第五章 素質ゼロ




 レイチェルが席をはずした瞬間から、アンネの頬がピンク色に染まり、病気があるなどとは考えられ
ないほどに輝く。きれいな少女という名の花が芳しい香りを放ちながら花開いた瞬間だった。
「その髪留め、かわいいね」
 もちろん髪が抜け落ちているために直接髪につけているわけではない。頭に巻いた水色のバンダナの
淵に止められた細かい細工の蝶の髪留めから、宝石に似た輝きを放つガラス玉がいくつも下がっている。
中国の王妃が身につけていそうな装飾品だ。
「これね。ママが買ってくれたの」
 気恥ずかしそうに指先でガラス玉を弾いて見せたアンネだったが、似合う? と尋ねるように肩を揺す
ってジャスティスを上目遣いで見つめる。
 それに気付いたジャスティスも、愛しい妹を見つめるように微笑む。
「さすがぼくのお姫さまだね。すごく似合ってる。世界一かわいい」
 その照れのないストレートな褒め言葉に、アンネの顔が真っ赤に染まる。
 ジャスティスはその顔に笑顔を向けながら、その実違うことを考えていた。
 あの姉に許せないと言わせたアンネの母が娘に会いに来たらしい。
 そのせいなのか移植前に見ていたアンネの顔よりも、子どもらしい世界を信じきった穏かさが見える。
強がりのしっかり者の姫から、甘えん坊の無垢な姫になったような変化だった。
「ねぇ、ジャスティス。ローズマリーは元気?」
 不意にそのアンネの笑顔の輝きが翳り、首を傾げる。
「え? 姉さん? 元気だけど、ここに来てない?」
 ジャスティスは思ってもみなかったアンネの言葉に目を丸くする。
 あんなにアンネ、アンネと片時も忘れられない様子だった姉が、ここに来ていないとは予想だにして
いないことだった。
「うん。ここ3日くらいかな。始めはママが毎日来てくれてるし気付かなかったんだけど、ずっと一緒
にいて励ましてくれたローズマリーだから、ママに紹介したいと思ったんだけど、このごろ全然来てく
れないから。病気にでもなっちゃったのかなって思って心配してたんだ」
 そういって俯いたアンネの額でガラス玉が揺れる。
 こんなにかわいい子に心配させて、何やってんだか、あの姉さんも。
 同じ家に住んでいるとはいっても、生活のサイクルも違えば、毎日会話を交わさないと落ち着かない
というほどに仲がいいわけではないので、ジャスティスも思い返せばここのところ言葉を交わしていな
い現状に気付く。
 毎日家のどこかで気配を感じて、帰ってきていることを確認しているというだけだ。
「ローズマリー、忙しいの?」
 アンネが俯いたまま、何かを探るように問い掛ける。
「う〜ん。まあ、忙しいといえばいつも忙しい人なんだけどね」
 ジャスティスはアンネが求める答えがわからずに、ガラスの向こうの顔を凝視する。心配そうに考え
込むアンネが、自分に中にある葛藤を紛らわすように、指で髪飾りを弄る。
 アンネにとって、ローズマリーが母親が側にいてくれない間、何よりも大きな支えであったのはジャ
スティスにも理解できていた。それはただの医者としてではなく、自分を理解してくれる友達として。
 その友だちが顔を見せなくなることに、アンネは不安を抱えているのだ。
 ピンときたジャスティスは、アンネに横顔を見つめながら優しく話し掛けた。
「姉さんはね、いつもアンネのことを話しているんだよ。あんなにカワイイ子はいないって。姉さんは
とてもアンネのことが好きなんだよ。きっと会えないことを寂しく思ってると思うよ。十秒に一回くら
い「アンネどうしてるかな?」って会いたくてウズウズしてるよ」
 面白おかしく身振りで話してみせるジャスティスに、アンネの顔に笑みが戻る。
「本当?」
「うん。本当」
 その一言でアンネの顔にあった不安が消える。
 今のアンネにとって、心の支えであったローズマリーに嫌われたかもしれないという思いは、母親が
側にいてくれるとしても大きな不安だったに違いない。
 これは一言姉さんに忠告しないとならないなと、ジャスティスが思っていたときだった。
「ところで、ジャスティスはどうして元気ないの?」
 自分の心配が解消されてすっきりしたらしく、アンネがまっすぐな目でジャスティスの目を覗き込ん
でいた。
「え? ぼくが元気ないように見える?」
「うん……。わたしのナイトが自慢の剣を無くしてしまって落ち込んでるみたいに見えるかな」
 鋭い観察眼と子どもらしからぬ的確な表現に閉口しながら、ジャスティスは誤魔化すように笑い声を
上げてみせる。
「そ、そうかな?」
 落ち込みを表に出しているつもりはなかったが、図星をつかれてジャスティスは、うまい言い訳を見
つけられずに天を仰いだ。
 あの両手を血で染めたイタズラ事件以来、ジャスティスはアンネのように言い知れぬ不安を抱え続け
てきたのだ。
 血液恐怖症。そんなことは前から分かっていたことだったが、医学を志したときから、気にしつつも
目を背けて来たことだったのだ。もしかしたら、突発的な事態でなく、勉強として、仕事としてなら血
を見ても平気でいられるのではないかと楽観的に考えようと自分に言い聞かせていたのだ。
 だが現実は全く異なり、死体から溢れる血にパニックを起して倒れただけだったのだ。
 今や医学部中の誰もが知る珍事件と化している。
 あの秀才くんは血が苦手らしいよ。そんなんで医者になるつもり?
