第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を



   
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 ケージの中で、生まれたばかりの子ウサギが毛も生え揃わない赤い体で、母ウサギの腹の下で眠って いる。  母ウサギが神経質になっている時期ゆえに、あまり覗かないようにはしているのだが、それでもつい 可愛らしさに負けて一日に二回三回と気になってケージにかけた毛布の隙間から覗いてしまう。 「ローズマリー」  そっとやっているつもりでいたのだが、背後から来ていたカルロスに見つかって、ローズマリーが慌 てて毛布から手を離す。  だが声のわりに、振り返って見たカルロスの顔は、怒っているというよりも呆れ半分で笑っていた。 「もっとクールなタイプだと思っていたのに、子どもとか動物とかには弱いんだな」  それには聞こえない振りをしたローズマリーが赤い顔をしながら、仕事に戻る格好だけはして書類を ファイルしたバインダーを手に取る。 「別に覗いてたんじゃないわよ。みんなが元気に育っているかを見ていただけ。だって病気の子どもた ちのためには元気に育ってもらわないと」  とってつけたように、そのくせ言いながら自分にその言葉を信じ込ませるように力をこめていうロー ズマリーに、カルロスが笑いをかみ殺して震えた声で「そうだな」と頷く。  その態度にキツイ睨みを送ったローズマリーだったが、そんなことでは動じないカルロスにからかい の目で見下ろされて肩をすくめる。  そして再び資料に目を下ろしたローズマリーだったが、そこに並んだDNA解析の結果の表にうっす らと笑みを浮かべる。  生まれた子どもはどれもきちんとα-グルコシダーゼ遺伝子が含まれていた。これで約7ヵ月後には 今生まれたウサギたちが次の世代を身篭り、同時にポンペ病の子どもたちを救う乳を出すことになる のだ。 「ねぇ、ところでポンペ病の子どもたちを見舞うっていう予定はどうなった?」 「ああ。面会の予定は来週の金曜日にいれてあるけど」 「ピクニックの前日ね。ところでカルロスはピクニックに行けるの?」  当然レイリからその旨が伝えられていることを見込んでいえば、昨日の今日だが「大丈夫」だと返事 が返ってくる。  昨日はカルロスも研究所を休んでいた。ということは、自分がレイリと会った後にデートにでも出か けたのかもしれない。研究一筋で女の考えることなんてわからないと言っていたカルロスからは大躍進 の進歩かもしれない。 「で、そのピクニックっていうのがラブラブ大作戦なんだっての?」  カルロスの口から出ると、なんだか酷く幼稚な遊戯をしているような空気が帯びるその言葉に、ロー ズマリーが資料に目を落としたまま顔をしかめる。 「……知らない。ジャスティスの彼女がそんな事言って騒いでたけど」 「でもイラストでは、君にもハートの目を向けている男がいたけど。例のマリーが邪険にしちゃった彼 かな?」  どうせ昨日の自分たちのラブラブデートの合間にレイリに聞かされているのだろう。どうやら仲直り したらしいわよと。  二人の笑いのネタにされているような被害妄想まででてきて、ローズマリーは苛立ちを抑えるように 咳払いした。 「ええ、そうね。わたしが邪険にした男よ。でもお二人の心温まるご忠告のお陰で、無事に問題解決い たしました。ありがとうございました」  とても感謝しているようには思えない仏頂面と棒読みに、カルロスがこれは突き過ぎかかと反省する ように、肩をすくめて笑ってみせる。 「問題解決ね。まぁ、なによりの結果で」  恋愛事に、可愛らしさの欠片もない問題解決などという言葉を選んだことがおかしかったのか、口当 たりの悪い食べ物を口に突っ込まれたようにその言葉を反芻する。  