第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を




 今日は帰ってこないのかな?
 そう思いながらジャスティスは冷凍のグラタンを電子レンジで解凍していた。
 いつもは帰ってこないにしても連絡を入れてくれる姉が、今日は何の連絡もよこさずにいる。
 オレンジ色の光に包まれて回転しているグラタンを眺めながら、ジャスティスはボーっとしながら考
える。
 まさかフェイと一緒だったりして。
 そう考えると、ふいにキャンプのときに見たレイリとカルロスの姿が浮んだ。
 それだけで自分まで電子レンジの電磁波で頭が沸騰してしまったのかと思うほどに、顔が熱くなる。
 ぐったりとして抱えられていたレイリの首筋には、汗で張り付いた長い髪がまとわりつき、それだけ
で周りの空気の濃度をねっとりと上げてしまうくらいに妖艶だった。そしてそのレイリを抱きかかえた
カルロスの肌蹴られたシャツの下の筋肉の盛り上がった胸元には、情事に刻印とレイリの爪がつけたの
だと分かる引掻き傷が見てとれた。  あの後、自分たちにもそんなときが訪れるのだろうかと思うほどに気まずくなり、レイチェルともろ くに話をしないままで別れてしまった。もちろん疲れて眠かったということもあったのだが。  姉さんとフェイは、どうなのかな?  昔から知っている二人だけに、お互いに男も女もなく接してきた。その二人が恋人へと昇華していく のはどんな感じなのか予想もつかない。  キスくらいはしているみたいだけど、それ以上は考えられない。というか笑ってしまう。あの二人が ? と。  もちろんそんなことを考えていたと知れれば、フェイにもローズマリーにも殴られること請け合いだ ったが。  チンと音を立てて止まった電子レンジに、キッチンミトンをしてグラタンを取り出し、一人食卓につ いて夕食をとりはじめる。  料理人の姉がいないので、今日はグラタンとロールパンに千切っただけのレタスのサラダ。  きちんと食事のための祈りをしてフォークを手にとったとき、家の電話が鳴っているのに気付いた。 「はいはい」  グラタンの中に差し込んだフォークから手を離してダイニングを出たジャスティスだったが、一瞬珍 しいなと思った。  近頃は家の電話が鳴ることは滅多にない。ほとんどが携帯にかかってくるからだ。 「ハロー?」  電話に出たジャスティスに、電話の向こう側がしばし沈黙する。  いたずら電話?  そう思ったジャスティスだったが、電話の背後から聞こえた馴染みのある音に相手の言葉を待った。  電話の背後の音は病院の中であることが窺い知れる院内放送が聞こえていたからだ。 「突然に電話して申し訳ありません」  迷った声で、女の声が言った。  不安が滲む、戸惑いにこもる声は、聞き覚えのあるものではなかった。 「どちら様ですか?」  ジャスティスが問い返す。  その声に相手方がゆっくりと語る。 「アンネの母です。ローズマリーさんに担当していただいた患者で」 「ああ。アンネのお母さん。お久しぶりです」  一度顔を合わせていたことを思い出して、ジャスティスの顔に笑みが浮ぶ。だが同時に疑問も浮んだ。  なぜ彼女が自分たちの自宅に電話を掛けてくるのだろうか。 「アンネは元気ですか? 今度姉とアンネをつれてキャンプなんてできたらいいねと話していたところ で」  だがそういったジャスティスの耳に、電話口からすすり泣きの声が聞こえて言葉を切った。  ずっと押し殺していた感情がはじけたように泣く電話口の向こうの女性に、ジャスティスは息を飲ん だ。 「……アンネに何かあったんですか?」  ジャスティスは声を抑えてゆっくりと尋ねた。 「……拒絶反応が起こって………」  泣き声の合間に聞こえた言葉に、ジャスティスは目の前が暗くなっていくのを感じた。  ウサギの腕の毛をバリカンで刈り、点滴を刺していく。  相手は手を動かすなといっても通じない相手だけに、テープで針を固定していくが、取り付けられた 管が邪魔らしく、迷惑そうな目で見ている。  が、そんな顔をしていられるのは症状が軽いからだ。  重篤化し始めたウサギは、ただ苦しそうな喘鳴の息をしてケージの隅で丸まっていた。  抗ウイルス剤入りの点滴をしてみても、どこまで対抗しうるかは未知数だった。  背後でドアが開く。  振り返ってみたローズマリーは、そこに不機嫌そのものの顔で立つカルロスを見て眉を上げた。 「何しに来たのかしら?」  棘のあるその言葉にピクリと眉を動かしたカルロスだったが、苛立たしげに皺の寄った白衣の裾をひ るがえすとウサギたちのゲージに歩み寄る。  いつもは静かなもので、いるのかいないのか分からないようなウサギたちだったが、今は苦しさを伝 えるうめきなのか、鳴き声を盛んに上げていた。  それを無言で見下ろしていたカルロスだったが、ケージを空けるとウサギをつかみ出す。  その動作が荒々しい気がして、ローズマリーは不安に思いながら見守っていた。  もし即処分しようなどとしたら、後ろから蹴り倒してやろうと思いながら。  