第一章 ジゼル


 
「レイリのことを本当に思ってるのかしら? あんなにバレエに打ち込んでいる子をいつも側にしてい
ながら」
「ああ。側にいるからこそ思うんだ」
 怒りの空気を漂わせるローズマリーにあっても、カルロスは鷹揚に答えると、ワイングラスをボーイ
に返し、代わってジャスティスの腕を持って引き寄せる。
「ターンアラウンドしてみて」
 カルロスに言われ、ジャスティスがわけが分からないという顔でローズマリーを見やる。
「180度の開脚よ。バレエのセカンドポジションならできるんじゃない?」
 言われたジャスティスは全くもって何が自分の身に起きようとしているのか分からないままに、カル
ロスの足で肩幅に足を開かされると、足先を外に向けて開かされる。
「あたたたたた」
 慣れない初心者にありがちなへっぷり腰で叫んだジャスティスに、周りのバレリーナたちがクスクス
と笑い声を上げる。
 その姿をカルロスがおもしろがっていることが露わに、口の端をヒクヒクと痙攣させてジャスティスを
見やる。
「ちょっと何させるつもりなんだよ!」
「少しプリエしてみたら?」
 ローズマリーは真剣そのものの顔でジャスティスに近づくと、膝を外に開いてと指示して腰を下げさ
せる。
 それでもみっともなく飛び出した尻を見下ろし、ローズマリーが使い物にならないわと言いたげにペ
チンとその尻を叩く。
「もう、痛いな。いったいぼくの体使って何がしたいのさ!」
 こんなことに付き合ってられないと逃げ出したジャスティスは、側にいたバレリーナの少女の一人の
背中に隠れてしまう。
 そして隠れられた方の少女も困った顔をしつつも、童顔ながら美少年風なジャスティスに肩をつかま
れ、笑顔でカルロスとローズマリーを見ていた。
「初心者にはターンアラウンドも難しいですよね」
「あんなことができるなんて、バレリーナは怪物だ」
 少女の耳元で小さくいったジャスティスだったが、くるりと振り返った少女があっさりと自分の苦戦
したターンアラウンドをしてみせ、ファーストポジションで立ち、背骨に支柱でも入っているのかと思
うほどに制御された真っ直ぐな背筋のままに、床に手がつくほどに深くプリエしてみせる。
 そして優雅に回した手で立ち上がってお辞儀してみせる。
「このターンアラウンドがバレエにおける基礎で、全てといっても過言ではないのです」
 少女の見せてくれたミニバレエに、ジャスティスが拍手を送る。
「すごい、すごい」
 そして拍手された方の少女は、そんなことで拍手をもらえたことに驚き、それでも嬉しそうに腰を折
って優雅にお辞儀をしてくれる。
「あのターンアラウンドが正しくできていないダンサーは、美しくないだけでなく、体を痛めることに
なる」
 美しいお手本を見せてくれた少女に肩に手を置いて言ったカルロスに、少女が笑顔で頷くとパーティ
ーの輪の中へと戻っていく。
「不完全なターンアラウンドで股関節から180度に開くことなく、つま先だけの見せ掛けのターンア
ラウンドでは、膝、足首に捩れが生じ、結果外反母趾を生じさせる」
 講義し始めたカルロスに、ローズマリーは当たり前のことを説明してもらわなくても結構という顔で
うなずく。
「捩れた見せ掛けのターンアラウンドは骨盤のバランスを崩して体重が背面にかかるために、全身の筋
肉にも無理な負担を強いることになる。これではいつ怪我をしてもおかしくない。生まれついて股関節
が180度開脚する人間はいないのだから、訓練の賜物。そしてその訓練をしてきたのがレイリでしょ
う」
「もちろん現在のレイリのターンアラウンドは完璧だ。でも、子どもの頃からそれが完成していたわけ
ではない。無理を強いてポアントをはき続けていていたこともあるし、度重なる捻挫や靭帯への負担で
歪んでいた時期もある」
 それはローズマリーも承知していた。バレリーナの足は美しい。
 真っ直ぐに長く伸びた肢は細く、適度についた柔軟な筋肉は、躍動する肉食獣のそれのように生き生
きとしていて、それでいて優美なのだ。
 だが、肢はキレイだが、足はといえば、痛々しいほどに変形した足をしていることが多い。
「今日の公演後の彼女のポアント見たか?」
 ローズマリーもジャスティスも、公演後の楽屋には行ったが、人でごったがえしていたために、顔を
見せた程度で退散していたのだ。
 だから彼女が履いていたポアント(トウシューズ)など見てはいない。
「血で真っ赤だった」
「……ああ。また」
 ローズマリーは高いヒールの靴で会場の中を歩き回っているレイリを振り返ってみて、ため息をつい
た。
 平気な顔で笑顔さえ見せて美しく立ち振る舞っているレイリだが、その実その足は、潰れたマメやタ
コのために痛みを発しているはずだ。
「バレリーナは毎日常に痛みに堪えているといってもいい。足の爪なんてないに等しいし、真っ赤に腫
れたマメやタコは、当たり前で痛いとすら言えない。膝や腰に痛みを持っていても公演となれば、痛み
止めの注射をしてでも踊ることを最優先とする。
 そこまで打ち込めるものがあるのはあっぱれだとは思うけど、側で見ている人間としては痛々しくて、
胸が潰れる思いがする」
「………」
 同じようにレイリの姿を目で追っているカルロスに気づき、ローズマリーは無言のままその顔を見つ
めた。
 ローズマリーもかつてはそう思っていた時期があった。
 なぜ自分の体を犠牲にしてまでも、踊ることを強いていかなければならないのか?
