNOだった。
 でも子どもという抽象的な集合ではなく個人で考えたとき、その答は変わってくる。
 アンネは子どもだけれども、大好きだと自信を持って言える。
 赤ん坊を抱いている自分を想像するのは難しいけれど、その子がフェイの子どもだと考えた瞬間に、
その腕の中の赤ん坊が愛しくなる。
 フェイに似た、フェイの愛する、二人の宝物になる命。
 そんな存在をこの腕に抱けるのなら、何よりもそれを大事にしたいと素直に思えたのだった。
「マリー………」
 フェイはローズマリーの反応が予想外だったらしく、しばらく固まっていたが、すぐに狂喜したよ
うに笑い声をあげると、ぎゅっと力をこめてローズマリーを抱きしめた。
「ありがとう、ローズマリー。今すぐにでも、身ごもらせてあげたい」
 そう言うと、すかさずブラウスの裾から手を潜り込ませてくる。
「ちょっと………、今は真面目に話してるんだから」
 慌てて体を離そうとしたローズマリーに、だがフェイは首筋に顔を押し付けて強く吸う。その間に
もブラウスの中の手があやしくローズマリーの腹を撫でながら上昇していく。
「フェイ、ちょっと待って」
「ヤダ。待てない」
 耳元でささやかれた声に、息が耳に触れる。
 それにビクっと体を震わせたローズマリーだったが、胸にフェイの手が触れたところで観念したよ
うに目の前の体に身を委ねた。
「フェイ、別にあなたに抱かれるのがイヤだってごねているわけじゃないの。でも、今日はダメ」
 その冷静な声に顔をあげたフェイが、近距離でローズマリーの顔を見つめながら尋ねる。
「どうして?」
 そうささやけばローズマリーも落ちるのではないかという熱を帯びた瞳と声で言うフェイに、ロー
ズマリーが目をそらす。
「今、生理だから」
「………」
 そう言われた瞬間、ひどく葛藤した様子で顔をしかめたフェイが、断ち難い誘惑から身を切られる
ようにしてローズマリーから体を離す。
「ああ! クソ! それでも構わないなんて鬼畜なこと、俺たちの初めてで言えないし。俺の理性と
欲望が大乱闘だよ」
 ため息でもつかないとやってられないばかりに、大きなため息をつくフェイに、ローズマリーは申
し訳なさそうにその顔を見つめた。
「ごめん」
 謝ったローズマリーに、フェイがキっと顔を上げると宣言する。
「いいか、次は絶対やるからな。もう、俺、待てないから」
 そう言うと、再びローズマリーをぎゅっと抱きしめた。
「じゃあ、今日はキスだけ」
 フェイを見上げて言うローズマリーに、フェイは不承不承頷く。
 そして目を閉じたローズマリーの唇に自分の唇をほんの一瞬重ねると、再び溜息をつく。
「今はこれ以上刺激しないで。そうでないと、俺、暴走する」
「……分かった。暴走列車に燃料入れてはいけないものね」
「うん、そうして」
 体を離してじっと見つめあった二人は、不満そのものの顔と相手を窺うような顔だったが、次第に
そんなお互いの顔がおかしくなって笑い出す。
 それは久方ぶりに子どもの頃のように笑った気がする、楽しい瞬間だった。

 



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