だが鼻水をたらし始めてじっとしているウサギを目の前まで掲げ上げると、意外な優しい動作で胸に 抱いた。  丸みを帯びて柔らかい体のウサギの背を撫でながら、カルロスがローズマリーに背を向け、処置する ためにバリカンを手に取る。  どうやら治療に力を貸してくれる気になったらしい。  そう思えば、先ほどの自分の辛らつな態度は悪かったかもしれない。  ローズマリーは次のケージに移りながら、黙々と作業を続けるカルロスの背中を見つめた。  だが礼は言わなかった。言われて素直に受け取るような性格ではないだろうと思ったから。  ただ二人で言葉も交わさずに作業を続ける。  聞こえるのは部屋の温度を一定に保つために働き続ける空調の音と、加湿器の上げる水音。そしてケ ージを開けたり締めたりするときの金属音だけだった。  一通りの作業を終えてイスに座ったときには、すでに二時間近い時間が経っていた。 「これで助かるいいがな」  そう言ってローズマリーの隣りのイスに腰を下ろしたカルロスが、手にしていたビニール手袋を取っ てため息をついた。  腕時計はすでに午後の十時を示していた。  急激に襲った緊張と長時間の単純作業に、精神疲労が蓄積していた。  ローズマリーは立ち上がって部屋を出ると、自販機でコーヒーを買って戻る。  そしてその一つをカルロスに手渡すと、自分も疲れを滲ませた顔で呆然としながらコーヒーを啜った。  普段は飲まない甘いコーヒーが胃の中で吸収されていくのが分かる。 「そういえば、カルロスの方が疲れてるのかしら?」  不意にローズマリーが口にした言葉に、カルロスがコーヒーに口をつけながら首を傾げて見る。 「何が?」 「だって昨日の夜は随分とお盛んだったらしいし」  普段なら決して口にしない話題だったが、疲れた脳が軽口を求めていた。  それが分かってか、カルロスはただ鼻を鳴らして口元だけで笑って見せた。  その顔が何かを思い出した様子でゆっくりと瞬きすると、コーヒーで唇を濡らしながら話し出す。 「そう言えば昔、レイリに泣いて怒られたことがあったな」 「あの子が怒ったの?」  どちらかといえば大人しくて、他人に対して怒るほどに自尊心がない人間だと思っていたが、なにを 怒ったのだろうと、興味津々でカロルスを見る。  カルロスは前かがみで膝に肘をつき、ウサギを眺めながら言う。 「どうして実験動物を使うのかって」 「ああ」  自分のことでは怒ることをしないレイリだったが、弱いものが苦しむ姿には堪えられない性質だとい うことは知っていた。 「どっかのサイトで見たんだって言うんだ。ウサギは瞬きをしない。それを利用して人間のシャンブー やら化粧品やらが目に入ったらどうなるのか実験するのに使われている。当然痛みで炎症が起こるが、 瞬きをしないから痛くとも流しさることができずに苦しむだけ。潰瘍ができても腫瘍ができても。人間 に使うものをウサギで試したって意味ないではないかとご立腹でね」 「で、なんて答えたの?」  なんとなくカルロスの答えは予想できたが、ローズマリーはあえて尋ねた。 「動物実験は必要だ。安全だと動物が身をもって証明してくれなければ、どんなクスリも使用を許可さ れない。おまえはいきなり副作用があるかもしれないけれど、すごく効く薬ができたから試してみない かと言われて使う気になるのか? 安全ですと言われるから使うんだろう。その安全を確かめるのには 動物が必要なんだ」 「それは怒るわね」  ローズマリーがわずかばかり声を上げて笑うと、カルロスも笑う。 「ああ、激怒だったね。しばらく口もきいてくれなかった」  科学者としての立場でものを考えれば、動物実験は不可欠だ。  だが苦しむ動物がいることに心が痛まないわけではない。ペットの動物と実験動物のどこに差があっ て、悲運な運命を歩むように人間が線引きするのかと問われれば、返す答えがない。  でも同時にローズマリーは思うのだ。だったら、血統書つきの動物を家の中で大事に飼い、飼い手の ない動物は冬の寒空の下でも戸外で丸まって一夜を過ごさなければならない。その線引きはどこにある のか。家で飼われる価値のある動物と、そうではない動物の線引きは、誰が引いているのか。  人間という種が自分たちにとって快適な生活をしようとすること自体が、エゴなのであり、完全なる 共生の理想像などどこのあるのか分からないのではないか。  医療とは人を救うためにある科学だ。だが、その人を救うために幾多の犠牲を踏みつけてきたことは 事実なのだ。それなくして現代医療の発達はなかった。  だからこそ、できることといえば感謝くらいなのだとローズマリーは思っていた。  未来のためにその身を差し出してくれたありとあらゆるものへの感謝を忘れない。それしかできない。 「助かるといいわね」  ウサギたちを見つめながらローズマリーが言う。 「ああ」  カルロスは呟くと目を閉じた。  その真意はわからない。だが、ここにいてくれることに、ローズマリーは心の中で感謝の言葉を言っ た。
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