第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を




 ローズマリーが用意していたアルコールランプに次々と火をつけていく。アルコールランプの上には
水が入れられたビーカーが乗せられていた。
 しばらくすると湧き出した水に蒸気があがり、一緒になってスーッとする緑の香りが部屋の中を漂う。
「……ユーカリか?」
 疲れた顔でイスに座っていたカルロスが顔を上げずに言う。
「そう。殺菌作用もあるし、抗ウイルス作用もある。サーズの流行にも有効だったって思い出したの。
だから持ってきてもらった」
 研究所の中が珍しい様子で辺りを見回していたフェイが、自分のことを言われたと分かってカルロス
に目をむけ、ニコっと笑う。
 その笑顔がこの場では酷く場違いで、愛想でうっすらと笑みを返したカルロスも、次の瞬間には隈の
浮いた目元を隠しようもなく、イスにもたれてため息をつく。
「そんなもので、助かると思ってるのか?」
 別にローズマリーの足掻きともいえる行いを否定している空気はなかったが、希望もない冷たい口調
だった。
 それに無表情を保ったローズマリーが作業を続けながら答える。
「分からない。でも、ウサギの弱った体に対して最も負担が少ない上に、西洋医学的な部分治療では得
られない、全体治療としての効果は期待できるはず」
 ローズマリーはそう言いながら、フェイが持ってきたアロマオイルを指にとり、それをウサギの足の
裏に塗っていく。
「アロマオイルは体内への吸収が早いの。その上90分で必ず代謝してしまうから、体への負担がない。
その上、薬のように有効とされる成分だけを単離したものではないから、複合的に体に働いてくれる。
殺菌もすれば、体内に溜まった余計な水分の排出も助けてくれる。精神の安定も計ってくれるし、体の
組織の回復も促進してくれる」
 立ち上る匂いに反応したのか、ウサギが盛んに鼻をヒクヒクと動かし、起こしていた首を倒して穏か
に横たわる。
 その体を優しく摩りながら、ローズマリーが背後のカルロスに言う。
「後はわたしが治療を続けるから、カルロスは帰っていいわよ」
 その言葉にカルロスが顔を上げる。
 不快感の滲んだ厳しい目がローズマリーに向けられ、その言葉の中に込められた真意を探るように横
顔を見る。
 そんなカルロスに振り返ったローズマリーは、だが意外にも穏かな表情だった。
「疲れているでしょう。残っているのはわずかな子達だけ。そのくらいはわたし一人で見られる」
「いや、でも」
 やる気のない自分を排除しようとしているわけではないと分かったが、このプロジェクトの責任者が
自分である以上、ここを離れるわけにはいかないというプライドが頭をもたげる。
 だがそれをやんわりと断ったローズマリーが言う。
「わたしはできる限りこの子たちを助けたいと必死になるだけで済む。でも、あなたは違うでしょう。
この事態の収拾をつけなければならないし、事後処理が山とあるはず。だから今のうちに休んでおいて。
なんだかんだいって、わたしには助手が来てくれたから」
 そう言って視線を送られたフェイが、わけが分からないながらに頷く。
「部外者ですが、掃除でもなんでもやらせていただきます」
 ローズマリーのためとあらばと意気込んでみせたフェイに、カルロスは思案の目を向けた後で頷いた。
「わかった。じゃあ後のことは任せた。俺は帰らせてもらう。まあ、数時間で呼び出されるとは思うけ
どな」
「ええ」
 疲れた体を重そうにイスから起し、カルロスが立ち上がる。
 皺になった白衣のまま、カルロスが部屋を後にしていく。
 その後ろ姿を見送りながら、バタンと閉じた扉にフェイが呟く。
「この前会っときとは随分と雰囲気が違うな」
「そうね。まぁ、ここは職場だし、大事なプロジェクトの失敗の直後ではね、笑顔ってわけにはいかな
いでしょう」
 ローズマリーの横に立って同じように隣りのケージのウサギの背中を撫でてやるフェイにそう言いつ
つも、ローズマリーも改めてフェイの言葉の意味を考え、心の中で頷いた。
 確かにカルロスが今まで見せていた部分とは明らかに違う人格が晒けだされた。
 安定したときには溢れる自信だと映っていた部分が、この異常事態では自己保身に走る、傲慢で他を
攻撃する凶暴性となって現れた。しかも今まで大きな失敗や困難に直面した経験がないのか、失敗を目
の前にあまりにも簡単に全てを投げ捨てようとした。
 ほんの少し傷がついたからといって、泣き喚く子どもそのものだった。わがままで自己中心的。自分
を害するものは、目の前から切って捨ててしまうような危うさが見え隠れする。
 レイリは、彼のそんな一面も知っているのだろうか。
 一瞬そう思ったローズマリーだったが、告げ口するようなことはしたくないと、その考えを捨てた。
 そう思って隣りを見れば、カルロスとは明らかに正反対のフェイがいた。
 もちろんカルロスと違って医学的な知識もない。けれど、体全体が自分のできることならなんでもし
てあげたいという愛情を溢れさせていた。
「フェイ」
 ウサギを見つめながら、ローズマリーが隣りのフェイに声をかけた。
 その声に自分を見下ろす視線を感じながら、ローズマリーは言った。
「ありがとう。フェイがいてくれて、よかった」
 フェイが微笑む気配が伝わってくる。
 そして腰を屈めて頬に唇を寄せる。
「……顔洗ってないわよ。しかもインフルエンザウイルスがついてるかも」
「……だったら、俺のこともローズマリーが看病してくれるでしょう」
 苦笑とともに言ったフェイを、上目遣いで見上げたローズマリーが首を傾げて見せる。
「たぶんね。でも、予防はしっかりしましょう」
 フェイの目の前に白いビニールの手袋を差し出しながら、ローズマリーは久しぶりに笑った気がした。



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