第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を


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 迎えにいった車の助手席に乗り込んできたときから、どうもレイリの様子がいつもと違う。
 彼女のために時間を作ってやったというのに、まだお怒りモードなのだろうか?
 理解不能だと黙って運転を続けるカルロスの隣りで、コートに身を包んだレイリが背筋直立の見事な
姿勢を保ったままフロントガラスの向こうを流れていく景色を見つめ続けている。
 雨が降り出した夜の街には、ネオンの光が溶け出し、まるで深海の熱帯魚のショーを眺めているよう
な気持ちになる。
 すぐ目の前の車のテールランプさえもが滲んで、深紅の尾をもった熱帯魚が光を振り書きながら通り
過ぎていくように広がっていく。
 月のない暗い夜を、ネオンが雲に妖しく光を反射させる。
「どこ行くの?」
 前を見つめたまま、レイリが言う。
 その横顔を見ながら、カルロスが棒読みで答える。
「……前に行きたいって言ってた、海辺のホテルのレストラン。イタリアンだけど、予約いれておりた
から」
「………うん」
 やはりいつもの反応とは違う。
 いつもなら、初めてできた彼氏のプレゼントに過剰な喜びを見せるようなレイリなのに、どこか上の
空な返事だ。
 それにどうやら怒っているという様子でもない。どちらかといえば緊張している。
「なにかあったか? 変だぞ」
「へ、変?」
 レイリの声が上擦る。
 それに益々異常を感じとったカルロスが顔をしかめる。
「どこら辺が変?」
 明らかにカルロスの思っていることとはかけ離れた点を気にしているらしく、コートの胸元を押さえ
て必死な形相でカルロスを見つめてくる。
「別に格好は変じゃないけど。まぁ、コートを完全に着込むには早い季節かとは思うけど」
 確かに夜に外を歩くには上着の一枚も欲しい気温になりつつあるが、車で移動してレストランに入る
だけなのだから、ベルトまできっちりとしめたレイリは変といえば変だった。
 そう言っている間に洒落た白壁の小さなホテルが見えてくる。
 泊り客は1日4組までしかとらないという、高級感漂うホテルのエントランスへの坂道へと乗り入れ
ていく。
 海を背後にかかえた森の中に建つホテルは、ひっそりとした静寂の中でオレンジ色の温かいランプの
中で浮かび上がっていた。
 レイリを下ろすためにドアを開けてやれば、いつも通りに手をとってはくれるが、バレリーナらしか
らぬギクシャクとした動きで車から降りてくる。
 そして細い金色のピンヒールのサンダルを履いたレイリの細い足が、ヨロリとよろめくに至ってはカ
ルロスと組んだ腕に危うく支えられるほどだった。
「大丈夫か? 足痛めなかったか?」
 慌てて両手でレイリを支えたカルロスに、はじめてレイリが照れた笑みを見せる。
「大丈夫。ちょっと久しぶりに会って緊張しちゃったのかな?」
 恥らって笑うレイリに、カルロスの中で初めて会わずに放置してしまったことへの罪悪感が生まれる。
「俺に会うくらいで緊張して足くじいたりするなよ。大事なバレリーナの足なんだから」
「はい」
 素直に頷いたレイリを立たせてホテルの中へ向う。
 ひっそりとした簡素なロビーにはキリリと制服を着こなしたフロントが笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、カルロス様。ご予約のテーブルは準備できております」
 その言葉と同時に女性のホテルマンが「こちらです」と案内に出てくれる。そしてお召し物を預から
せていただきますというと、腕を差し出す。
「レイリ。コートは預けてけ」
