第一章 ジゼル


 

 はじめて知る恋に体中から溢れ出しそうな煌めきを放ちながら、ジゼルがブドウ畑の中で踊る。
 そこに登場した恋人、アルブレヒド。
 寄り添う二人は、心を通わせあう真の恋人。
 取り合う手にも、振り向き見つめあう視線にも、身が震えるほどの恋の喜びが滲んでいた。
 抱き寄せられたジゼルがアルブレヒドの胸に背を預け、幸せそうに目を閉じる。
 ジゼルの、そしてレイリの恋が彼女の踊りを変えたのが、ローズマリーにもよく分かった。
 村娘のジゼルと愛し合うアルブレヒド。
 だがその二人を見つめる嫉妬の目もそこにはある。森番のヒラリオン。
 彼が知ったアルブレヒドの秘密をジゼルに伝えることで、ジゼルは酷い裏切りと大きすぎる恋の痛手
に狂い死ぬことになるのだ。
 アルブレヒドは公爵の地位を持ち、親同士の決めた婚約者バチルド姫がいる身だった。
 ステージ上では今、バチルド姫の手をとり、口づけするアルブレヒドを見て衝撃に立ち尽くし、身を
震わせるジゼルがいる。
 それに気づき、手を伸ばすアルブレヒドから背を向け逃げさるジゼル。
 レイリの背中から、振り上げられた指先から、悲しみと絶望が伝わり、静まり返った会場の中で時折
すすり泣きも聞こえる。
 描き出された悲恋の物語の世界からふと現実に戻ったローズマリーは、会場を覆った深海の中のよう
な静けさと物語から溶け出た感動に満ちた空気に、満足して微笑んだ。
 レイリの舞台はすでに半分以上が成功したといっていい。
 観客の心は掴んでいる。
 恋を理解することができずに苦しんでいた少女は、今それを伝える表現者として、また美しき女性と
してそこに立っていた。


「恋?」
「そう、恋」
「魚の鯉じゃなくて、男と女の?」
「そうそう」
 真剣そのもので頷くレイリに、ローズマリーは呆気にとられたまましばらく開いた口を閉じることが
できなかった。
 なぜ初めて口をきいた美少女から、わたしが恋について尋ねられなければならないのか?
 質問の内容を考えるよりも、その疑問が頭の中を満たし、真意を探るようにレイリの目の中をのぞき
こんでしまう。
 だがそこにあるのは、本当に純真に教えを請おうとしている嘘のない瞳だった。
「……なんでそんなこと聞くの?」
「あのね、わたしバレエやってるの。知っていた?」
「いいえ」
 身振り手振りで話し出したレイリを見つめ、ローズマリーはなるほどと納得した。座る姿も返される
手首も、独特の美しさと癖を持っていた。これがバレエによって培われた所作なのだということはすぐ
に理解できた。
「バレエで有名なのは白鳥の湖だけど、ジゼルっていう踊りもあるの。知ってる?」
 これにも否を伝え、ローズマリーが首を横に振る。
「ジゼルはね、ぶどうの栽培をしている小さな村な娘なんだけどね、アルブレヒドっていう恋人がいる
の。でも彼は彼女とは身分が違う公爵さまでね、しかも親の決めた婚約者までいたの。それを隠してジ
ゼルと愛し合ってるの。でもそれがジゼルの知れるとことなって、彼女は死んでしまうの。
 それで、処女のまま男に裏切られて死んでいった女たちがウィリーっていう精霊になって男たちに復
讐をするんだけどね、ウィリーの女王ミルタにウィリーにされたジゼルは、墓にやってきたアルブレヒ
ドを殺せとミルタに命令されるの。
 それに最後まで抵抗してアルブレヒドを守りきったジゼルは、最後にその心の中の愛を彼に伝えて墓
の中に消えていくって話なの」
「うん」
 まるで自分がジゼルになったように熱心に語るレイリに、ローズマリーは冷めた目を装いつつ、話よ
りもレイリの豊かな表情をおもしろく思い、ついた片肘に顎を乗せて眺めていた。
「それで?」
 不意に言葉を途切れさせたレイリに、ローズマリーが先を促がした。
「……うん」
