第五章 素質ゼロ

     
 授業終了のチャイムと同時に、まだ講師の言葉が続いているにも関わらずに学生たちが席を立ち始め る。 「では今日はここまで」  黒板に書き込みをしていた講師も途中で止めると、すでにだれた雰囲気の教室を見回し、見慣れた光 景に失望するでもなく立ち去っていく。  ジャスティスは講師が壇上から降りるのを待って教科書とノートを閉じ、リュックの中にしまった。  医学部という、後には人の命を扱う学問を学ぶ場所であるここに、ジャスティスは少なからず大きな 期待を抱いてやってきた。熱く燃えて人の命を救うために命をかけようという心積もりで集まった若者 でいっぱいなのだろうと。  そしてそんな中では自分など、安易にこの道を選んだほうで、そんな中でおちこぼれることなく気合 を入れてやっていかなければと思っていたのだ。  だがどうだろう。来てみればどこの学部とも変わらない、勉強よりも色恋や遊ぶことが優先の学生で 溢れている。講師の質問にも、まともに答えられる者の方が少ない。  だから自然、真面目に講義を受け、予習復習を欠かさないジャスティスは優等生に仕立て上げられる。 あっという間に今期学生のルーキー扱いだ。  そしてそんな学生は、おもしろく思わない輩のいいからかいの対象ともなる。 「ジャスティス」  席を立って講堂から出ようとしていたジャスティスに、声をかけてきたのは三人組の男たちだった。  またかと胸の内で舌打ちしながら、ジャスティスが振り返る。 「何? また合コンのお誘い?」  つい先日も強引にジャスティスを合コンに連れ出した三人は、酒を飲ませて酔い潰そうと画策したの だった。  だが血筋なのか、顔に似合わず酒に強いジャスティスに、潰そうとした三人の方が先につぶれてしま って恥をかいたという一幕があった。それ以来、なにかとジャスティスに絡んでくるのだが、今回はど んな思惑があるのかとため息が出る。 「違う違う。おまえと行ってもつまんねぇもん。女はみんなおまえに群がるし、酒は強いし」 「じゃあ、なに?」  面倒そうに返事をするジャスティスに、一人がムッと顔をしかめる。  だがそれを他に一人がとどめると、取ってつけたような笑みを浮かべてみせる。 「今回はすごく真面目におまえに頼みがあってな。優秀なおまえに教えを請いたいと思って」  いやに卑屈な笑みを見せた男がジャスティスの腕をとる。 「今日の授業でやったの、あれ……」 「高カロリー輸液の使用とカテーテルの挿入法」 「そうそう、それ」  明らかに分かっていない顔で頷いた男が、ジャスティスに肩をがっちりと押さえ込むようにして抱く。 「あれは首の鎖骨化静脈から入れるんだろ?」 「鼠径部の静脈から入れてることもある。高カロリーゆえに血管が傷む可能性があるから心臓に近いと ころから入れる」 「うんうん」  まるでジャスティスの答えなど聞いていない顔で頷いて、男が仲間に目で何かの指示を出している。  絶対に何かの思惑があるのは見え見えだ。 「で、それがどうしたの?」  男の腕から頭を抜こうと力を入れたジャスティスだったが、逃がすものかと力をこめてくる男の悪意 のある目にぶつかるだけだった。 「俺たちバカだからさ、鎖骨化静脈とか言われてもどこにあるのかわからないんだよな」  にやりと粘ついた笑みを見せていう男が、教室の一つにジャスティスを引っ張り込む。  入った瞬間にまずジャスティスの鼻をついたのが、濡れた獣の毛のような異臭だった。  タイル張りの床の室内には、ストレッチャーに乗せられた、グリーンのシートに覆われたものがあっ た。  それが目に入った瞬間に、ジャスティスは自分の喉がゴクっと音をたてるのを聞いた。  遺体だ。おそらく上級生の人体解剖に使われている献体の一つなのだ。  それがわかった途端に体が強張り、足が動かなくなる。 「どうした、天才くん。ぜひ教えてもらいたいんだよ、バカな俺たちにも分かるように」  ジャスティスを引きずるようにして進んでいった男が、仲間に顎で合図する。  そしてそれを受けてシートがめくられる。  やはりそこにあったのは、人間のすでに腹が開かれた状態になった解剖体だった。  青白い肌で内部を晒すそれは、明らかに遺体でありながら、肌に生える産毛さえ見える生身の肉体で あった。 「ほらちょうどよく頸部の解剖が始まってるじゃん」  身を硬くして後退さろうとするジャスティスを、背中から押さえ込んだ一人が耳元でささやく。  そして一人が手袋をすると切り開かれた首の皮をめくってみせる。 「で、どれが鎖骨化静脈だって?」 「………そんなところじゃない。鎖骨の上」  目を反らそうとするジャスティスの顔を押さえ、背後の男が愉快で堪らなそうに笑いを漏らす。 「え? 口で言ってもわからねぇよ。ちゃんと教えてくれよ」  そして残っていた一人がジャスティスの腕をとる。 「や、やめろ!」  胸の内で跳ね上がる心臓に吐き気を催しながら、ジャスティスは抵抗して捕られた手を離させようと もがいた。  だが体も押さえつけられた不自由な体勢で、自分よりも体格のいい男に逆らえるはずもない。  手が献体の皮膚に触れる。  ジャスティスの喉がゴクっと上下に動く。  冷たく粘る液体で覆われた皮膚が指に触れる。  ジャスティスは頭の中で今感じている恐怖を消化しようと悪戦苦闘していた。これは遺体は遺体でも、 医学の発展のために体を差し出してくれた方の貴重な体なのだ。自分もいずれそうした体で様々なこと を学ばせてもらわなくてはならないのだ。気持ちの悪いことなどなにもない。ただ、すでに活動を停止 しているだけで、自分の体の中にも全く同じものがあるのだ。しかもその活動によって貴重な命を永ら えているのだ。感謝こそすれ、気持ち悪がることも恐怖を感じることもあるはずもない。  閉じていた目を開け、遺体をじっと見つめる。  切り開かれた首の筋肉の下に、頚動脈のチューブにも似た血管が見えていた。  心臓から送り出された血が、脈動とともに頚動脈の中を這い上がり、脳内に必要な酸素と栄養素を届 ける様が頭の中で展開される。  恐ろしいことなど何一つない。  ジャスティスの体の中で心臓が早めていた鼓動を次第に緩やかに変えていく。  だがそんなジャスティスの変化を見越した三人が、次の手にでる。  ジャスティスの見つめる先で、頚動脈から真っ赤な血が溢れ出した。 「ば、バカな!」  死体から血が噴出すなどということがあるはずもない。それは頭ではわかっていても、潜在的な恐怖 と混乱がジャスティスを襲っていた。 「ほら、止血しないと死んでしまうぞ」  ドンと男がジャスティスの背中を押す。  ジャスティスの手が遺体の首に押し付けられ、その手を真っ赤な血で染める。  恐怖が一気にジャスティスの体の中を這い上がり、悲鳴とともに意識が混濁する。足から力が抜け、 白目をむいたジャスティスが床に倒れる。 「は、倒れやがった!」  ジャスティスの耳に届く嘲笑の言葉と笑い声。  タイルに打ち付けた額が、痛みを発しているのを感じながらジャスティスは意識を失った。
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