第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を




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 ウサギがヒクヒクと鼻を動かしながら飼育箱の中を歩き回っている。  順調にローズマリーの作った遺伝子組み換えを施した胚が、ウサギの胎内で成長している。  このウサギが生まれ、成長して成体となって妊娠すれば、ポンペ病の子どもたちを救う酵素を含んだ 乳を作り出してくれるのだ。  そっと飼育箱の柵の間に指を差し入れれば、近寄ってきたウサギが匂いを嗅いでうずくまる。まるで 撫でてもいいよと言ってくれているようで、ローズマリーはフカフカと暖かい毛を撫でて笑みを浮かべ る。 「元気な赤ちゃんを産んでね」  声を掛ければ、了解したと言いたげに茶色の目をローズマリーに向ける。 「やぁ。ウサギちゃんたちは順調に育っているだろう?」  飼育室に入ってきたカルロスがローズマリーに声を掛ける。 「ええ。みんな元気に育ってるわ」  腰を折って飼育箱を覗いていたローズマリーも、身を起こすとカルロスに笑みを向ける。  いつも仕事中には笑みを見せることはないカルロスが、機嫌が良さそうにローズマリーの隣りに並ぶ とウサギを観察して笑っている。  どうやら昨日のレイリとのデートは随分と楽しいものになったに違いない。そういえば、デートの後
は必ず来る報告メールが今日は来ていなかったなと思いだす。  見た目にはお似合いのカップルだったが、どこか恋人同士というにはぎこちない雰囲気があった二人 だが、そんな見えない壁を乗り越えることができたのかもしれない。  カルロスの横顔をチラリと見ながら、ローズマリーが微笑む。  だがその顔がすぐに暗く沈む。  それに比べて自分の昨日の出来事は、何度思い返しても腹が立つは情けなくなるはなものだった。  あそこまでフェイを拒絶する必要はなかったのかもしれないと反省も胸の内を過ぎる。  なによりも最後にフェイが残していった言葉が、胸に刺さっていて抜けない棘のようにチクチクと四 六時中痛みを与える。 『好きになってごめん』  そんなことを言わせたかったのではない。  ただ怖気づいたのだ。  ずっと子どもの頃から見ているだけに子どもだと思っていたフェイが、急に男に見えて怖かったのだ。  すでにいい大人な年齢になっていながら、一瞬でも感じた自分に見けられる性的な視線に本能的な恐 怖を感じた。  カマトトぶるつもりはないが、今まで恋はもちろんのこと、まともな人間関係すら築いて来れなかっ ただけに、どう振舞ったらいいのか分からなくなる。  ウサギの柵に指を入れたカルロスに、顔をこすりつけるウサギのほうが、よっぽど甘え上手で羨まし い。  そんな憂いに沈んだ空気を感じ取ってか、ローズマリーを見上げたカルロスが首を傾げる。 「ローズマリー? 何かあった?」  そう言ってくれるカルロスだったが、ローズマリーは苦笑を浮かべる。  こちらは昨日の幸せな恋人との一時に精神的な余裕があるのだろう。いつもなら他人の顔色など気に したこともなさそうなカルロスが、微妙な気分の違いを感じ取って気遣ってくれる。 「昨日のあなたは女心は分からないと言っていたけれど、今日はわたしが悩み中」 「彼氏と喧嘩?」  その問いにローズマリーは肩をすくめる。  フェイは彼氏なのだろうか? そこからしてまず分からない。  ジャスティスの大学合格祝いのときに、いつの間にやら彼氏のような地位はゲットしたらしいが、ロ ーズマリーの中にフェイに恋する気持ちなどこれぽっちもないうえに、恋人らしく過ごしたことなど皆 無。 「弟の幼馴染みなのよ。昔からわたしが世話してきた男だから、全然恋人だなんて感覚はないのよね。 向こうが勝手に彼氏だって言い張るだけで」 「そんな彼とどんな喧嘩を?」  珍しく他人のプライベートに関心を持ったらしく、テーブルに腰を下ろしてカルロスが尋ねる。 「……わたしが悪かったのかしらね。あんたなんて恋愛対象じゃないし、キスだってしたくないって言 っちゃった」  それを聞いたカルロスが、それは痛いと顔を顰めて額を手で押さえる。 「男って女が思っているほど強くないんだから、それは後でちゃんとフォローしてあげないと。彼がか わいそうだよ」  カルロスの言葉に、不本意そうに頷いたローズマリーだったが、自分でもそう思っていたので今日に でも謝りにいこうと心を決める。 「年下なんだろ、その彼は」 「……そうね」 「だったら、尚のこと男として見られようと陰ながらがんばってるはずだよ。努力は認めてあげなきゃ」  まるで恋の達人のような口ぶりで言うカルロスが、難しい顔をしたローズマリーの頭をポンポンと叩 く。  その仕草が子どもをあやすようで、ムっとしたローズマリーがカルロスを睨む。 「それはご自身の経験談?」  その鋭い突っ込みに、カルロスがもう助言はおしまいと背を向ける。 「こら、逃げるな」  ローズマリーの声にカルロスが笑いながら振り返る。 「男なんて、いっつも格好つけていっぱいいっぱいでがんばってるんだよ」  その言葉を残してドアの外に消えたカルロスに、ローズマリーが困ったものだと苦笑いを浮かべる。  装っているのだろう。男も女も。  そしてフェイと自分は、子ども時代から培ってきたお互いの立ち位置という装いを崩せずにあたふた
しているのかもしれない。  いつまでも世話を焼いてやる姉の顔に固執するのは止めないとならないのかもしれない。  そう思ったローズマリーの脳裏に、カルロスの腕に身を寄せて可愛らしく微笑むレイリの顔が思い浮
かぶ。女の子の可愛らしさと守ってあげたい気持ちを掻き立てる無邪気な笑顔。 「……わたしには無理」  可愛らしい自分を想像することもできず、ため息をつきつつローズマリーも飼育室を後にするのだった。
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