第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を




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 体の芯に感じる重苦しさに足を引きずるようにして部屋の鍵を開ける。  そして玄関に足を踏み入れた瞬間に、そこにある女物のつま先の細いパンプスに気付いた。どうやら レイリが来ていたらしい。  すっかり冷え切ったリビングのテーブルに顔を押し付けて、レイリが背中にブランケットを掛けて眠 っていた。  きっと自分を待っていて眠くなってしまったのだろう。  閉じた瞼を彩る長いまつげが頬に影を落とし、ほつれた髪が頬にかかっていた。  眠る顔は子どものようにあどけないのに、同時に匂い立つほどの色香がその首筋がから立ち上ってい た。  その姿に、カルロスは自分の中で沸きあがる異常とも思える気持ちに戦慄した。  自分に真っ直ぐに向けられた恋心と、守ってあげたくなる弱さ。いじらしく自分を誘う瞳。いつもは それらが心の琴線に触れて軽やかで切ない音色を上げるのに、今日はそんな脆弱さを叩き潰したくなる 残虐性が湧き上がる。  暴力という甘美な苛立ちが湧き上がり、自分の手を見下ろす。  この手でレイリを傷つけたいなどと、自分は本当に思っているのだろうか?  頬を押さえて涙で顔を歪めて泣き叫ぶレイリの姿が脳裏に浮び、腹の底が冷えていくような恐怖とと もに、胃のあたりには歓喜の震えがある。  きっと疲れているせいだ。  カルロスはレイリに触れることに恐怖し、起さないようにリビングを横切ってキッチンに入ると、冷 蔵庫を開けた。  中にレイリが買ってきたのだろう飲み物やサラダなどの料理が入っているのを見ながら、ビールの瓶 を取り出し、立ったまま封を切ると口をつける。  ピリピリと喉を刺激して胃まで下っていく冷たさに、ため息をつく。  キッチンのカウンターの向こうで、寝息に上下するレイリの背中が見えていた。  優しく抱き締めたい衝動と、そのまま荒々しく押し倒して犯してしまいたい衝動。今のそんな危険な 自分をレイリと隔てているカウンターは、野獣とかした自分とか弱い草食動物のレイリを隔てる檻の鉄 格子だった。  できればこのまま声も掛けずに眠ってしまいたかった。  だがこの冷えきった部屋の中でブランケット一枚で、しかも不自由な体勢で寝ている恋人を放置する ほどに非情にはなれなかった。  瓶の中のビールを煽ってレイリの眠るテーブルまで歩いていく。  そして音を立てないように瓶をガラスのテーブルの上に置くと、そっとその肩に手を置いた。 「レイリ」  声を掛けると、まつげが震えてかすかに瞼が開く。 「こんなところで寝ていたら風邪をひくぞ」  カルロスの声に寝ぼけているのか、頷いたレイリだったが、不自然な体勢で寝ていたことがたたった のか、痺れて痛む体に顔をしかめる。  そんなレイリの体に腕を通し、カルロスが抱き上げる。  そうすればそれが当たり前のように、レイリの腕が首に回される。  首筋に当てられた柔らかい頬が、カルロスの背中に鳥肌を立てるような刺激を走らせる。  それをレイリに気取られないように、そして自分でもそんな感情を押し殺すように、ベッドルームに 運んでいく。  布団の中に横たえれば、子どものように目を覚ますことなく再びレイリは寝入ってしまう。もしかし たらずっと自分を待っていて、眠ってからそれほど時間が経っていなかったのかもしれない。  赤ん坊のように丸まったレイリに背を向け、カルロスはベッドに腰を下ろすと服を脱ぎ捨てた。  シャワーくらいは浴びたい気もしたが、今はそれよりも疲れに押し潰されそうだった。  神経が参って体中に悪意という毒を吐き出していた。  そっとレイリの隣りに体を滑り込ませると、目を閉じた。  腕の中に抱きしめて眠りたい衝動を感じたが、カルロスはあえて寝返りをうつと、レイリに背を向け た。  意識が泥に沈み込んでいくように、柔らかな眠りの中へと落ちていく。  背中にある暖かさを感じながら。 「このウサギたち、いったいどうしたの?」  落ち着いてきた感のあるウサギたちに一息をついて椅子に座ったローズマリーにフェイが言った。  痛み始めた目を閉じていたローズマリーは、声のした方を振り返ってみて悲しく眉をしかめた。  