第五章 素質ゼロ



 額の痛みと同時に冷たいタオルを変えてくれる柔らかな女性の手の感触を感じる。
「姉さん?」
 いつも子どもの頃から熱を出すたびに、一晩中ついていて看病してくれたのが姉であるローズマリー
だった。
 自分の額の熱で温くなったタオルを氷水で絞って冷してくれる。その一瞬の気持ちよさと安心感が体
の中に染み渡る。
 だがどこかいつも感じる姉の気配とは違う気がして目を開けたジャスティスは、姉ではない、もう少
し幼いイメージの女の顔を見つめた。
 ぼんやりと寝ぼけた眼で見つめていたジャスティスの顔が、一気に目が覚めた様子で覚醒してベッド
から跳ね起きる。
 だがその瞬間に襲った額の激痛に顔をしかめて手で覆った。
「そんなに慌てて起きないで。頭を打ってるから一応病院に運ぶって先生が言ってたから」
 小さな手が額を覆ったジャスティスの手を掴み、優しい仕草でベッドに横たえてくれる。
 額には手の平で確認できるほど大きなコブができている。
「ぼくは、えっと………」
 言いかけたジャスティスが、甦った記憶に息を飲む。
 突然溢れてきた血と、その血に染まった自分の手。すでに腹まで開かれていた遺体から溢れた血。
 瞬時に顔から血の気がひいたジャスティスに気付いた女が、額を覆っていた手を掴むと自分に向けら
れたジャスティスの目に微笑みを見える。
「大丈夫だよ」
 自分よりも年下なのかもしれない女の笑みに、だがジャスティスは惹きこまれるように見入った。
 爽やかな温かさを与えてくれる秋の高い空に上る太陽。
 そんな生命力と慈愛に満ちた笑みが、冷え切ったジャスティスに心を包み込む。
 女が汗で張り付いた髪を撫でて梳かす。
 その指が包帯で覆われているのに気付いたジャスティスが、その指を目で追う。
「君も怪我を?」
「あ、これ?」
 女は誇らしげに指の包帯をジャスティスの前にかざす。
「これは勲章なの。試合に勝った証」
「試合?」
 女が「うん」と大きく頷く。
 だがその続きを聞くことはできなかった。
「ジャスティスが頭打って倒れたって?」
 白衣を着た医師が看護師を数名連れて現れる。
「あ、先生」
 脳外科の授業で見た講師の顔に、ジャスティスはベッドから起き上がろうとして押しとどめられる。
「あのクソガキどものイタズラには困ったもんだ。感謝して丁重に扱うこともしらずに、病院の輸血パ
ックを盗み出して頚動脈に仕込んどいたんだっていうんだから」
 ジャスティスの目に光を当てたり、吐き気の有無を尋ねながら医師がいまいましげに呟く。
 それを聞きながら、ジャスティスも冷静に考えれば遺体から血が出るはずがないことくらい見抜けそ
うなものなのにと、胸の内でため息をつく。
「たぶん大丈夫だと思うが、念のためにMRIでも撮ってもらっとけ。大事な脳みそだからな」
 冗談めかしてジャスティスの肩を叩いた医師に、礼をいいつつジャスティスが頷く。
 だが不意に真顔になった医師がジャスティスの目を覗き込む。
「それにしても、おまえ血がダメだっとはな」
「………」
 思わぬ形で暴露されたジャスティスの弱点に、反論一つできずに布団の中で固まる。
 子どもの頃から、ジャスティスは血が苦手だった。
 注射では必ず針から目を背けていないと背筋を寒気が走って吐きそうになるし、採血では採血管の中
に血が噴出すのを見ただけで貧血を起したほどだった。自分の鼻血でさえ身動きできなくなり、姉に止
めてもらう子どもだった。
 今はそこまでは酷くはないが、切り傷を開いて消毒することができるかと言われれば否だ。
 そんな人間が医師になれるのか?
 そう言外に糾弾されているようで、ジャスティスは一言も言葉を発することができずに医師の顔を見
上げる。
 だがジャスティスの不安を感じ取ってか、医師は笑みを見せて額のコブを指で突く。
「ま、そんな人間も実は医者には多い。優秀な外科の教授も、レジデントのときに初めての手術見学で、
動脈血を顔に受けて失神したって有名だしな」
 秘密の暴露を楽しむように笑う医師に、ジャスティスの顔にあった緊張がわずかにほぐれていく。
「医者になったって、子どもの頃から潜在的に埋め込まれていた、いろんな恐怖症があるもんだ。でも、
克服できないはずはない。おまえも子どもの頃は暗闇が怖かっただろう? でも今は平気で夜も出歩け
る。なぜだ?」
 尋ねられたジャスティスが昔を思いながら口を開く。
 夜に家の中の廊下を歩くことさえ怖くて、電気をつけまくって姉に怒られた記憶が甦る。闇を恐れな
くなったのはいつ頃からなのか。さだかではないが、あの頃に持っていた病的ともいえる恐怖心は、今
はない。
「お化けなんていないって分かったから。殺人鬼もそうそう徘徊しているものでもないし」
 ジャスティスの答えに、医師と看護師がクスクスを笑いを漏らす。
「そうだ。そうやって真実を学習していけば怖いものが減っていく。ただ怖いと足を竦めているのではな
く、対処する方法を模索するようになる」
 医師に助け起され、ジャスティスはベッドから下りると看護師に伴われて病院へと連れて行かれるこ
とになった。
「俺の心理カウンセラーもなかなか様になってただろ?」
 別れ際にそう言った医師に、ジャスティスが笑いかける。
「おまえみたいに弱さがある人間のほうが、いい医者になれるんだよ。しっかり勉強しろよな、ルーキ
ーくん」
 手を上げ、気さくに笑って歩き去っていく医師に頷くと、ジャスティスは辺りを見回した。
 いつの間にか、最初に目を覚ましたときに側にいてくれた女の姿は消えていた。
     



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