第四章 命の期限



 病院の中庭のベンチで腰を下ろしたローズマリーに、カルロスが買ってきた缶コーヒーを差し出す。
 そして自分もベンチに腰を下ろしてコーヒーを飲み始めてから、「あ、違うのにすればよかった」
と渋い顔をして缶コーヒーを恨めしげに見る。
「コーヒー、嫌いなの?」
「いや。でも、さっき嫌って程苦いコーヒー飲まされたのを思い出してね」
 そう言ったきり、二人でコーヒーをすすりつつ沈黙する。
 ローズマリーはベンチの背もたれに反り返って座るカルロスの気配を横に感じながら、緑で覆われた
中庭の景色を眺めた。
 それほど広い空間ではないのだが、花々が植えられてキレイに整備された庭は、なかなか見ごたえの
ある庭園風になっていた。
 毎日を閉鎖された白い病棟の中で閉じこもって生活する患者たちには、なによりもの癒しの空間にな
るだろう。
 そう思って見回していたときに、ふと思い出したことがあってローズマリーは口元に笑みを浮かべた。
「なに? どうした?」
 その一人笑いに気がついたカルロスが、ローズマリーに目を向けて問う。
「ん? そういえばこの中庭の秘密をアンネに教えてもらったのが、最初に仲良くなったきっかけだっ
たなと思って」
「秘密? ここにそんなものがあるのか?」
 この会話に関心を持ったのか、カルロスが背もたれから身を起すとローズマリーに尋ねる。
「ええ。ここでね、ドクターとナースが逢引していることがあるの。それも結構大胆に」
 ローズマリーはあの時見た光景を思い返して一人で笑いを漏らす。
 ドクターの上に馬乗りになったナースと、キスの余韻に呆然と見送る若いドクターの顔。
「へぇ。……ここは盲点的な死角になるのか」
 カルロスもあたりを見回しながら応じる。
 かつて自分とアンネが見下ろしていたのであろう病室の窓辺を見上げ、ローズマリーはそれほど経っ
たわけではないあの日のことを懐かしく思い浮かべていた。
 あのとき、自分は小さなアンネとはじめて出会い、年齢以上に大人びた彼女の言動と態度に好意を抱
いたのであった。この子のことは、自分が面倒を見てあげなくてはならない子どもだと見なすのではな
く、対等の一人の人間として接していきたいと思ったのだ。
 それが間違った考えであったとは今も思っていない。
 人間として対等に扱われていることは、たとえ小さな子どもでも敏感に感じ取る。そして自分を見下
げていないと分かるからこそ、アンネも自分に心を開いたのだ。
 だがそれゆえに、アンネの心の中の弱い部分が上げる訴えを、見逃していた気がしてならなかった。
いや、見逃していたのではない。分かってはいたのだが、アンネなら自分でその気持ちに対処できると
信じ込んでいたのだ。
 母親を強く求める気持ち。
 アンネはそれと折り合いをつけていると思い込んでいたし、なによりも、自分がその母親を求める気
持ちの埋め合わせになっているのではないかと甘い考えを抱いていたのだ。
 先ほどまでとは違う種類の苦笑を口の端にのせたローズマリーに気付き、カルロスが横顔を見つめる。
「どうした?」
「……自分の傲慢さに嫌気がさしただけ」
「傲慢?」
 コーヒーの缶をベンチに下ろしたカルロスが、膝の上に肘をついてローズマリーの話を聞く体勢にな
る。その目がどうぞ話して、と促がしている。
 普段のローズマリーなら、こんな感傷的な気持ちを他人に気取られることさえ嫌なタイプだった。だ
が、今は聞いてくれる存在がいることが救いであった。
 それだけ自分の中で溢れる感情を持て余している証拠だった。
「アンネの母親代わりになっているつもりだったのよ、わたしは。そしてアンネもわたしを母親のよう
に慕ってくれていると勘違いしてた。
 あの子の母親って、あんな重病で苦しんでいる娘を放置しているも同然だった。お見舞いにも来ない。
それどころか、新しい夫との生活を優先してアンネを捨てた。熱を出して苦しんでいる夜も、彼女に一
晩中ついて看病してたのも、手を握っていてあげたのもわたし。
 だから、すごく気持ちが通じ合っていると思っていたの。こんなに心からかわいいと思った相手はい
ないくらいに、アンネがわたしの心の中を占めていた。
 でも、後から現れた母親には敵わないんだって思い知らされて。嫉妬してたのよね、わたし」
 小さく笑ったローズマリーが、甘いコーヒーをゆっくりと飲み干す。
 少しの寂しさを滲ませたほほえみが頬に浮ぶ。
 男のカルロスには理解できない感情であった。
 そこまで感情的に人に入れ込むことがないカルロスには、どうしてそこまで他人に感情を移入できる
のかが分からなかった。だが、それが母性というものなのだろうと思うのだった。
「君は、見た目よりも愛情が深いタイプみたいだな」
「その見た目よりってのは余計だと思うけど」
 ローズマリーが片眉を上げて笑ってみせる。
「それは失礼。でもそんなに無私の愛情捧げて、そしてその愛に応えてくれる存在がほしいなら、子ど
もを自分で産めばいいんじゃないのか?」
 カルロスが真っ当な提案であるかのように真顔でいう。
 その顔を見返し、ローズマリーが笑う。
「わたしが? わたしが子どもを産むの? なんだか想像できないわね」
 ありえないと決め付けているように顔の前で手を振るローズマリーに、カルロスが真顔のままで言う。
「そうか? それこそ自分で自分の見た目から似合わないと決め付けているからでなく?」
 その返しに、ローズマリーが笑い顔のままではあったが口を閉ざした。
 まさか自分が子どもを欲しているなどとは一度も考えたことがなかったからだ。
 ローズマリーも真剣な表情に戻ると、自分の内面を透かし見るように心の中に沈む。
「でも、わたしはまだ医者になるっていう夢の途中だし……」
「もちろん今すぐに産めなんて言ってないし、考え込まれても困るけどね」
 カルロスは硬くなった空気を和めるように冗談めかして言うと、顔を上げたローズマリーに言った。
「でもそんなに愛情深く何かを世話できる君だからこそ頼みたい仕事があるんだけど」
「……さっきもそんな事言ってたわね」
 ローズマリーが、一人の友人としてカルロスに相対していた顔からビジネスの顔に変わる。
「ああ。トランスジェニック動物を作る手伝いをして欲しい」
 カルロスのポンペ病とそれに罹患した子どもを救うウサギの飼育の話を聞かされたローズマリーは、
真剣な顔で思案した末に頷いた。
「いいわ。手伝う」
 アンネの顔を浮かべていたローズマリーだったが、その顔の横には今は母親の顔があった。今までの
どこか孤独を漂わせた顔ではなく、母親を溢れる笑顔で見つめるアンネの顔が脳裏に浮ぶ。
 あんな顔をさせて上げられる存在が側にいてくれるのなら、自分が側についている必要はもうない。
 だったら他に自分の手を求めている子どもたちのために働きたい。
 頷いたローズマリーに、カルロスが安堵した顔で手を差し伸べる。
「ありがとう」
 ローズマリーはその差し出された手を握る。
 そして頭上のどこかの病室から自分たちを見下ろしている存在がいるような気がして、病室の窓を見
上げた。
 そこにアンネの「なんだ逢引と違うのか」と残念がる顔を見つけた気がして、ローズマリーは微笑ん
だ。



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