第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





 家にはいるとすぐに、フェイがお茶をいれるからと言ってキッチンに入っていく。
「もうフェイもこの家の家族の一員みたいね」
 レイリがそう言えば、嬉しいような、でもかなり複雑だという顔でフェイが肩をすくめる。
「恋人を味わう前に家族ってのも、男としてはどうだかなぁと思うけど」
 それにレイリは苦笑を返すと、フェイを手伝って食器棚からコーヒーカップを取り出す。この家には
すでにフェイとレイリそれぞれに専用のカップが用意されている。
 レイリがピンクの花柄の中を子どもたちが追いかけっこをする絵で、フェイが大きなクマのぬいぐる
みの絵。ローズマリーはシンプルなグルーンに葉の形のレリーフがついているカップで、ジャスティス
が取っ手にネコがのる黒いカップだ。
 それぞれのカップを取り出し、フェイが入れてくれたコーヒーを注いでダイニングのテーブルにつく。
 いかにも朝慌てて出て行ってしまったらしいジャスティスの様子が垣間見えるように、昨日の夕飯だ
ったのだろうグラタンの皿も中身を半分残したまま、流しに入れられ、テーブルには使ったコップと零
したお茶がそのままで残されていた。
「ローズマリーが見たら怒るわね」
 レイリがテーブルクロスで汚れを拭いながら、その様子を想像して笑みを浮かべる。
 だらしがないと腰に手を当てて怒るローズマリーと、ブスっとした顔で上目遣い姉の顔を見るジャス
ティスが「ごめんなさい」と頭を下げる様子が目の前で今見ているかのように脳裏に展開されていく。
ジャスティスのために後でグラタン皿は洗っておいてあげないと。
 だがそんなレイリに対して、フェイは笑うでもなくコーヒーの表面の揺らぎを見下ろしていた。
 いつもの場を和やかにさせる陽気さはなく、疲れているのか、顔の表情が一部漂白されてしまったか
のように、下がった口角がフェイの周りの空気を淀ませていた。
「もしかしてフェイも疲れてる? だったら休んで。わたしは帰るから」
 カルロスも疲れている様子だったが、同じようにローズマリーの手伝いに借り出されたのだとしたら、
フェイも随分と疲れているはずだ。
 だがレイリの言葉に顔を上げたフェイは、下がっていた口角をゆっくりとあげると温かな笑みを浮か
べて首を横に振る。
「いや別に疲れてないよ。俺が研究所呼ばれたのなんて、夜の間しっかり寝た後だったし、あの二人と
違って頭使って悩んで、責任の重圧に神経すり減らすようなこともないから、全然元気」
 フェイはそう言ってコーヒーに口をつけ、言葉のわりに重いため息をつく。
「そのわり随分大きなため息ね」
 笑い混じりで問い掛ければ、フェイがため息をついたことに今気付いたという顔で目を見開いてから
微苦笑を浮かべる。
「俺って、動物を動物と割り切れないって言うか、人間と同等に見る傾向あるから、今朝の光景は結構
ショックで」
 コーヒーの上げる芳香を嗅ぐように湯気の上に顔を置いてフェイが言う。
 レイリは骨を埋めた庭の方向に目を向けてから、フェイの気持ちが分かる気がして「うん」とうなず
く。
 レイリが見たのは骨になってしまった姿であって、生きている感触が薄いものだった。それでも十分
に衝撃があるというのに、フェイは生きているウサギが苦しむ姿も、そこから動かない命が消えた死体
になる過程を見ているのだ。あの量の骨になるのだから、相当の数の死体があったのだということも想
像できる。積み重なっていく、か弱い命にどれだけ歯がゆい思いをしたのだろうか。
 人間としての力のなさ。そして人間という力の大きさ。
「あの二人の持っている知性って、すごいと思うの。この世界の一部分であろうと救える力があるのか
もしれない。でも、それは同時に、世界の一部を殺す力でもあるんだよね。自然との共存っていうけど、
持ちつ持たれつ。お互いに害を与え合って、でも相殺するだけの益も与え合えれば、まぁ良しとしよう
くらいなものなのかもね」
 レイリもコーヒーのカップを揺すりながら、その表面に立った小さな波を見ながら呟く。