 今までの熱意に溢れた顔はどこへやら、急にシュンと伸びていた背中を丸めて肩を落とすレイリに、
ローズマリーがついていた顎を上げた。
「どうしたの?」
「今度バレエの発表会で、わたしがジゼルに選ばれたの」
「すごいじゃない。主役でしょう」
「うん。でもね、分からないの」
「何が?」
「恋する気持ち。アルブレヒドの背中を見つけるだけで溢れてくる喜びがどんなものなのか、愛した人
と結ばれない運命だと知って死を選ぶほどの苦しみも、ミルタに逆らってまで裏切った男を守り通す愛
情も」
 その言葉で初めてローズマリーへの質問の意図が分かり、力を落としているレイリを不思議な生き物
を見るように見つめた。
 たかがバレエのためにここまで真剣にのめり込み、虚構の世界に自分をリアルな存在として置こうと、
無駄な努力に全身全霊を注ぐ少女。
 普段の自分なら笑い飛ばして追い払うところだったかもしれない。
 バレエなどというお嬢様趣味にも虫唾が走るし、ありもしないファンタジーの世界に酔えるほどロマ
ンチストでもなければ、それを許容できるほど寛大な心を持っているわけでもない。
 それでも、この世間知らずともいえる、まっすぐな少女に興味を持ったのだ。
 彼女が何を見、何を聞き、何を感じるのか知りたい。
 ローズマリーは集まり出した人の喧騒の中でレイリの背中に触れると、顔を上げたレイリに片眉を上
げた笑みを見せた。
「恋について知りたいと思った理由は分かった。でもなぜわたし?」
 レイリは授業をローズマリーの隣りの席で受けるつもりなのだろう、身を正して席について正面を向
くと言った。
「美人だし………。普通の子たちみたいな軽い付き合いじゃない、真剣な恋をする人に見えたから」
「………」
 その予想を越えた答えに、ローズマリーは隣りのレイリの横顔を食い入るように見つめた。
「どうして?」
「………。感?」
「また感?」
 苦笑とともに言ったローズマリーに、レイリが困ったように目を上向かせて言い訳を考えていたが、
いい答えがみつからなかった様子で照れたように笑う。
「わたしバカだから、なんでも野生の感で動くの」
 レイリが教科書の間から前回の授業でやった小テストの答案を開いて見せる。
 そこに並んだ赤いバツとやっとこ二桁にのった数字に、目を見開き、それからムッとした顔のレイリ
を見て、一回は飲み込んだ笑い声を覆った手の間から漏らした。
 はじめて見せる、顔を赤くするほどの笑いを堪えているローズマリーの姿に、怒った顔を作って見せ
たレイリも、仕方ないと肩をすくめてテストの答案を教科書の間に隠す。
「どうせお馬鹿ですから」
「でも神様にもらった素敵な感はいつも冴えてるんでしょ?」
 笑い終えてホッと息をついたローズマリーが横目でレイリを見て言う。
「ええ、そうよ」
 それだけがわたしの美点ですからと胸を張って言うレイリに、ローズマリーがほほえむ。
「恋については教えてあげられるとは思えないけど、数学なら教えてあげるから」
 教壇に向って歩いてくる教師を見ながらローズマリーが言った。
 ローズマリーの答えにレイリが愛嬌のある笑顔で口元を膨らませて、仕方ないと頷く。
「じゃあ、今日、一緒に帰りましょう」
 教壇についた教師が教科書を開くのを見ながら、レイリが言う。
「OK」


 ミルタの壮絶ともいえる男への怒りは、青白い炎のように感じる。
 かつて自身も男に弄ばれ、屈辱のうちに命を断つしかなかった女が、ウィリーとなって自分と同じよ
うに男に傷つけられた女たちとともに復讐を続ける。
 だが彼女が、それによって救われたことはあったのだろうか?
 かえって、憎悪の炎は燃え上がり、何度殺しても這い上がってくる、自分を傷つけた男への憎しみに
捕らわれ続けているのではないだろうか?
