第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を



   
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 カルロスと訪れた大学病院の小児科には、二人のポンペ病患者の子どもが入院していた。  一人はまだ一歳二ヶ月の女の子。そしてもう一人が三歳の男の子だった。  二人とも、カルテに書かれていた年齢よりも遥かに体が小さく、その年なら特有の爆発的なエネルギ ーというものが感じられなかった。  静かにベッドの上に座って一人の世界で遊び続けている。  一歳二ヶ月の子どもに至っては、すでに立ち上がるくらいには体が成長しているだけの時間が経過し ているにもかかわらず、まだ一人で座っていることもできない。座らせようとしても、頭がグラグラと 揺れて前に倒れてしまう。そして倒れたら最後、自力で体を反転させて難を逃れることができずに弱々 しく泣き声を上げるだけなのだ。 「筋肉中のグルコーゲンの過剰で筋肉が弱っている」 「呼吸も弱いわね」  ガラス越しの対面となった小さな体の女の子が、看護師によって体を起され寝かされる。  そして透明なチューブを鼻から突っ込まれて気管や肺にたまってしまった粘液を吸い出される。当然 苦しいこんな処置に、嫌だと顔を赤くして泣き声を上げて手を振り回すが、そんな動きもあまりに緩慢 で力がこもらない。苦しげに咽てえづいて涙を浮かべる。  グリコーゲンは動物にとって大切な栄養素だ。糖が重複して複雑な構造をとる多分子構造をもつもの で、体内に蓄えられている。主に筋肉中や肝臓で合成されるのだが、ポンペ病患者の場合、過剰に生成 されたグリコーゲンを分解することができないのだ。結果、過剰したグリコーゲンが筋肉や心臓にたま ると筋肉組織が破壊され、歩くこと、食べること、笑うこと、話すこと、そして呼吸すること、心臓を 動かして生きていることができなくなってしまう。  目の前の女の子にもその症状が深刻な程に現れていた。筋肉が発達していない。肺呼吸が自立では非 常に浅い。泣き声を上げようものなら酸欠を起して、すぐに人工呼吸器が取り付けられる。  だが溜まっていた粘液が除去され、人工呼吸器で送られる酸素で体が楽になったのだろう。女の子は すぐに泣いていたのも忘れたようにケロリとした顔でベッドの上で静かに横たわっている。動作は非常 にゆっくりではあるが、手足を振り回して一人で遊んでいる様はかわいらしく、それだけに痛々しくも あった。 「……あの子を救うことはできるのかしら?」  目の前に救うことのできる命があるのなら、出来る限りのことをしてあげたい。元気に声を上げて笑 う姿を見てみたい。母親の腕に抱かれて思う存分に甘えさせてあげたい。そう思う気持ちとは裏腹に、 冷静な医学を修めるものとしての判断が脳内で警告を発する。  彼女の年齢は一歳二ヶ月。幼児での発病では二歳まで命を保つことは非常に困難なのだ。  見せてもらったレントゲンの写真を思い返しても、状況は絶望的であると言わざるを得ない。心臓が 肥大していた。  最大で見積もっても彼女の命の期限は残り八ヶ月。  だがウサギたちが成長して乳を出すようになるのは、その八ヶ月後なのだ。そこまで彼女の命がもつ という保証はどこにもない。 「……わからない。あの小さな体に秘められている生命力にかけるだけだ」  カルロスも真っ直ぐにガラスの向こうの女の子の様子を見つめていた。その横顔からは、ただ単に科 学者として自分が制御しえるかもしれない症例への興味ではなく、心の底から苦しむ人に救いの手を差 し伸べる手立てはないのかと模索している様子が見て取れた。 「もう一人の男の子にもお会いになるでしょう?」  案内についてくれた職員の言葉にうなずき、二人はもう少し症状が軽いといわれている三歳の男の子 の元へと向った。  彼にはガラス越しではなく、直接会う事できるという。  通路とは隔てて引かれたカーテンを開けると、ベッドの上に座りこんで絵本を読んでいた男の子が顔 をあげる。  やはり鼻に酸素を導入するチューブをつけていたが、それでも自力で座って本を声を出して読んでい る。 「おはよう、ケイン」  呼びかけた女性職員の声に、ケインと呼ばれた男の子が笑顔で「おはよう」と挨拶を返すと再び絵本 を読み始める。  たどたどしい読み方で、やっと読めるようになった英単語をゆっくりと発音していた。 「ケインはとても賢い子で、将来の夢もね」  問い掛けられたケインが頷いてカルロスとローズマリーを見上げて言う。 「ぼくは大きくなったらお医者さんになるの。そして、病気の人を助けてあげるの」  自分と同じように苦しむ人を救ってあげたいと思っているのだろうか。それとも自分に接してくれる 医師の姿に憧れているのだろうか。 「そうなのよね。だからケインは今からお勉強をがんばっているのよね」  女性職員の言葉に頷きながら、ケインが本を読み始める。  読んでいるのは「お人形とくまさん」という題名の絵本だった。 ―― A boy had a lot of toys. He likes a brown teddy bear the best. But one day, his mother said to him "This teddy bear is dirty. So Let's buy new doll." (ある男の子はたくさんのおもちゃをもっていました。彼は茶色いテディーベアが一番のお気に入りで した。でもある日、男の子のお母さんが言いました。 「このクマのぬいぐるみは汚くなってしまったわ。新しいお人形を買いに行きましょう」) 話の内容に沿ってなのか、男の子のベッドの上にも長いこと一緒にこの病院で過ごしているらしいテ ディーベアが座っていた。お話の中のテディーベアと同じように古くて、鼻や耳が破れ始めている。