 カップの中の小さな波は、コーヒーの芳香を強く運びながら、同時に白いカップを茶色く染めていく。
「生きるってことは、何かの命を奪いながら生きるってことっていうもんな」
「うん。……人間だってクマだって、ハチミツが欲しければハチの巣を取って採取するでしょう。人間
やクマはおいしい味を楽しめるけど、ハチは何匹も死んで自分たちの働きの証拠のハチミツまで奪われ
ちゃう。でも、ハチだって人間が地を耕して花を植えたり野菜を作ったりするから、花の蜜を集められ
る。のかな? 人間がいなくても自然に花は咲くかもしれないけど」
 段々自分の言っていることに自信がなくなってきたのか、レイリは首を傾げながら笑うと、コーヒー
を一口すする。
「知識がないって悲しいことだと思ってたけど、そうでもないのかもな」
 フェイはカップをテーブルに置くと、レイリをまっすぐに見て言う。
「どういうこと?」
 それにレイリが小首を傾げる。
「真実を知りえないということは、大切なものを得損なっているって思ってたんだ。俺、小さい頃、伯
父さんの家で育ったからさ、まぁいろいろあったわけ。どうして自分が疎まれるのか理解できなくて、
反対のことばっかりしてた。でも、もし伯父さんたちの心の中という真実が見えていれば、もっとうま
く立ち回れたのにって思ったし、同時に出し抜いて自分の力で生きていけるようになるためにも、知識
が必要だった。だから、知識はある意味、絶対だと思ってたんだ。
 でも、マリーやカルロスを見ていると、過ぎた知識ってのは、やっかいだと思ってさ。知ったらそれ
が真実なのか確かめたくなるし、余計な責任が発生する。マリーみたいに自分の力で子どもが救えるか
もしれないと思いだせば、そのためにどんな犠牲が生じても、同じ人間である子どもたちを最優先に救
いたくなる。それで自分が苦悩しても、それを無理やり自分の中で屁理屈つけて納得させて」
 悔しそうに口にするフェイに、だがレイリは微笑みを浮かべた。
「ローズマリーのこと、本当に大切に思ってくれてるんだ」
 あの鉄壁のポーカーフェイスから、フェイはローズマリーの真実を心の内からくみ取り、その上で助
けてやりたいと苦闘している。それが、レイリには心が木漏れ日の中での休息に癒されるような安らぎ
を感じさせた。
 ローズマリーはなんて素敵な恋人を持ったのだろう。フェイという恋人を、ローズマリーはもっと大
切にしないといけないと教えてやらないとならないと思うほどに、レイリには羨ましかった。
 褒められていることが分かったフェイは、照れた様子で残りのコーヒーを飲み干す。
 そしてイスから勢いよく立ち上がると、キッチンの中へと歩いていく。
「ジャスティスもマリーも遅いな。あの二人も帰ってくればメシくらい食うだろう。レイリも一緒に食
べていけよ。俺、作るから」
 照れ隠しでいやにはしゃいだ声で言うフェイに、レイリは年上らしく余裕の笑みで返すと頷く。
「そうね。フェイの腕前、拝見しちゃおうかな」


 笑顔なく無言で帰ってきたジャスティスとローズマリーに、なんとか空気を明るくしようとレイリと
フェイが上滑りするハイテンションの会話をする。
 だがかろうじてジャスティスが顔を上げて取ってつけたような笑みを浮かべるが、すぐに暗い色の顔
に戻ってしまう。
 ローズマリーはジャスティスほど苦しげな感情は表に出ていなかったが、フェイとレイリの存在を疎
ましくは思わないまでも、空気のように意識する存在ではないかのように無視していた。
 出てきたフェイの作ってくれたスープとサンドイッチを口に入れ、咀嚼し、お茶と一緒に飲み込んで
いく。まるで機械のような義務による食事の風景だった。
 虚しく響く笑い声を尻切れトンボで終らせたレイリが、フェイを見てため息をつく。フェイも苦笑い
を浮かべただけで、文句を言うでもなく黙ってスープを飲むためにスプーンを動かす。
「ねぇ、ローズマリー。何かあったんだろうということは分かるけど、もう少しフェイのことも考えて」
 だが言いかけでローズマリーの上げた顔と目をあったレイリは、言葉を凍らせて見失った。
 感情がないと思った無表情の瞳の奥底で、怒りの青白い炎が揺らめいていた。燃え盛るでもなく、だ
