第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を


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 顕微鏡を覗いて息をつめて操作を続けていたローズマリーが、ホッと息をつく。
「さすがだな」
 小さな卵子の中にα-グルコシダーゼ人工遺伝子を組み込んだDNAを注入し終えたローズマリーを、
横からカルロスが賞賛の声で讃える。
「これで授精卵完成。ウサギの卵管に着床させればポンペ病の子どもたちを救う乳を出すウサギになる
ってわけだ」
 ずっと顕微鏡を瞬きもせずに覗いていたのだろう、ローズマリーが肩の荷が下りたという様子で首を
回す。
「これで苦しむ子どもたちが一人でも多く救われるなら、こんなにやりがいのある仕事はないわ」
 疲れが浮ぶ目元に笑みを浮かべてローズマリーが言う。
「ああ。幼児や乳児が発病すれば2歳までに確実に死を迎える恐ろしい病気がポンペ病だ。この前患者
の子どもたちを見てきたが、一日も早く救ってやりたいって思ったよ。人工呼吸器をつけてて、肺に溜
まった粘液を人工呼吸器で吸い取るんだが、苦しそうに咳き込むんだ。グリコーゲンが代謝されないで
蓄積してしまう病気。だから、ウサギの乳を使って分解酵素を作る前駆体を体に入れてやる」
 カルロスの目には、正義感に溢れた強い力強さが溢れていた。
「今度わたしもお見舞いに行きたいわ」
「わかった。一緒に行こう」
 出来上がった授精卵を保存し、立ち上がったローズマリーは微かに聞こえた携帯のバイブ音に気付い
て顔を上げた。
 音の発生源はカルロスの服の胸ポケットだ。
「いいの?」
「ああ。メールだから」
 いつもは遅くまで研究所に残っている様子のカルロスが、今日はすでに帰り支度で自分の横にいる。
「これからレイリとデート?」
 このところローズマリーも忙しさにかまけて電話もしていない親友を思って、カルロスを見る。
「まあね。忙しい忙しいってばかり言ってたら、会わないまま1ヶ月なんてあっという間に経ってしま
う。でもそれを言ったら喧嘩になってね」
「そりゃ、怒るわよ」
 明らかに恋人よりも研究優先だろうカルロスを見て、ローズマリーが苦笑する。
「こっちは忙しくて頭の中は恋人のことよりもウサギや病原体や患者のことで一杯だけど、レイリにし
てみたら、頭の中の半分以上はあなたのことで一杯のはず。残りはバレエとしても、バレエのレッスン
以外の時間はいつだってあなたのことを考えてるのよ。あの子にとっての会えない一ヶ月は、とてもあ
っという間なんて言えない、焦れて焦れてしょうがない苦しい一ヶ月でしょうからね」
 人のことは言えない生活を送っているローズマリーだったが、親友の想いを思って代弁する。
 ローズマリーにしたところで、レイリのそんな恋に焦れる想いが実際に痛いほど分かるという性質で
はない。はっきり言ってカルロスの思いのほうが自分のことのように実感できる。
 恋すると涙腺なんて壊れちゃったのかと思うほどになるのよ。心はいつでも切ない雨でびしょ濡れ。
彼を思うだけで苦しくなるんだから。繋いだ手のぬくもりや胸の鼓動を思い返して自分を暖めてあげな
いと凍え死にそう。
 そう言って嘆きの電話で訴えられるからこそ、ローズマリーも想像で女心を思いやることができるだ
けなのだ。
「まぁ、わたしにも女心は難しくて分からないけど」
 ローズマリーの忠告に渋い顔をしていたカルロスだったが、あっけらかんと言うローズマリーを見下
ろして思わず失笑する。
「恋する心よりも、ミクロン単位で授精卵作ってるほうが遥かに肩にかかる重さは軽いよな」
 珍しく弱音を吐くカルロスに、ローズマリーは同意はしたが、その肩を気合をいれるようにギュッと
掴む。
「分かるけど、そういって諦められたら困るのよ。レイリはわたしの親友ですから。ちゃんと幸せな恋
人気分を堪能させたあげて」
「善処します」
 生真面目に目を瞑ってうなずくカルロスに、ローズマリーがほほえむ。
 研究所の更衣室の前で手を振ってカルロスと別れたローズマリーは、自分のポケットでも携帯がなり
始めたに気づいて取り出す。
 そこに並んだ文字に、今度は自分の番かと苦笑する。
「はい」
「ローズマリー? 俺だけど」
 フェイの元気に溢れた大きな声に、思わず携帯を耳から離して顔をしかめるローズマリーだった。



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