第二章 掲げられた道しるべ

 
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 ぐぅと鳴った腹の音に胃のあたりを手で押さえたジャスティスは、筆をキャンバスに走らせたままに 止まった。 「腹、減ったのか?」  いまいち実感は伴わないが、おもむろに顔を上げて壁にかかった時計を見れば、すでに前回の食事の 時間からゆうに十二時間は経過していた。  しかも、それは昨夜の夕飯なのだから、絵を描くことに熱中しすぎて寝ることすらも忘れていたらし い。  窓の外からは清々しい朝の訪れを予感させる鳥のさえずりが響き、濃い緑の葉先には朝露が陽光を受 けてきらめいている。  ジャスティスは筆を下ろして伸びあがると、凝っている背中に痛みを感じて小さく唸る。 「我ながらすごい集中力だ」  そう言って少し離れた場所から絵を眺め、それから部屋の窓を開け放って新鮮で澄み切った空気と暖 かな陽光を部屋の中へと導き入れる。  夢幻の世界に漂い、酔っていたジャスティスには、少し冷たい空気は脳内を刺激するほどに気持ちが よく、暖かな陽の光は離しがたい毛布に包まれているかのように、安心感に満ちた気持ちを与えてくれ る。  ジャスティスは窓から身を乗り出し、深呼吸すると再び伸びをした。  肩や腰の関節がポキポキと音を立てるが、気持ちがいい。  緩やかに空気をかき混ぜる風が窓辺のカーテンを揺すり、ジャスティスの頬を撫でていく。  ジャスティスは窓辺から取って返し、陽の光の下で描き上げようとしている絵を見ようと窓の方へと キャンパスを回転させた。  それを再び窓に寄りかかりながら眺めたジャスティスは、筆のあとも残る色使いや、それによって描 かれた柔らかな人物の頬、細くたおやかな指などを見つめた。  そして自己満足かなと思いながらも、予想以上の出来に一人にやりと笑うのであった。  そのジャスティスの背中に掛けられる声があった。 「あら、引きこもりは終了?」  声をかけてくる存在など姉のローズマリーしかいないことは分かっていても、予想外にかけられた声 に思わずビクリとして飛び上がる。 「ああ、びっくりした」 「なによ。やましいことでもしてたの?」  庭でバラの花を摘んでいたローズマリーが立ち上がってムッとした顔を向けてくる。 「別に。こんな朝早くから何してるの?」 「パーティーの準備」 「パーティー?」  全く予想していなかった答えに目を点にし、頭の中でパーティーに相等しそうな記憶を捜す。 「やっぱり忘れてたわね。だったらやらなくてもいいかしら?」  水の張ったバケツにバラを差し入れながら、ローズマリーが言う。  園芸用の丈夫な手袋とハサミをもった格好で、腰に手を当てて憮然とした顔で言う。 「パーティーの計画って、………あ、もしかして」 「もしかして?」 「ぼくのためのものだったりしますか?」 「そうよ!」  バラの一輪を突きつけるようにして強い口調で言った姉の顔を凝視すれば、目の下にくっきりと黒い 隈が浮いていた。  このところ数日部屋にこもっていたし、見かねて食事を運んでくれた姉の存在は背中で感じていたが、 きちんと顔を見たのは、あのバレエの公演以来かもしれなかった。  確かバレエの公演の後は実習があるから忙しくなるとか、何とか言っていなかっただろうか? だか ら少しは家のことを手伝ってよねと頼まれた気がしてくる。  だが、と考えて、恐る恐る姉の顔を見れば、いつも通りの不機嫌な顔でバラをパチンパチンと摘む姿 があるだけだった。  絵を描くことに夢中で他のことは、忘却の彼方。はっきり言ってここ数日は別世界へと旅立っていた といっても過言でない状態だったのだ。 「姉さん、ごめん。ぼく手伝いとか頼まれてたよね」  その気弱な声に、バラの茎を掴んだまま顔だけを上げたローズマリーと目があう。  表情の読み取れない茶色い瞳がまっすぐに自分を見据えるのに、ジャスティスは思わず後退りしそう になる。  だが次に浮んだ微笑に、ぽかんとした顔で姉の顔を見下ろした。 「手伝いなんてどうでもいいのよ。それよりも、今日の主賓がそんな格好でいるのはどうなのかしら ね?」  ローズマリーがジャスティスの顎や頭をみつめて言う。  ジャスティスは慌てて部屋の中に引き返すと、タンスの内扉についた鏡を見つめた。 「うわ!」  そして思わず声を上げてしまう。  こんな自分の顔を見たのは初めてだった。どこか場末のバーあたりにいそうな顔が鏡の中で自分を見 つめていた。  無精ひげを通り越して長くなったヒゲが生え、爆発した髪が固まりとなって四方に広がっていた。  姉の声が外から部屋の中に入り込んでくる。 「臭い主賓になんて、誰も祝福のキスをくれないわよ」  その声に思わず自分の服のにおいを嗅ぐ。 「臭いか?」  思い返せば4日は風呂に入っていない。  そう気づけば途端に痒くなる頭や、体に纏わりついてくる気する服が気になる。 「お風呂、お風呂!」  ジャスティスは慌ててバスルームに飛び込むと、シャワーを捻るのだった。  主の消えた部屋の中では、バラの甘い匂いが漂い、キャンパスの中の少女の笑みが輝いていた。  恋人と見つめあう、頬を赤く染めた可憐な少女。  ジゼルとアルブレヒドだった。
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