第三章 小さな命




「ようこそ、魔女の館に」
 暗幕に覆われた部屋に足を踏み入れた瞬間、暗闇の中からローズマリーの声がした。
 そしてその顔が、青白い光の中に浮かび上がる。
 ローズマリーが持ったメスシリンダーに満たした液体が、同じく何か透明な液体を満たしたガラスの
器に注がれる。
 するとその液体が蛍光色に発光し始めるではないか。
 ゆっくりとヒールの靴音をコツコツと響かせながら歩くローズマリーが、次の器にも液体を注ぐ。す
ると今度は蛍光の緑色に、次はピンクにと変わっていく。
 真っ暗だった部屋の中が、その妖しいばかりに光り輝く液体に照らし出され、ほのかな光に発光する。
 その美しさにうっとりと見とれたアンネは、目の前に立って見下ろしてくるローズマリーに笑みを向
ける。
 もちろん魔女をきちんと演じきるにはローズマリーは笑い返すべきではないのだが、あまりに無垢に
楽しむ瞳に、惹き込まれるようにして微笑みを浮かべてしまう。
「アンネ姫。わらわへの貢物はどこじゃ?」
 浮んだ笑みをそのままに問えば、アンネがガラスの瓶を嬉しそうに差し出す。
 それを受け取ったローズマリーが、ガラスの瓶を振って中味を確かめると唇の前に翳して舐め上げる
ように舌を見せる。
「これはうまそうな血の匂いだ」
「魔女は血を食べるの?」
「いいや。この美貌を保つために、血の風呂に入るのじゃ」
 蛍光の光の中で目を細めて言うローズマリーに、背後で控えていたジャスティスは本当にやりそうだ
と不謹慎な感想を持ちながら眺めていた。
「でもまだこれでは少しばかり血が足りぬ。そこの若い男の生き血を分けてもらわねばならぬ」
 不意に腕を取られ、ジャスティスが目を剥く。
「え? 聞いてないよ、そんなの」
 だがガシっとローズマリーに頭を掴まれ、ローズマリーの顔が首筋に埋められる。
「ダメ!」
 その迫真の演技に、アンネがローズマリーの腕を引く。
「なぜじゃ?」
 振り向いて歯を剥くローズマリーの口元には、吸血鬼のような牙が二つ見えていた。
 おいおい、魔女で、吸血鬼じゃないだろうと姉に首筋を齧られそうになって肝を冷したジャスティス
は内心で突っ込みを入れる。
「だって、その騎士はわたしの僕だから」
 もう演技ではない真剣な顔で訴えるアンネに、ジャスティスは心の底からがんばれ〜と応援を送り、
ローズマリーはジャスティスの首筋を噛み千切るために押さえつけていた後頭部から手をどける。
「ふむ、そなたの騎士とな。では、代わりにそなたに一つ試練を与えてやるとしよう。もしそれが成し
遂げられたのなら、この騎士はそなたの勇気に免じて助けてやる」
 アンネの気持ちを推し量るように上から見下ろしたローズマリーに、アンネが頷く。
「やる」
 その力強い頷きに凍れる笑みを浮かべたローズマリーがジャスティスを離す。
「ならば展望台のスカイハイまで一人で来るがいい」
「一人で?」
 途端に心細い声を出したアンネに、ローズマリーが頷く。
 今いるのが展望レストランスカイハイの一つ下の階だった。
 部屋を出て目の前の階段を上がってすぐのレストランへは、特に仕掛けも罠もない。
 ただ暗闇を通り抜ける勇気があるか試すだけの通過儀礼に過ぎない。
「できるか?」
 問いかけるローズマリーに、アンネは少しの不安を覗かせてジャスティスを見やる。
「アンネ姫。わたくしのことなど捨て置いてください」
 シナリオ通りに告げたジャスティスだったが、その言葉にアンネが決意を固めて頷く。
「行く」
 それを見届け、アンネの目線に座り込んだローズマリーが手にしていたメスシリンダーの液を移して
黄色く発光する液体を作り、星の飾りのついたガラス瓶に移す。
「これを持って行くがいい。きちんとスカイハイまで来れるか、騎士とともに姫を待つ」
 暗幕を張った部屋から出た三人は、階段の下でアンネを見送る。
「ゆっくりでいい。スカイハイに来るのだぞ」
 演技がかった言葉で喋りながらも、一時とはいえアンネを一人にする不安を拭えずにローズマリーが
言う。
「うん。大丈夫」
 アンネがローズマリーに頷きかけ、ジャスティスに「言って来るね」と声をかけて階段を登り始める。
 そして踊り場を曲がって姿が見えなくなったところで待機させてあるエレベーターに乗り込む。この
エレベーターでアンネの先回りをして迎えるのだ。
「アンネ、大丈夫かな?」
 ジャスティスが魔女メイクをしたローズマリーに言う。
「大丈夫よ。階段を登ってレストランの中に入るだけだもの。勇敢で頭のいい子よ、アンネは」
 そう言いつつも、たった一階を上がるエレベーターの時間がもどかしそうに、電光の階を知らせる明
かりをじっと見つめる。
 エレベーターはそのままレストランの中に通じている。
 照明を絞ったレストランの入り口は、ジャスティスや実習に来ている仲間で南国風にハイビスカスなど
で飾りつけられている。
 その入り口に立ってアンネの到着を待つ。
 レストランの中には、アンネの大好物のチョコレートクレープを作ってお皿の上に盛り付けてある。
 もうすぐ移植になるアンネには、しばらくすれば食べるものも受け付けない試練の時が待っているの
だ。
 その前に、大好きなものを食べて欲しかったし、苦労の末には必ず良い事が待っていることも、体験
として体に刻んでおいで欲しかったのだ。
 それが今回のローズマリーがミステリーツアーを企画した真意だった。
 だが、階段を上がって来るアンネの姿がなかなか見えてこない。
 踊り場を二つ過ぎればすぐにレストランなのだから、もう姿が見えてこないとおかしい。
「ねえ、来ないよ」
 不安になって言うジャスティスの声に、ローズマリーが居ても立ってもいられなくなった顔で走り出
す。
「アンネ?」
 声がいつもの冷静なローズマリーではなくなり、上擦って暗闇に沈んだ病院の階段の壁に跳ね返る。
 早足で階段を下りるローズマリーとジャスティスは、二番目の踊り場の側で黄色い蛍光の光を見つけ、
アンネがそこにいるのを知って声をかけた。
 その声に顔を上げたアンネが、蒼ざめた顔でローズマリーを見上げるなり、声を上げて泣き出した。
「ローズマリー!」
 踊り場で凍り付いていた足で駆け寄ったローズマリーの胸に走りこむアンネが、うわーと声を上げて
泣き始める。
「どうしたの? ねえ、何があったの?」
 こんなに声を上げて泣く姿をはじめて見たローズマリーは、アンネを胸にかき抱きながら言う。
「姉さん、これ、誰が置いたの?」
 そのとき背後でした声に後ろを振り返ったローズマリーは、アンネを恐怖させたものを見て大きくた
め息をついた。
 人体模型の骸骨が、踊り場の壁に立っていたのだ。
 こんなものが暗い病院の階段に立っていたのでは、大の大人でも悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
 模型だと分かっていても、いまにも動き出しそうな気配を感じてしまうのが、夜の病院の魔力なのだ
から。
「ごめんね。こんな怖い思いさせるつもりじゃなかったのよ」
 えっくえっくと泣きしゃっくりをするアンネと、それを抱きしめるローズマリーを見下ろしながら、
ふとジャスティスは気付いたことに苦笑をもらす。
 なんか逆じゃないか?
 アンネを抱きしめているのは悪の権化の役のローズマリーで、なす術もなく立ち尽くしているのが姫
の騎士たるぼく?
 でもしっかりと姉の背中をつかむアンネの手を見つめ、今日会っただけのぼくでは叶わないよなと思
い直す。
 自分も熱を出して心細いときに感じた姉の愛情を、またアンネも感じているのだろう。
 医者が、姉さんの天職なのかもしれないな。
 ジャスティスはローズマリー自身さえ見出していない素質を思い一人頷く。
 そしてアンネがローズマリーの胸に顔を埋めて見ていないうちに、骸骨くんをせっせと抱えて移動さ
せるのであった。
 