その顔を見上げながら、ローズマリーも我ながら恋に胸ときめかせる可愛らしい乙女は演じられない ものだと内心で苦笑いを浮かべる。  そして自分と同じように恋愛には疎そうな男の顔をじっと見つめた。  つい数日前までは近づきがたい自信という盾で覆われていたように感じるほどだったカルロスが、今 は優しい顔でファイルの資料を見下ろしている。  そう。自分だけにしか関心がなかった男が、周りに自分を必要とする存在がいることに気付いて、自 ら愛情の手を伸ばし始めた寛大さが感じられる。しかも元々他人を省みて助けるだけの度量があった男 だけに、その方向性を見つけただけで大いにその人間性に深みが増したように見える。  そんな風に彼を変えたのがレイリなら、彼女の持つ力もたいしたものだとローズマリーは脳裏に浮ん だ人形のように美しい友人の顔に拍手を送る。  そんなローズマリーの気配を悟ったのか、ファイルを読んでいた顔をそのままに、視線だけをローズ マリーに向けてカルロスが上目遣いで目を上げる。  細かい資料を見るときには掛けるノンフレームのレンズの間から薄い茶色の瞳を向けられ、ローズマ リーが少し意地悪く笑いかける。 「そちらはレイリと随分とラブラブらしいわね」  その言葉にカルロスが余裕たっぷりに微笑んでみせる。それがまた様になっていて、ローズマリーは ため息をつくしかなかった。 「ピクニックでは、ぼくたちが二人でどっかに消えても探さなくていいからね」  予想以上の惚気た発言に、ローズマリーはびっくりとして目を見開いたが、もう好きにしてよと呆れ た顔で頷くとカルロスに背をむける。 「もう二人の惚気話にはお腹いっぱいよ。わたしはこれから大学の方に顔を出してくるけど、他に仕事 ないかしら?」 「ああ。大丈夫だよ」  ファイル片手に部屋の置くに進みながら言うカルロスの背中を見送って、ローズマリーは自然と上が っていた口角を下ろして真顔になると廊下へと出て行った。  久々に訪れた病院の小児科でアンネの病室を聞いてローズマリーは笑みを浮かべた。  アンネの病室が完全隔離の無菌室から出て一般病棟の個室に戻っていた。どうやら移植した幹細胞は 生着してアンネの体の中で完璧に活動を開始したことが確認されたらしい。  あの母親とアンネの対面を見てからも、何度かは様子を見に来ていたのだが、タイミングが悪くアン ネが眠っていたり母親と笑顔で話している姿があったために面と会うことはなかったのだ。  花を売店で買って、ついでに目についたビーズでできた手作りのブレスレットもプレゼントのために 購入する。髪が抜け落ちてしまっているからこそ、女の子は別のおしゃれで自分が女の子だというプラ イドを保ちたいものなのだから。  アンネの病室のドアをノックする。 「ハーイ」  部屋の中からはアンネの元気のいい声が返ってくる。  アンネが返事を返すということは、母親は今席を離れているらしい。  そっとドアを開け、隙間から顔を覗かせると、ベッドの上で何かを書いていたらしく鉛筆を持ったア ンネの姿が目に入る。  そして顔を覗かせているのがローズマリーだと分かった瞬間、驚いた顔から嬉しそうな笑顔になる変 化が目に映る。  アンネはベッドの上に跨るテーブルを押しのけ、鉛筆も文字通りにほうり投げると掛け布団を跳ね上 げてベッドから飛び降りる。 「ローズマリー!」  感激の声で名前を呼んでくれるアンネに笑みを向け、持っていた花束を床に下ろすと飛び込むように 抱きついてくるアンネの体を抱きとめる。 「アンネ。随分と元気になったのね。嬉しいわ」  言おうと思っていた言葉がスラスラと口から出てくる。  言う言葉を準備しておいて良かったと思うローズマリーだった。そうでなかったら、アンネの自分を 慕ってくれる気持ちが嬉しすぎて胸がいっぱいになってしまって言葉が出てこなくなっていただろうと 思えたからだ。  