第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を





 目の奥にしこりのようになった疲れを感じながら、ローズマリーは腕時計を見下ろした。
 午前7時。うな垂れて目を瞑っているカルロスを見下ろしながら、ローズマリーも目を閉じる。
 この数時間でいくつの命が消えていったのだろう。
 ケージの中で動かなくなって横たわった背中が、心に無力感と切なさを募らせる。
 自分たちの不注意があらゆる可能性を奪い取ってしまった。
 ウサギという命が持つ可能性も、そのウサギによって命を救えるかもしれなかった子どもたちの可能
性、希望、期待。それらが、あっけなく消えていく。
 虹色の煌めきをもったシャボン玉が、夢と希望を乗せて舞い上がり、弾け飛んでしまった。
 疲れと失望が、体の中からやる気まで潰していく。
 もう諦めてしまった方が楽なのではないか。
 そんな考えが頭を過ぎる。だがそう思った数瞬後に、そんな自分の弱さを諌め、寄りかかっていた壁
から体を起し、ゲージに近づいていく。
 まだ懸命に生きようとしているウサギたちがいる。
 鼻水で窒息しそうになっているウサギの鼻に、細い管を入れて吸引してやる。
 鼻の細い穴に異物を挿入される不快感に暴れるウサギを宥め、背中を撫でてやる。
 今生きているのは五十体のうちの残った八体。だがそのどれもが、うずくまっていることもできずに、
横腹を見せて手足を弛緩させて横たわっていた。激しくつく呼吸に胸が上下し、それだけが生きている
証だと言えた。
「全滅するのかな」
 使い終わった点滴の管を片付けながら、背後でカルロスが言う。
 ウサギの体から刺さったままだった針を抜き、持ち上げてもダラリと揺れ動く首に、カルロスの無表
情に見える顔の中で、ほんの少し目が曇る。
 抱き上げた体は弱った腎臓では処理できなかった水分でパンパンに膨らみ、ずっしりと重い。その重
さを一体一体確かめながら、カルロスが死んだウサギたちを集めていく。
 後で火葬処理するとはいえ、ダンボールの中に積み重なっていくウサギの姿が見るに堪えなかった。
 つい数十時間前には生きて歩いていた命が、今は捨てられる人形のように折り重なって投げ出されて
いる。
 目を反らしたローズマリーは、手の中で暖かい熱を放っているウサギを撫で、カルロスに背を向けた
まま首を横に振った。
「全滅はさせない。がんばっている子が一人でもいる限り、わたしはあきらめない」
 ローズマリーは自分に言い聞かせるようにそう言うと、意を決したように今手の中にいるウサギの腕
から点滴の針を抜いた。
「……点滴を止めてどうする?」
 振り返ってローズマリーの真意を探るように見るカルロスに、ウサギの死体が重なったダンボールを
指さす。
「どうみても点滴がかえって負担になっているように見える。……もともとインフルエンザに対抗しう
るのは自己免疫のみ。だったらそこに賭ける」
 そう言ってローズマリーが部屋を飛び出していくのを、カルロスはただ黙って見送った。