 ここに至ってまだきっちりコートを身につけているどころか、預かるという言葉に再びコートの胸元
を押さえている。
 終始笑顔でいるホテルマンの横で、カルロスの顔が不信そうにレイリの顔をみつめる。
 それにうろたえたように目を泳がせたレイリは、ためらいがちにコートのベルトを解く。
 やっとまともに反応したかと安堵するカルロスだったが、おもむろに肌蹴られたコートの下から現れ
た姿に思わず目をむいた。
 ホルターネックのドレスの脇は大きく抉られて横から乳房が僅かに顔を覗かせているうえに、短い丈
のドレスからは極上の芸術品のような細い足が惜しげもなく晒されている。
 恥ずかしそうに胸の前でハンドバックを持つレイリに、ホテルマンの女性が笑顔でコートを受けとる。
「とてもお綺麗ですよ」
「……ありがとう」
 ホテルマンの言葉に顔を赤くしたレイリがカルロスを上目遣いに見上げる。
 その目がやっぱり変? と尋ねている。
 これでおかしかった理由が分かった。
 カルロスは合点がいってほほえむと、レイリに向って腕を差し出す。
 そこに通されたレイリの腕を握って、耳元で囁く。
「あんまりにキレイだからビックリした」
 先導していくホテルマンの後を進みながら、赤い顔をしたレイリが俯く。
 そしてさらに小声でレイリに囁きかける。
「部屋も取ってあるから」
 レイリの肩がビクンと跳ねあがるのを見ながら、カルロスは満足げな笑みで足をすすめるのであった。


 近づいた唇と唇の間からシャンパンの香りが漂う。
 恥ずかしそうに俯くレイリの肩を抱き、唇を重ねながらベッドの上に押し倒す。
 深く濃厚なキスにうっとりと目と閉じながらも、レイリの体が伸ばされたカルロスの手を拒絶するよ
うに硬くなる。
 そっとドレスの上から乳房に触れたカルロスだったが、その手を離すとぎゅっと目を閉じたレイリの
髪の中へと埋めた。
「こんなセクシーな服はレイリの趣味じゃないと思ってたけど」
 首の下のホルターネックのリボンを引くと、抵抗なくスルリとほどける。
「やっぱり変?」
 下からじっと見上げてくるレイリに、カルロスが首を横に振る。
「すごく似合ってる。今までこんなレイリを見ることができなかったのが悔やまれるくらいに」
 カルロスの顔が解かれた首元へと埋められる。
 首筋にそそがれる唇に、レイリが吐息を漏らす。
「バレエの衣装でも肩や背中が開いてるのは何度も見てるのに、今日のレイリにはやられた」
 熱い息が下ろされたドレスの胸元にかかる。
「カルロス」
 伸ばされたレイリの手がカルロスの髪の中へと埋まる。
 その指をとって口づけしたカルロスが告げる。
「レイリ、愛してる」
「わたしも」
 カルロスの顔が自分が見つめる視線の先で乳房の上へと下りていく。
 枕の頭を押し付けたレイリは、そこから上がる痺れるような快感に息を上気させ体を仰け反らせた。


 ベッドのシーツに包まったまま、レイリは気だるい眠気の中でまどろんでいた。
 シャワールームからは、絶え間なく水音が聞こえてくる。
 カルロスがシャワーを使っているのだ。
「一緒にどう?」などと冗談めかして言ったカルロスだったが、シーツに顔半分を埋めたまま首を横に
振るレイリに、残念そうにほほえんで額にキスをしてベッドから下りていった。
 窓の外は僅かに夜明けの気配を漂わせていたが、まだ闇の色が濃く、夜空には星も見える。
 シーツをまとったまま窓辺に寄ったレイリは、湿気を含んだ冷たい風に首をすくめ、シーツをギュッ
と体に巻きつけた。
 雨が上がった夜明けの空気は、これ以上ないというくらいに澄み渡っていた。
 胸に吸い込んだ空気の清冽さが体の中へと染み渡る。
 窓の向こうにあるバルコニーの手すりには、絡まったバラの蔦が這い、濃いビンクの花をつけている。
きっと鼻を寄せれば甘く芳しい芳香を放っていることだろう。
