第二章 掲げられた道しるべ

 
「この前はありがとうね」  肩と顎で挟んだ携帯電話からレイリの声を聞きながら、ローズマリーは机いっぱいに広げた資料を読 んでいた。 「ううん。こちらこそ、素敵な舞台を見せてもらえて感謝よ」  ローズマリーの賛辞に、レイリが電話の向こうでくすぐったそうに笑う。 「ローズマリーにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」  レイリのその言葉に、眉間をしかめて資料を読んでいたローズマリーの顔が、穏かなものに変わる。 「そんなこといって、本当はカルロスに褒めてもらうのが一番なんでしょう」 「ふふふ」  あえて否定せずにいるレイリの笑いに、手にとった携帯をみつめ、ローズマリーが苦笑する。 「お熱いことで」 「そんなことないのよ。カルロスは忙しい人でなかなか会えないし、自分のテリトリー意識がとても強 い人だから、何を考えているのかよく分からない部分も多いし」 「ふ〜ん」  確かに人当たりが良さそうに微笑むその下には、確実にこれ以上は踏み込ませないという確固とした 壁が存在しているのが、ローズマリーにも分かっていた。  しかもその入ってはならないスペースが、人よりも多分に広いことも。  あの男がレイリと二人きりではどんな顔をしてみせるのか、興味があるといえば怒られるだろうか。 「だからね、気兼ねなくいろいろな意見を言ってくれるローズマリーは、わたしの大事な存在なのよ」 「そう」 「で、本当にどうだった、今回の公演」  それが聞きたくてかけてきた電話であることは分かっていたので、手にしていた資料をテーブルに戻 すと、あの夢幻の空間を舞い踊っていたレイリの姿を思い返して言葉を継いだ。 「すごく恋している嬉しさや、裏切られたときの心の痛みが伝わってきたわ。指の先、つま先まで、体 の全てを使って表現していることが分かったし、そんな技術的なことが分からない素人にも、あの声な き声が聞こえたからこそ、ジゼルの世界に沈み込んだ沈黙の空気があったんだと思う」 「泣けた?」  その不意の質問に、一瞬答えにつまったローズマリーだったが、しぶしぶ認めてうなずく。 「……そうね。レイリの踊り見て泣いたのは初めてね」  その素直な言葉に、電話の向こうでレイリが微笑むのが分かる。 「ありがとう」  心の底から出た穏かな陽だまりのような言葉に、ローズマリーも照れ隠しのように咳払いをして再び 資料を手に取る。 「今、何してたの?」  紙を手繰る音が聞こえたのか、レイリが尋ねてくる。 「次の臨床実習の予習」 「そうなの? だったら邪魔しちゃったね。ごめん」 「いいのよ。だいだいのおさらいみたいなものだから。ちょっと苦手な小児科が次の科でね」 「あぁ、ローズマリーは子どもと相性よくなさそうだものね」 「レイリだったら、子どもともすぐに仲良くなれそうだけどね」 「将来のお医者様はがんばらないと」 「そうね」  手にしていた資料に並ぶ文字は、小児白血病。  グループでつくとは言え、重症の病気を抱える子どもとの接触は今から気が重いものだった。 「そんな忙しい時期なのに、自宅でお祝いパーティーなんて大丈夫なの?」  レイリの言葉に、そういえばもう一つやるべきことがあるのを思い出し、思わずため息をついた。 「そうだった。忘れてた」 「もう。ジャスティスに怒られるわよ」 「あの子もそんなこと、今は忘れちゃってるんじゃないかしら?」  ローズマリーはコトリとも音のしない、隣りのジャスティスの部屋に聞き耳を立てて苦笑した。 「なんで? だってジャスティスの大学合格祝いなんでしょう?」 「まあね。でも、このところ部屋にこもっちゃって、食事にもろくに出てこないのよ」 「え? ジャスティスって、おとなしいことはおとなしいけど、鬱的な要素はない気がしてたけど」  レイリの早とちりにローズマリーがクスクスと笑いをもらす。 「違うわよ。あの子ったら、レイリの舞台にえらく感激したらしくてね。それに触発されてなんかして るみたいよ」 「ええ? まさか部屋で一人バーレッスンなんてしてないわよね」 「なにそれ。気持ち悪いわよ。あの子が白タイツはいて黙々と踊りの練習なんて」 「ああ! それバレエダンサーへの差別発言!」 「だって、みんな気にしてるところよ。男性ダンサーの白タイツの股間は」 「もう! ……確かに踊ってて邪魔だと思うことも無きしもあらずだけど」  二人きりだからできる会話に、二人して含み笑いを漏らす。 「じゃあ、お祝いパーティーは予定通りでいいのね」 「ええ。お手伝いも期待してるわ」 「微力ながらね」  学生時代から何時間でも続く電話の会話だったが、名残惜しく感じつつも電話を切る。  レイリはバレエのレッスンの合間の昼休みにかけてきてくれたのだろう。  自然と笑みの形になっていた口元を感じ、ローズマリーを意識を引き締め直すと、資料に目を落とし た。  そこに並ぶ、子どもに起きるとは思いたくない症状とその治療法の羅列に、ローズマリーの顔は次第 に険しくなっていくのだった。  窓の外には盛夏の陽光の煌めきがあった。  その陽の下で元気に走り回れる子どもと、病院のベットの上で苦痛のうちに横たわるしかない子ども とが同時いることが、理不尽なほど不公平に感じることもある。  あると信じて疑わない子どもたちの未来を、ふいに断たれる気持ちはどんなものなのだろう。  ベットの上で再び陽を体で実際に感じられる日を夢見ている青白い顔の、まだ見ぬ患者の顔を思い浮 かべ、ローズマリーは深い吐息をついた。
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