 陰で囁かれている言葉も知っている。
 人にどうこう思われることが辛いのではない。そんな言葉を聞くたびに反論できずに、かえって納得
していく自分が怖かったのだ。
 自分には医学を志す才能も資格もないのだと。
 その思いを克服しようと勉強に打ち込もうとしても、集中すらできずに、気がつけばベッドに寝転が
っている自分に気づく。
 そして思い返しているのだ。あのイタズラのときにどう対処すれば正解だったのかを反芻しながら、
決して思い描くような正解を演じる自分などどこにも存在しないのだと落胆を繰り返す。
 こんな自分になりたかったのではない。思い描くのは、もっとクールで自信に溢れていて。
 そう、レイリに彼のカルロスのような男になりたいのだと、自分で気付く。
「ねぇ、ジャスティス。何かあったの?」
 アンネの前で物思いに耽っていた自分に気づいて、ジャスティスは我にかえると微苦笑を浮かべた。
「……うん。恥ずかしいんだけどさ、ぼくって血が苦手なんだ」
 自分に中に溜まった澱を吐き出すように素直に言葉にすると、それだけでジャスティスの心が少し軽
くなる。
「血?」
 真剣な目でみつめてくれるアンネに、目の前にいるのが酷く歳の離れた女の子だと理解していながら、
自分を誰よりも理解してくれる理解者の前に立ったような安心感が生まれる。
 それは、アンネが決して自分を否定したり見下したりしないと分かっているからかもしれない。信頼
感とでもいうのか。
「昔から血が怖いんだ。子どものころは自分の鼻血も止められなかったんだ」
 おもしろい自分の失敗談を話すように言えば、アンネが肩をすくめて笑う。
「じゃあローズマリーに止めてもらってたの?」
「そう。頭をガシって抱えられて、上を向こうとするぼくの頭を下向きに固定するんだよ。出血した血
を上を向いて止めようとするのは間違ってるからね。喉を下りて胃に溜まれば吐いてしまうことだって
ある。それを知ってたから、死んじゃうよぉ〜〜って叫んでるぼくを抱えて鼻を痛いほどの力で圧迫し
て止血してくれるの」
 子どもの頃は鼻の粘膜が弱かったのか、頻繁に鼻血を出したものだった。寝起きにマクラが真っ赤に
染まって頬全体が乾いた血で覆われていて、叫び声をあげた記憶もある。
 その度に、姉は嫌な顔一つせずに助けてくれた。死んじゃうと叫ぶ自分に、大丈夫だからという顔で
笑って抱きかかえてくれるのだ。
「なんか想像できるな、その風景」
 アンネの素直な感想に、思わず苦笑を浮かべる。
 今は鼻血くらいは自分で止められるし、ちょっと包丁で手を切ったくらいなら「痛いなぁ」と文句は
言うが自分で治療することもできる。
 だがそれくらいができる程度では、医者は勤まらない。
「それってそんなに落ち込むことなの? 血が嫌いな人なんてたくさんいるでしょう?」
「うん、まあね。でも、ぼくは姉さんと同じ医学部に通ってるんだ。お医者さんになるためにね。血が
怖いお医者さんなんていないでしょ?」
 自然と言いながら、自分の顔が情けなく眉を下げた苦笑いに変わっていくのが分かる。
 姉さんには最初から医者になる適正があったといえる。子どもの頃から手のかかる自分という、面倒
をみなければならない患者候補がいたのだから。
 だがそれにどっぷりと甘え続けてきただけの自分は、やってもらうことになれ、誰かに助けの手を差
し伸べることに余りに慣れていない。
 こんな病気と闘っている女の子に自分の弱さを晒して重荷を負わせてしまうことが嫌だった。それで
もジャスティスの肩は自信をなくして下がっていく。
 ガラス壁の向こうのアンネが沈黙しているのに気付いて顔を上げれば、意外にも真剣に何かを考えて
顎に指を当てて考え込んでいる姿があった。目を上向かせてあれこれと思案している。それは頼られた
お姉ちゃんが弟のために知恵を絞っている姿にも見えた。
「ジャスティス。わたしもね、昔よく転んで膝を怪我してばっかだったの。それでよくママに叱られた
んだよ。いつも大泣きしてたからね。それでね、一度ママに大泣きしてるくらいなら、泣かないでまっ
すぐおうちに帰ってきて消毒してくださいって言ってみなさいって言われたの。それはね、二歳くらい
の頃のことだったんだけど、なんとなくわたし納得したの。痛い痛いって泣いてトロトロ歩いてたら、
それだけ長い間痛い思いをしなくちゃいけないんだって。それだったらなるべく早くおうちに帰ってき
てママに見てもらったほうがいいんだって」
「……うん」
 ジャスティスはアンネが導く結論の先が気になった頷いた。
 その反応にアンネは笑顔を見せる。