が決して消すことのできない冷たい怒りの炎の影が揺れる。
 あきらかにその目は親友に向けるものではないはずだった。
 ローズマリーの目は「おまえに何が分かる」と告げていた。「何も分からないなら、黙っていてくれ
ないか」と。
 ローズマリーが何を言ったわけでもない。ただレイリがそう読み取っただけだった。
 だがそれは間違いようもないほどに明らかなローズマリーの気持ちだった。
「ローズマリー、あなた。世の中大変なことなんてたくさんあるのよ。でもそれを周りに当り散らして
解消しようなんて、そんな子どもじみた」
 不快と滲み出る怒りをあらわにレイリが震える声で言う。
 そのレイリを止めるように、フェイが二人の間で飛び交う険の含んだ視線を手で遮る。
「そこまで。ヒステリー状態で話したって、ろくなことはない」
 視界をフェイの手で遮られたローズマリーが、無表情で目を反らすと食事を再開する。
 だがレイリにはその態度こそが自分を見下げて蔑んでいるようにしかみえなかった。
 一人で苦労を背負い込んで苦しんでいますという態度も、自分を苦労知らずのお嬢さま扱いで排除し
ようとすることも、何もかもが尖ったレイリの神経の逆鱗に触れた。
「そんなにあんたは偉いの? 頭がいいってだけで、わたしのこと見下げるほどにご立派だっていうの? 
 あんたのことを気遣って、こうやって出向いているわたしやフェイの気持ちを踏みにじって、最低じ
ゃない」
 語気荒く言い放ったレイリが顔を紅潮させる。
 わなわなと震える膝や唇が、酷く興奮したレイリの精神状態を物語っていた。
 だがそれを見上げたローズマリーの顔は、反比例するように冷えていく。
「女のヒステリーって大嫌いなの。それじゃあ、わたしを気遣って来てくれたって言うよりも、わたし
を疲労させに来ただけね。
 別にわたしは自分が賢いと思わないし、レイリを見下げたこともない。でも、そうやって感情のまま
に怒りを露わにするあなたのことは、愚かだと思う」
 はっきりと言い捨て、ローズマリーが使った食器を持って立ち上がる。
 そしてレイリに背を向けて流しに向かって歩き出す。
 その遣り取りを、ジャスティスはスープをスプーンから零しながらオロオロと見守り、フェイは女の
喧嘩に口は出すまいと我関ぜずを決め込んでいる。
「わたしが愚かですって。わたしは……そりゃ大学も出てないし、踊ることしかできなバカかもしれな
いけど………」
 俯いて涙目になりながらも負けん気を見せてローズマリーを睨むレイリに、だがその目を向けられた
当人は顔を上げようともせずに食器を洗い始める。
 完全にレイリを拒絶した厳しい態度に、レイリが涙を零す。
「そうやって、わたしのことを必要ないって顔するのよ。あなたもカルロスも。カルロスだって、ロー
ズマリーのことは気遣って大切にするのに、わたしのことは、ただ甘やかすだけでわたしの気持ちを重
んじているわけじゃない。
 わたしだってきれいなだけのお人形じゃないのよ。考える頭がある。感じる心がある。どうして分か
ってくれないのよ!」
 そう叫んだ瞬間、レイリが口を手で覆った。
 勢いよく上体を折って胸を押さえて苦しげにしゃがみ込む。
「レイリ?」
 その変化に気付いて最初に動いたのがジャスティスだった。
 レイリの背中を抱え、苦しそうに息をつく顔を覗き込む。
 真っ青になったレイリが口を手で覆う。
「……気持ち悪い」
 辛うじて聞こえた声に、ジャスティスがレイリを抱えてキッチンの流しに連れて行く。
 場所を開けたローズマリーがジャスティスに変わってレイリを支え、その背中を摩る。
「吐きたければ、吐いてしまったほうが楽になるわ」
 優しく腹に回された手に嫌がるように身を捩ったレイリだったが、背中を撫でるローズマリーの手が
あまりに暖かく優しくて涙を流した。
「ローズマリーのバカ」
「ええ。そうね。わたしはバカね」
 小さな声でローズマリーが応じる。
 それを聞きながらレイリはついさっき食べたものを全て吐き出し、蒼ざめた顔で脱力していった。



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