ギュッと胸の中に抱きしめて目の前にあるアンネの頬に、そっとキスをする。  子どもらしいふっくらとしていた頬は、幾分痩せていたが元気な薔薇色をしていた。 「どうして急に来てくれなくなったの。わたしすごく寂しかったよ」  顔を上げたアンネが少し怒ったように頬を膨らませて言う。  その頬を撫でながら「ごめんね」と素直に謝ったローズマリーは片手に花を、もう片手にアンネの手 を握って病室の中に入る。 「何度かは見に来てたんだよ。でも、アンネのママがいたみたいだから、お邪魔したらいけないなって 思って」 「そっか。でもママがいたってローズマリーにも会いたいよ。ママにも紹介したいし。あ、そうだ。ジ ャスティスのことはママに紹介したんだよ」 「そうなの? なんて紹介したの?」 「わたしのナイトだよって」  自慢するように胸を張って言うアンネにローズマリーは笑みを浮かべて頷く。  もしアンネが退院できるくらいに回復したら、アンネのこともピクニックに連れて行ってあげたいと 思った。もちろんそのときはレイチェルには申し訳ないが欠席していただかないとならないが。  そう思いながら買ってきたプレゼントのブレスレットを見せると、アンネがベッドの上で飛跳ねて喜 んでくれる。  頭に被ったバンダナとおそろいのブルーのブレスレットをつけて上げると、「似合う?」と尋ねるよ うに手をかざしてみせる。  思ったとおりに、アンネには少し大人っぽいくらいのシンプルなブレスレットが似合っていた。子ど もっぽい花の飾りのついたピンク色のものよりも、青いターコイズが一つ飾りとしてついたブルーが白 い肌を惹き立てていた。 「アンネ。お姫さまみたいよ」 「お姫さまだもん」  ナイトがジャスティスで、アンネがお姫さま。そしてローズマリーが魔法使い。  そんな設定でした真夜中の病院めぐりを思い出して、二人で顔を見合わせてクスクスと笑う。  その拍子にアンネが口を押さえて顔を歪める。 「口内炎?」 「うん。まだいっぱい口の中にあって、ご飯も食べづらいんだ」  移植後に大量投与される抗がん剤によって、口の中が腫れ上がってしまうのが白血病ではよくある症 状だった。  アーンと言って口を開けてみせるアンネの舌や上あごにもびっちりと血豆のようなおおきな口内炎が できている。 「痛いよね」 「うん。でも前よりもずっといい。それにがんばってご飯食べて元気にならなきゃいけないもの」  大人でも痛くて堪らずに苦痛を訴えるほどの口内炎にもかかわらず、アンネは力強くそう言って胸の 前で握りこぶしを握ってみせる。 「うん、そうね。じゃあ、アンネが元気になったらジャスティスも連れてピクニックに行こうね」 「ピクニック?」  途端にアンネの顔が明るく輝く。 「ピクニックって何するの? 遠足みたいなもの?」 「そうね。お弁当を作って牧場とか行こうか。そこで羊さんとか追いかけて遊んだり、バドミントンと かするのも楽しいかな? 鬼ごっこでもがんばって付き合っちゃおうかな。ジャスティスを鬼にして、 一緒に逃げ回ろう。お花畑があったら花冠を作ってあげるね」 「うん。わたしはローズマリーに作ってあげる」  そんな春の日が訪れることを信じて、二人で指きりをする。絶対の約束だよと。  そこへ部屋のドアを開けて入ってくる人物がいた。 「あら、アンネのお客様?」  声だけでわかった。アンネの母親だ。  正面から見れば、本当にアンネが母親によく似ていることが分かった。  ソバカスが浮いた快活そうな顔も、尖った鼻も、大きくてよく表情を映す瞳の色も。 「あ、ママ。わたしの大親友のローズマリー」 「まぁ、こんな素敵な大親友ができてたの? 羨ましい事」  アンネに合わせてそう言った母親に、ローズマリーが立ち上がると頭を手を差し出す。 「はじめまして。