「それでね、次に怪我したときには泣かないで家に帰ったの。でもね、夕飯の用意をしていたママの後
ろで泣かないで怪我しちゃったから見てって言ったら、振り返ったママにまた叱られちゃったの。どう
して泣かなかったのって」
「え?」
 母親の矛盾した言動にびっくりして目を見開けば、アンネが話に乗ってきてくれた様子に笑みを深く
する。
「わたしね、ただ転んだだけじゃなかったの。道に落ちてたカミソリの上に転んじゃってたの。膝の上
にはぱっくりと裂けた傷が三本。そこに砂が入り込んでスゴイことになってた。今も痕になってるけど
ね」
 それはアンネの母親もびっくりしたことだろう。娘が血だらけで帰ってきたのだ。しかも自分の言葉
を守って痛みに耐えた気丈な顔をして立った姿であったのだから。
「わたしはね、絶対泣かないって心に決めてた。そうしたらね、痛いっことで頭が一杯にならなかった
んだ。我慢するための心の隙間ができてた。泣かないで偉かったねって褒めてくれるママの顔を想像で
きるくらいに余裕だった」
 自慢げに笑うアンネに、ジャスティスも納得してうなずく。
 アンネが強い心を自分で育てた瞬間だったのだ。そうして我慢するための力を少しづつたくわえ、今
の苦しい治療にも耐えているのだ。
「ジャスティスはもう、血なんて怖くない。そう決めちゃえばいいんだよ。全然平気。平気かもしれな
い、じゃないんだよ。血なんて赤いだけのツバみたいに体から出てくるだけの水だって」
 笑顔で言ったアンネが、ジャスティスに向ってガッツポーズでがんばれと励ましてくれる。
「うん」
 ジャスティスも、体は小さいがその中にある精神的にお姉さんのアンネの心強い言葉に素直に頷く。
「あら、アンネのお見舞いに来てくれたんですか?」
 不意に後ろから声を掛けられ、ジャスティスがイスから立ち上がる。
 そこにいたのは、アンネの母親だとすぐに分かる顔立ちの似た女性だった。花を活けた花瓶を手に、
娘の友達を嬉しそうに迎えている。
「はじめまして、ジャスティスといいます」
 そう言って頭を下げれば、すでに名前は知っていた顔で頷いた母親が、ガラス壁の前に置かれた小さ
なテーブルの上に花を置く。
「お名前は娘から。初恋の彼氏だっていうからどんな方かと思ったら、本当にハンサムでびっくり」
 笑顔でそう言って娘を振り返ってみた母親に、ガラス壁の向こうでアンネが言う。
「わたしのジャスティスなんだから、ママ盗らないでね」
「はいはい」
 見つめあったアンネと母親の間に、言葉以上の心の通い合いがあるのが側で立っているだけで感じら
れた。アンネは目の前の母親を誰よりも信頼して愛し、母親もアンネのために命さえ投げ出すほどの気
持ちで精神的に抱き寄せている。
「アンネに、昔、膝をカミソリで切る怪我をしてお母さんに叱られたって話を聞いてたんです」
 ジャスティスが言うと、恥ずかしそうに母親が口に笑みを浮かべて、喋ってしまった娘をコラっと見
据える。
「すごい怪我だったでしょう? そんな怪我を見て、気を遠くなりませんでしたか?」
「そうね」
 ジャスティスの問いかけに、アンネの母が笑う。だがアンネを見つめると口を開いた。
「でもびっくりすると同時にスイッチが入った感じだったわね。自分がなんとかしないといけないって。
もう必死だったわ。痛いって泣かれようが自分が娘を助けなければならないって。包帯を巻き終わった
後で、脱脂綿にしみこんだ血の量を見て貧血を起したけれど」
 昔を思い起こして懐かしそうに語る母親の横顔を見つめながら、ジャスティスの中で響いたことがあ
った。
 自分が助けるんだと思う必死な覚悟。
 それが自分には欠けているのではないだろうか。そしてそれがアンネの言う、もう大丈夫だと自分に
言い聞かせる動機になるのではないかと。
 姉のローズマリーには、常にそれがあったから、あんなに強くあれるのではないだろうか。自分が弟
を助ける存在でなければならないという覚悟と必死さ。
 ジャスティスの顔に力が戻って引き締まっていく。
「ありがとうございました」
 予想外の感謝の言葉に、きょとんとした顔の母親がジャスティスを見る。
 それに頭を下げ、ジャスティスがアンネに手を振る。
「また来るよ。アンネ、今日は話聞いてくれてありがとう。さすがはぼくのお姫さまだね。すっごく力
が出てきた」
 アンネが頬を染めながらも笑顔で頷く。
 やっとナイトらしい自信を持って歩くことができる気分だった。


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