 レイリは厳しい世界だからと言っていたはずだ。美しくも激しい競争の世界であるとも。次から次へ
と生まれる若いプリマたちは、常にソリストとして、あるいはプリンシパルとしてバレエ団に迎えられ
ることを夢見て戦い続けているのだ。
 やってもやっても足りないの。レイリの口癖だった。
 技術を追い求めて三回転のピルエットを決められたと思っても、次にはもうすべきことが詰まってい
る。バレエは技術だけではない。情緒を表現する芸術でもある。
 ハイスクールに上がった頃からプロのバレエ団と契約したレイリは、バレエのレッスンと公演のリハ
ーサル、本番と、目まぐるしい生活を続けていた。
 疲れていても、体に痛みがあっても、休んでいる暇などないのだと。
 すでに学生ではないレイリは、学校がなくなった分をさらにバレエのレッスンにあてているのだ。一
日の練習時間はゆうに7時間にも8時間にも及ぶのだ。
「レイリが辛そう?」
 尋ねたローズマリーに、カルロスは僅かに視線を下にそらすと、否定して首を横に振った。
「いや。楽しそうだよ。今いるバレエ団には子どもの頃からの仲間もいるし、プリマとしての責任も与
えられている。生きる目的をもって歩いている姿は美しいし、輝いている」
 そう認めつつも、どこか寂しげなカルロスの表情に、ローズマリーはクスリと笑いを漏らした。
「バレエに嫉妬してるの?」
「え?」
 言われた意味がわからなそうにポカンとした顔でローズマリーを見たカルロスが、次の瞬間に幾分ば
つが悪い顔で目をそらす。
「……そう……なのかもしれない」
 いやに素直に認めたカルロスに、ジャスティスも物珍しいものを見るように目を見開く。
「カルロス、顔、あかいよ」
 冷静沈着で泰然とした大人の男を演じていたカルロスが、年相応の、いや、それよりも少年のような
恋に不器用な姿を晒していた。
「本当。耳まで真っ赤」
 追い討ちをかけるようにローズマリーが呟く。
 それに鋭い目を向けたカルロスだったが、すでにその威力は半減していた。
「ふ〜ん。レイリにちゃんと惚れてるんだ」
 ローズマリーがカルロスに一歩近づくと、下からその顔を覗き込む。
「なんだよ、悪いか!」
「いいえ」
 ローズマリーは意地悪く笑うと、カルロスから離れた。
「安心した。側に置いて見栄えがする、従順な女が欲しくて寄って来る男が多いから」
 ローズマリーは今までのことを思い浮かべてカルロスを見やる。
「あなたは、ちゃんとレイリのことを守ってくれる?」
 真っ直ぐなローズマリーの視線に、カルロスは僅かに肩をすくめて見せる。
「そのつもりだけど。でも、完璧にはいかないだろうな。男だから女の感情の機微なんてわからないし、
四六時中一緒にいて見張っているわけじゃない。だから、それをフォローしてくれる女友達がいてくれ
るんだろ?」
 そう言ってカルロスがローズマリーに向けて笑顔を浮かべる。
 それは、今までの剣のある笑みではなく、ローズマリーを一人の人間として認めた笑みだった。
 それを受けて、ローズマリーも初めて柔らかな笑みを浮かべる。
 そして差し出されたカルロスの手を握る。
「レイリをこれからも頼む」
「こちらこそ。彼女にジゼルの恋心を教えたのはあなたなのでしょうから」
 あくまで無垢な恋心をくすぐって笑うローズマリーに、カルロスは観念したようにジャスティスを見
やる。
「この怖い姉さんと、よく今までやってきたな」
「でしょう」
 同情に心底同意するジャスティスだったが、ローズマリーがその足をヒールの踵で踏みつける。
「あ、イテ!」
 尖がった踵に踏みつけられた革靴を手で覆って涙目になるジャスティスに、ローズマリーが上から釣
り上がった冷たい視線をくれる。
「まあ、よくもそんな生意気な口が叩けるわね。誰のおかげで大学に入れたのかしら?」
「別に姉さんのおかげじゃないし」
 ふんと顔を背けたジャスティスだったが、カルロスが話題に関心を示して鬼の目のローズマリーとの
間に割って入った。
「大学生?」
「今年からね。OHSU(オレゴン健康科学大学)の医学部。姉さんもそこの医学部の三年になるんだ」
「へえ」
 カルロスは頷きながら意味ありげに二人を見る。
「じゃあ、どこかで会うかもしれないな」
「え?」
 ローズマリーが意味を掴みかねて聞き返す。
 だがそこに戻ってきたレイリがカルロスの手を後ろから握り、親しくなった空気の三人に笑みを浮か
べた。
「カルロスとローズマリー、仲良くなれた?」
 カルロスと同じく、こちらも意味ありげに二人を見る目が、はじめから反目しあうと分かっていなが
ら二人を引き合わせたことが一目瞭然だった。
「ええ、おかげさまで」
 ローズマリーの口ぶりに声を漏らして笑ったレイリが、結果はわかっていますといいたげに二人の手
を取る。
「わたしの二人のナイトには、仲良くして欲しいからね」
 守ってやるはずのレイリが、なぜか二人よりも強く見えるのは気のせいなのかと、ジャスティスは笑
いに隠した顔の下で思っていた。





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