 一晩一睡もすることができなかった重い頭を抱え、ジャスティスは身支度だけは整えると家を出た。
 体の芯には確かに眠れなかった疲れが淀んでいるように感じられたが、神経が異常な興奮状態にある
ゆえに、変に覚醒して思考だけが高速で巡っていく。
 アンネの体に起こった拒絶反応。
 本来体を病原体やウイルスから守るためにある免疫システムは、自己との区別をして異物を攻撃し排
除しようとする。
 風邪をひけば喉が痛い。それも喉頭粘膜に巣食った細菌を、免疫細胞が粘膜ごと攻撃するから痛いの
だ。異物の巣食った場所を、その住みかごと焼き払うようなものなのだ。
 その免疫システムが、移植された自分のものではない骨髄液を異物と見なして攻撃しはじめた。アン
ネにはなくてはならない、大切な細胞を。
 移植では百パーセント自分と同じ型の細胞を入手することは極めて困難だ。一卵性双生児でもいない
限りは、兄弟姉妹でも違いが生じてしまう。
 だからこそ免疫抑制剤を飲み続けるのだが、複雑でいくつもの連鎖反応をもって強力な力をもつ免疫
システムの監視の目を掻い潜る事は、完璧にはいかない。
 アンネは助かるのだろうか?
 そう思うたびに、いや絶対に助かるはずだと祈るように言い聞かせるのだが、すぐに不安が頭をもた
げる。
 目の裏に交互に現れるのは、笑顔で自分を見上げてくれるアンネの顔と、ベッドの上で力なく横たわ
る青白い顔だった。
 何度も姉には連絡を取ろうと携帯に連絡を入れたが、つながることがなかった。
 もしかしたらフェイと一緒なのかと思ってフェイの携帯にも連絡をとってみたが、寝ぼけた声で来て
ないけど、何かあったのかと聞かれただけだった。
 一人でアンネに会いに行くのが怖かった。
 まだ死ぬと決まったわけではないと自分に言い聞かせても、あの電話で聞いたアンネの母親の泣き声
は、ただ事ではない状況を伝えていた。
 たった一人で我が子の苦しみを見ることに堪えかねた彼女のために、一緒に背負ってやらなければな
らない不安が、ジャスティスには痛いほどに感じられた。
 その苦しみを、一度会っただけの自分にぶちまけなければならないほどに、彼女は追いつめられてい
るのだろう。
 支えになってあげたい。アンネを元気付けてあげたい。
 そう思っているのは真実なのに、足がすくむ。
 ジャスティスは空を見上げ、雲が高いところをたなびく秋の空を見上げた。
 時折吹く風は冷たくなり始め、木々の色を変え始めていた。
 この景色の中を、笑顔で走り回るアンネを見てみたい。
 その日が必ず訪れることを信じて、アンネに会いに行こう。
 ジャスティスは両手の拳を握ると、歩く足に力を込めて地面を蹴った。


 ジャスティスからの電話で目を覚ましたフェイは、ベッドの上で伸びをすると、寝癖で乱れた髪をガ
シガシと掻いた。
 さすがにピクニックから帰った早朝直後からバイトに行き、8時間働き続けるのはきつかった。何度
も客の注文を間違えてマスターに具合が悪いのではないかと心配されたほどだった。喫茶店のわずか三
種類しかないモーニングセットのA・B・Cの違いをテーブルからキッチンまで歩いていく間に忘れる
のだから。
 もう長くバイトしていて客も馴染みだったので許してもらえたことと、彼女ができて浮かれてるんじ
ゃないの? とからかわれる程度で済んだのが不幸中の幸いというやつだ。
 そのために夕方に帰ってすぐに眠ってしまったフェイは、どうやらそのまま15時間も寝込んでいた
らしい。
「寝すぎたな」
 むくんでいる感じのする顔を摩りながら、無精ひげの頬を撫でる。
 そこで再びなった携帯電話と取上げ、ディスプレイに表示されたローズマリーの名前に通話ボタンを
押した。
「はいはい。こちらあなたの最愛の恋人フェイですが」
 昨日一晩帰らなかったらしいローズマリーを揶揄するように言ったフェイだったが、無言のままの電
話の向こうから伝わる不快感にまずったなと頭を掻いた。
「どうした?」
 つとめて平坦な声で問い返せば、ローズマリーの吐息が受話器を通して聞こえた。
「朝早くからごめんなさい。お願いがあるんだけど」
 疲れているうえに、余裕のないローズマリーの声に眉を寄せながら、フェイが頷く。
「どうした? できることなら何でもするけど」
「ありがとう」
 フェイの声に少し柔らかさを取り戻したローズマリーの声が言う。
「今研究所にいるんだけど、緊急で必要になったものがあるの。わたしの部屋にあるんだけど、持って
来てもらえないかしら。わたしは今ここを離れられないから」
「わかった」
 ローズマリーが告げるものをメモし、電話を切ったフェイが床に脱ぎ捨てておいた服を再び身につけ
ると、グーとなった胃に、腹を撫でた。
 テーブルの上に転がったリンゴを一つ手に取って齧りながら、ジーンズの尻のポケットから一つの鍵
を取り出す。
 始めてもらったローズマリーとジャスティスの家の合鍵。
「もっと色気のある使い方をしたかったんだけどな」
 リンゴを咀嚼しながら笑ったフェイだったが、ヘルメットを手に取ると鍵をポケットの中に戻す。
 尻のポケットから鍵につけら得たキーホルダーがはみ出して揺れていた。
 ガラスの羽を持った天使が、だが悲しく見える笑顔で俯いていた。



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