 そして開けた芝生で覆われた庭園の向こうには、波の音を立てる海が広がっている。
 今は一様に濃紺の色に染まっているが、街のネオンの光を反射させて僅かに波打つ海面が見てとれる。
 濃紺の夜気の中で、レイリの白い肌が浮かび上がる。
 シーツの間に見える胸元には、カルロスがつけた赤い刻印が咲いている。
 職業柄常に首筋は人の目にさらされると分かっているからか、カルロスは決して首にはキスマークを
つけない。
 そんな気遣いが嬉しいのと同時に、彼には無理を強いているような気がしてレイリは後ろめたいので
あった。
 今日のドレスにしても、バレエ団の仲間から無理強いに近い形で選ばされたのだった。
 彼がこの頃冷たいとぼやいたレイリに、彼女たちがしたのはレイリには色気が足りないという忠告だ
った。
 レイリはキレイだけど、どこかお堅いお嬢様の空気があるのよ。もっとオープンに彼のことが好きで
たまらないと行動で示さないと。愛してるって言葉で伝えること。そして、もっと大胆に自分から誘う
こと。
 口々にそう言って普段のレイリなら絶対に着ないドレスまで靴つきで貸し出してくれたのだ。
 黒いホルターネックの体に密着したドレスは、今はベッドの横にイスの上に掛けられている。
 恥ずかしくて仕方がなかったドレスだったが、今は少し感謝の気持ちが視線に載せられる。
 カルロスが喜んでくれたことは、自分の体で実感できた。
 カルロスから注がれる情熱の熱さが、初めてレイリの心を乱すほどに迫ったからだ。
 いつもは迫るカルロスの体に恐怖に近い感情を持っていたくらいだった。それを押し隠して、ただ体
を差し出す。
 だが今日は初めて目の前に迫ったカルロスの胸が愛しく、その腕に抱かれ守られる感覚に背筋に震え
が走るほどだった。
 だぶんカルロスには自分は物足りない恋人なのだろう。そんな気持ちが常に心の中にある。
 カルロスのように優秀で、容姿にも恵まれた男が、側におくだけで様になる女というだけでは満足す
るとは思えない。だが、みんなの言うような大胆さでカルロスに迫ることも想像できない。
 今日にしたところで、自分では大進歩だと思っているが、自分から愛しているという言葉は口にして
いないし、大胆に誘うなどとは程遠くその背中に手を這わせたくらいだ。
 それでもカルロスは優しく接してくれた。慣れない素振りのレイリを優しく見つめて何度もキスして
くれた。
「そんなところにいたら風邪ひくだろう」
 後ろから声を掛けたカルロスが、レイリの肩を抱きしめる。
「本当に冷たくなってるじゃないか。シャワー浴びてきて」
 カルロスの胸から熱いほどの体温が伝わり、急きたてられたレイリが頷いてシャワー室に向う。
 その背中にカルロスがベッドに腰を下ろしながら言う。
「そのシーツもお供してシャワーに入るのか?」
 寝乱れたベッドの上に肘枕で寝転がりながら、明らかにレイリをからかってカルロスが言う。
 言外にシーツを脱ぎ捨ててみればと誘う目つきに、レイリが笑みを返す。
 そしてシャワー室のドアを開けたところで振り返ると、ハラリとシーツを落とした。
 後ろ姿ではあったが自らカルロスに裸体を晒したレイリが、目のあったカルロスに扇情的な視線を送
って目を細める。
 が、それで限界だった。
 真っ赤に染まった顔でシャワールールに駆け込んでドアをバタリと閉じる。
 冗談で言ったことを実際に目の前でされたカルロスのほうは、しばらく閉じられたドアをじっと見つ
めて固まっていたが、声を上げて笑うとベッドに寝転がった。
 初めて自分の腕の中で羞恥を捨てて声を上げたレイリの体温が甦る。
 やっとレイリが自分のものになった気がして、カルロスは満足げに目を閉じた。


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