毎 日抱きしめて眠っているのだろう。 「読むのが上手ね」  ケインの目の前にかがんだローズマリーが言うと、少年が嬉しそうに頷き、ローズマリーにも見える ように絵本を傾けてくれる。 ―― The boy bought new doll. She was very pretty girl with sweet pink skirt. He became to love the doll soon. And the teddy bear was forgot. (男の子は新しいお人形を買いました。彼女はとても可愛いピンクのスカートをはいた女の子でした。 男の子はすぐにそのお人形のことが好きになりました。そして、テディーのことを忘れてしまったので す) 「かわいそうなテディー。ぼくはそんなことしないよ」  ケインがベッドの上のテディーベアに手を伸ばすのをみて、カルロスが手渡す。  すると笑顔で「ありがとう」と言って、胸の中に抱きしめる。 ―― All the toys ―― monkey, rabbit, soldier became a friend of new doll. But they bullied teddy. And said . "You are dirty. We don't want touch. Go away" (おもちゃたち、サルとウサギ、そしておもちゃの兵隊は、新しいお人形とお友達になりました。でも、 彼らはテディーのことをいじめて、言ったのです。 「君は汚いね。ぼくたちは君と握手するなんてゴメンだよ。あっちへ行ってくれないかな」)  感情をこめて、ゆっくりと読みすすめる男の子を見下ろしながら、カルロスも見上げたローズマリー に大したものだと示して頷いてみせる。 ―― Teddy was very sad. Teddy only watched when they were playing. One day a pretty doll cried. Teddy asked her "What happen to you?" She said "I have lost my shoe" Teddy said to her "OK. Let's look for your shoe with me" But her shoe wasn't anywhere. She began to cry again. (テディーはとても哀しく思いました。テディーはみんなが遊んでいるのを見ているだけ。  そんなある日、かわいい女の子の人形が泣いていました。テディーは尋ねました。 「いったい何が起こったんだい?」  女の子のお人形は言いました。「靴をなくしてしまったの」  テディーはいいました。「わかった。一緒にぼくと捜そうよ」  でも彼女の靴はどこにもありません。女の子のお人形はまた泣き出してしまいました)  そこまで読んだところで、ケインをローズマリーを見つめて聞いてきた。 「ねぇ、お姉さんならどうする? 自分を虐めていた女の子が靴をなくしたなんて泣いていたって、ぼ くは助けてあげたくないと思ってしまうけど」  少年は真剣なまっすぐな目でローズマリーに問い掛けてくる。 「そうね。わたしもいい気味だと思ってしまうかもしれないわ。でもテディーはどうするのかしらね」  ケインは真剣な様子で本の上の文字に集中して読み始める。 ―― teddy said to her "Don't cry anymore. I give you my shoe. Pretty doll surprised. But she smiled and said to teddy. "thank you teddy. You are my real friend." Next day boy surprised and called his mother. " Mom, a pretty doll put teddy's shoe. Why?" And then, pretty doll and teddy was given new shoes. (テディーは言いました。「もう泣かないで。ぼくの靴をあげるから」  かわいいお人形の女の子はびっくりしました。でも笑顔で言いました。 「ありがとうテディー。あなたは本当のわたしのお友達ね」  次の日、男の子はびっくりしてお母さんを呼びました。 「ねえ、ママ。女の子のお人形がテディーの靴をはいているよ。どうして?」  そのあと、お人形とテディーは新しい靴を作ってもらうことができました) 「ああ、よかった。テディーはとっても優しい子だったから、神様がご褒美に新しい靴をもらえるよう にしてくれたんだよね」  ケインは胸に抱きしめたテディーを褒めるように撫でると、ローズマリーとカルロスを見上げた。 「お姉ちゃんとお兄ちゃんはお医者さんなの?」 「お医者さんの卵かな? 試験を受けて合格するとお医者さんになれるの」  ローズマリーが言う隣りに、カルロスも腰を下ろしてケインと同じ目線になる。 「ケインもテディーみたいにがんばってるから、ご褒美がもらえるよ。きっと」  カルロスの大きな手に頭を撫でられ、ケインが照れながらも歯を見せて大きな笑顔を見せる。 「本当? ぼくにもご褒美もらえるかな? じゃあ、ぼく、がんばって勉強するね。そうした、神様が ぼくの病気も治してくれるかも」  ドキンと胸に響く言葉だった。  自分たちの実験がうまくいくかどうかは、この男の子や多くの子どもたちの大きな夢を叶えることが できるか否かに関わってくるのだ。 「ああ。治してやるさ」  カルロスが約束するように頷き、ケインを抱きよせた。  あまりに細くて小さな体。だが、その中には無限の可能性が広がっているのが痛いほどに感じられた。  
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