フェイが見ていたのは、ダンボール箱の中に折り重なっているウサギの死体だった。  自分たちの失敗の犠牲になった貴重な命たち。 「感染症を起して、手の施しようがなかったの」 「……こんなに一気に死んじゃうような病気が発生したの?」  フェイはただ単に不思議に思って聞いているのだと分かっていたが、ローズマリーには自分たちの失 態を責められているように感じて口をつぐんだ。  その無言の訴えに気付いたのか、顔を上げたフェイがローズマリーを見たが、何も言わなかった。 「……あとで埋めてあげないといけないわね」 「手伝うよ」  フェイが優しい声で言ってくれるのに頷き、ローズマリーは目を閉じた。  隣りにフェイが腰を下ろすのが分かる。  疲れている自分に気をつかっているのだろう。無言で手持ち無沙汰の様子で買ってきてあった缶コー ヒーを手に取る。 「ねぇ、わたしの仕事って、人を助ける大切なものだと思ってたの。でも、今回のことで分からなくな った」  フェイには触れて欲しくないくせに、自分では抱えきれなくなった思いを自分は吐き出していた。 「今回のこと?」 「このウサギたちはね、ポンペ病の子どもたちを救うためにトランスジェニックっていう、人間の遺伝 子を人工的に組み込んで生まれたの」 「うん」  あまり仕事のことでは話をしたことのなかったローズマリーの言葉に、フェイが分からないながらに 真剣に耳を傾けてくれているのが分かった。 「だからね、昨日まではこの子たちは英雄だったの。子どもたちの命の可能性までもを背負って生きて いたの。でもね、わたしたちの不注意で死んでしまった。本来ウサギでは感染するはずのない人間のイ ンフルエンザにかかってしまった。ウサギという種は遭遇したことのない病気だっただけに、抵抗する 術がなくて、救って上げられなかった」  涙は出てこなかった。だが胸の奥深くが引き裂かれたように痛かった。だがその痛みは和らげて欲し いわけではなく、甘んじて受けなければならない罰だと分かっていた。 「でも、ローズマリーは必死でがんばってるじゃないか。救えなかった命もあるけれど、今も生きよう としているウサギもいる。その命を救ってあげたのは、ローズマリーの思いなんじゃないの?」 「………」  フェイの慰めの言葉に、だがローズマリーは頷くことができなかった。  ウサギたちの命を救うために躍起になっていたのは、もしかしたら自己弁護のためだった気もしたか らだ。  自分は純粋に命を救って上げたいと思って闘ってきたのだろうか? それとも、取り返しのつかない 自分の失敗を、穴のあいた袋から溢れる水を必死で両手で抑えようとするように足掻いていただけでは ないのか。  苦しい思いに眉をしかめたとき、その手をフェイがギュッと握った。 「そんなに嫌なら、こんな仕事やめれば?」  思いがけない言葉に、ローズマリーはフェイの顔を凝視した。  まっすぐに自分を見る目に、だがいつもの柔らかい笑みはなかった。  感情を読み取らせない無表情が、自分の衝撃を受ける顔を見つめていた。 「……え?」  しっかり聞こえたはずのフェイの言葉に目を見開いて問い返す。 「だから、辞めればいい。だってローズマリーは医者になるんでしょう。命を救うのが仕事であって、 こんな風に命を弄ぶことではないはず」  命を弄ぶ。  その言葉に強く殴られたかのような衝撃に襲われる。  頭から血が下がって、自分の顔が蒼白なっていくのに気づいた。  ローズマリーはくらりと回る視界に額を手を抑えると、吐き捨てるように言った。 「弄んでなんていない」 「…………」  小さいが、鋭く発せられた言葉にフェイが口をつぐんだ。 「弄んでるなんて言わないで。わたしは、自分のできる限りの力と知識をもって救える命を救おうとし ただけ。でも、それにはまだ全てを予測しうるだけの情報が揃っていなくて………」  言いながら、ローズマリーは自分の中でクリアになっていく矛盾に気付いて息を詰まらせた。  生きたいと訴えていた病気の子どもたちの顔。アンネの笑顔。  そんな顔に接していると、なんとしても病気という人間の敵に立ち向かって打ち負かしてやりたいと いう闘争心にも似た力が湧いてくる。  だが同時にそれが人間のエゴなのだという結論が自分の中で下されるのだ。  人間よりも遥かに強力な生命力を持って原始から生き抜いてきた細菌やウイルスを、人間ごときが殲 滅することなどできるのか? いや、その権利があるのか?  