ローズマリーといいます。以前アンネについて実習をさせていただいた医学生です。 今はアンネの担当からは離れていますが、アンネの言うとおりにお友達にならせてもらってます」  そう言って握手を交わすローズマリーに、横からアンネが苦言を呈する。 「ちょっと、ただの友だちじゃないでしょう。親友よ、親友。それに、わたしのナイトのお姉さんなん だから、将来は本当にお姉さんになっちゃうかもよ!」  おませな仕草で口を尖らせて言うアンネに、ローズマリーと母親が顔を見合わせて笑う。 「あー、何笑ってるの? 本気だからね!」 「はいはい」  母親が怒って二人を指さすアンネの頭を抱いて、よしよしと撫でる。  もっと早く会いに来ていればよかったな。そんな二人の姿を見ながらローズマリーは思った。  何を恐れていたのだろう。ただ自分に愛される自信がなかっただけなのだ。アンネに必要とされる自 分を実感したかっただけ。  まだまだ自分も子どもだ。  ローズマリーは心に浮んだ考えに否定したいながらも否定できない自分に気づいて苦笑する。  アンネに必要とされない自分を恐れた。それも事実。だが同時に、もう一人の自分がいたのに今気付 いたのだ。  娘を捨てたかに見えた母親が、自分の幸せを後にして娘のもとに、抱きしめるために戻ってきた。そ の姿に嫉妬したのだ。そんな母親がいるアンネを羨ましかったのだ。  ローズマリーとジャスティスの両親は現在も健在だが、離婚している。  経済的には音楽家として成功している父親の援助もあり、なに不自由することはない。だが愛情は与 えてもらえなかった。父が愛したのは、音楽と自分に地位を与えてくれる楽団。そして一夜の相手だっ た。現世のしがらみはいらなかった。  そして父にとってのしがらみには、自分の妻も含まれていた。おとぎ話のような恋の末にローズマリ ーをもうけ、結婚後に酔った勢いで押し倒した妻にできた子どもがジャスティスだった。 『あの人が優しかったのは、わたしが自分のものにならないうちだけ。自分のものになった瞬間に、飽 きてしまうのよ。自分に見えないベールの向こうだからこそ覗きたくなる。それだけだ。そう言ったの よ、あの人は。ベールの向こうを覗こうとして悪戯にわたしの処女を散らしてあなたを産ませ、あとは 知らん顔。そうよ、わたしがあの人に抱かれたのはたったの二回。そんな夫婦がこの世の中に、わたし たち以外にいるはずがないわ!』  ヒステリックに言った母の言葉の意味が分かったのは、随分と後になってからだった。  たったの五歳の娘に対してそう愚痴を言い続けた母親は、気まぐれで自分勝手な愛情だけを注いで、 ある日突然消えたのだ。男とともに。  それ以後、自分には親はいなかったのだと思って生きてきた。  でも正直に自分の心の奥底にたまった淀みをさらえば、願っていなかったわけではないのだ。いつか、 母親が自分たちのもとにもどってきてくれるはずなのだと。そして謝ってくれるのだ。本当は愛してい たと言いながら。  だがそんな日は訪れることなく、現在に至っている。  ジャスティスには母の顔すら記憶になく、父には会ったことすらない。  自分たち姉弟は、まさしく捨てられた子どもなのだ。  だから、同じような境遇の中で男を捨てて娘を選び取ってくれたアンネの母親の存在が羨ましかった のだ。  でも本当によかった。そういう母親がこの世の中にいてくれることが体感できてよかった。  ローズマリーはそう思うと母親に抱きしめられて、照れた赤い顔のアンネに笑いかけた。 「元気になったら、お母さんも一緒にピクニックだからね」  ローズマリーに向って拳を掲げてみせるアンネに、頷いたローズマリーは拳に拳をぶつけて誓い合っ た。
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