 結局アンネは泣き疲れてしまい、クレープを一口二口食べただけでローズマリーの膝の上に顔を預け
て眠ってしまったのだった。
「かえって悪いことしちゃったかしらね?」
 アンネの頭を撫でながら、ローズマリーが膝の上の可愛らしい寝顔を見下して言う。
「そんなことないよ。最後はそりゃ怖がらせちゃったけどさ。すごい楽しんでたよ」
「そうね。でも、辛いことでも先にある約束された喜びがあるなら乗り越えられるっていう教訓は学べ
なかったわよね」
「………」
 白血病の治療は、移植といっても開腹して行う手術ではない。
 点滴のようにして背中に通した管から体内にドナーから提供された抹消血を入れるだけで痛みはない。
 だが、その後の完全に隔離された個室での生活と抗がん剤による副作用に耐えることが何よりも苦し
いのだ。
 精神的に追いつめられる。
 自分には何の未来も楽しみもないような錯覚にさいなまれるのだ。
 でもそれを乗り越える力を与えられるのも、また自分自身だけなのだ。
 じっと愛しいものを見下ろすように頬をなでるローズマリーに、ジャスティスがアンネの食べ残しの
クレープをつつきながら言う。
「でも、苦しいときに支えてくれる人がいるってことは分かったんじゃないの?」
「え?」
 クレープ齧ろうとしているジャスティスを見て、ローズマリーが首を傾げる。
「姉さんのことだよ。どんなに一人ぼっちで取り残されたように感じるときでも、自分を見捨てずに助
けてくれる手があるんだって理解することも、病気を乗り越えるには大切なことなんじゃないの?」
 モグモグとクレープを咀嚼しながらジャスティスが言う。
「これうまいね。姉さんが作ったんでしょう? 家でも作ってよ」
 そんなジャスティスのたわごとを聞き流しながら、ローズマリーはアンネの寝顔を見つめた。
 それは冒険を無事なし終えた満足感に満ちたお姫さまの顔だった。


 移植が行われることが決定し、無菌室に移ったアンネの枕元には、眠ったアンネを腕に抱いているジ
ャスティスの写真と、魔女ローズマリーにツアーを無事終えた印に贈られたティアラを手に微笑む二人
の姿を写した写真が飾られていた。
「がんばるからね、わたし」
 無菌室のガラスの壁の向こうで見つめてくれているローズマリーに、アンネが言った。

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