殲滅できると思っているそのおごりが、より大きな災厄をもたらすことはないのか?  知識としては受け入れた考えがあった。人間を含めた生物が、ここまで多様な姿形をもち、種として の生きる力を持ったのは、細菌やウイルスとの接触があってこそだと。  現実に人間の腸内には数万という数の細菌が住み、その腸内細菌によって生かされていると言っても 過言ではないのだ。  だがだからといって、苦しんで死んでいこうとしている子どもたちを見殺しにすることはできない。 できる限りのことをしてやりたいと思うのが普通なのだ。  そのために動物実験も必要不可欠なのだと、科学者として心得ているつもりだった。  だがその思いが揺らいでいく。  動物実験は不可欠だ。だが、やはりこそに動物実験だから、少しくらいの不確定要素があっても勢い でやってしまえという気持ちがあることは事実なのだ。  遺伝子組み換えはその顕著な例だろう。  遺伝子一つ一つがどんな働きをするのか、確かなことは分かっていない。  ある一定のコドンがもつ働きが一つであるとは限らないからだ。だから、その働きを調べるためにノ ックアウトマウスを作る。人為的にある一定の働きをもつ遺伝子の発現をおさえてしまうのだ。  その結果、どんな作用がでるのかを観察することで知るのだ。  結果、生まれつき目が見えずに生まれてきたり、肢が生えずに生まれてくるマウスをつくることにな るのだ。  人間では決してやることのない実験を、動物だからいいだろうと使用する。  人間では試せないからこそ、動物に肩代わりしてもらうしかないのだが、だがそこに人間のおごりが 見え隠れする。  混乱し始める思いに頭痛を感じてローズマリーはこめかみに指を当てる。 「……マリーの動悸を疑っているわけじゃないよ。マリーが一生懸命なのは分かってる。でも、俺は科 学の危うさを感じることがあるから……」  思いがけずに強い拒絶の反応を見せられて言葉を濁したフェイが言う。  フェイの言っていることは理解できるのだが、理解したくないというのがローズマリーの正直なとこ ろだった。  認めてしまったら、自分のやることに自信が持てなくなってしまう。 「ねぇ、フェイ。もし自分の遺伝子の中に将来病気になることを示す証拠があったら、なんとしてもそ れを書き換えたいと思わない?」  俯いたまま、顔色の見えないローズマリーが言う。  それにどう答えたらいいものか分からない顔でフェイが言葉を探す。  だがどうせローズマリーの期待通りの答えなど自分は持っていないのだと、フェイはため息をつく。 「今聞かれても分からないよ。でも、俺は昔から癌なんかの病気になっても、何度も腹切って病気と対 決するような生き方はしたくないって思ってた。それよりも、与えられた命の期間を意味あるものにす る生き方をしたい」  クオリティー・オブ・ライフか。  そんな言葉があるとはフェイは知らないだろうが、本質的な部分での思いは、考え続けてきたフェイ には分かっているのだろう。  ローズマリーは苛立った自分の気持ちを落ち着けるように目を閉じると、口元に笑みを浮かべた。  こんなことでフェイと争っていても仕方がないのだ。疲れて自分の中で抱え切れなくなった思いをぶ つけてもフェイにはいい迷惑だろう。それに、さっきのフェイの言葉にしろ、自分が思うほどの意味は 含まれているわけではないのだから。 「だったら」  あえて笑みを浮かべたローズマリーが言った。 「あなたは子どもの遺伝子を調べて選別するようなことは大嫌いでしょうね」 「ああ、出生前遺伝子診断か。……好きじゃない」 「わたしもよ」  命の価値とはなんなのだろう。  そんな疑問が過ぎったが、ローズマリーは考えるのを止めた。  どうせ答えはでないのだ。こんな疲れた脳と精神でまともな答えがでるとも思えない。 「……疲れてるみたいね」 「休めよ。指示してくれれば、俺が後はみるから」 「うん。ありがとう」  自分の横にあるイスを示して言うフェイに、ローズマリーは頷いた。  早くこの事態から抜け出したい。たとえそれが逃げなのだとしても。  ローズマリーはイスに座って机に突っ伏し、髪を撫でてくれるフェイの手の平の優しさを感じながら 思った。
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