 ウィリーとなって現れたジゼルに、アルブレヒドは涙を流して許しを求める。
 そのアルブレヒドをミルタから庇い、どうか彼を見逃して欲しいと懇願するジゼル。
 ウィリーであるジゼルが、その女王であるミルタに逆らい、自分を死へと導いた男を庇う。それが何
を意味するのか。そこまでバレエの世界は描きだしてはいない。
 だが、そこに大きな犠牲が求められたのは必然だろう。
 そしてそれには、ジゼルの愛憎を捨てるという犠牲も含まれていたはずだ。
 愛しているがゆえに、止めようのない憎しみに変わる恋。
 ステージ上で夜明けとともに消えていこうとするウィリーたちと、最後まで愛する人を守りきったジ
ゼルとアルブレヒドが抱き合う姿が描き出される。
 演目を終え、緞帳がゆっくりと夢の空間だった世界をかき消すように、ゆっくりとステージと客席を
遮断していく。
 鳴りやまない拍手。
 ローズマリーも儚くも真っ直ぐに恋に生きたジゼルを演じきったレイリに、心からの拍手を贈った。
 そうしながら、自然と目尻から零れた涙に、自分でもびっくりして、慌てて手の甲で涙を拭った。
 何に対して涙を流したのか、自分でも分からなかった。
 ジゼルの世界に酔ったのか、それともレイリのひたむきなバレエへの思いが報われた瞬間に感動した
のか。あるいは、人間のもつ激しく燃え上がるほどの愛情に、ローズマリー自身が動かされるものがあ
ったのか。
 いずれにしろ、弟のジャスティスの隣りに座っていなかったことが幸いだった。別に泣いたことを恥
ずかしいとは思わないが、きっと自分のキャラクターには合わない行為なのだということは自覚してい
た。
 どんなことにも感情を動かされない、冷静な、ときに、冷徹とさえ思われる性格なのだから。
 そんな性格のキャラクターを演じることにも慣れきり、そうあらねばならないと脅迫に近い思いで自
分を強いていることも、なんとなくだが分かっている。
 だからこそ、レイリとここまで親友として続いているのかもしれないと、ローズマリーは思う。
 冷徹で、感情を忘れた人間であるように装う自分を捨てられる、唯一の存在がレイリだった。
 本当は胸の奥に閉じ込めたことで、熱く燃えていたローズマリーの感情を解放してくれたのがレイリ
なのだ。
 だからこそ、そのレイリが演じるジゼルだからこそ、ローズマリーの心に語りかけるものがあったの
かもしれない。
 ジゼルのような激しい思いに突き動かされる生き方をしてみたいと。
「……それこそ、夢物語だけど」
 そっと口にのせて呟く。
 カーテンコールも終え、会場の明かりがゆっくりと光度を上げていく。
 闇に慣れた目に、オレンジ色の光が次第に黄色から白色へと変わっていく。
 どんよりとした現実に戻りきれない、夢心地の顔つきのままに、人々が会場からロビーへと出て行く。
「姉さん、そんなところにいたの」
 ジャスティスの声に顔を上げたローズマリーが、人波のゆっくりした歩みの後ろからやってくる弟に
視線を合わせて頷く。
 そしてふと弟の後ろを、群集から反れて離れていく背の高い男に気づいて、視線を送った。
 黒髪を後ろに撫で付けた、ジャスティスとは違い、スーツも体に馴染んだ背中が遠ざかっていく。
「こんなところじゃ、せっかくのレイリが小さくしか見えなかったでしょう」
 脱力したようにイスに座ったままのローズマリーの隣りに座り、ジャスティスが言う。
「いいのよ。どこで見てても、レイリの踊りはわたしに届くのだから」
 普段は語らない親友への思いに、ジャスティスが珍しいものを見るようにローズマリーを見る。
「……へぇ」
「なによ」
 自分でも言ってから恥ずかしくなったのか、弟から目をそらしたローズマリーが明るく照らし出され
た会場を見渡した。
 すでに大半の人間が会場を後にしていたが、自分たちと同じように、未だ現実の世界に戻ることに抵
抗を示して残っている者もいる。
「レイリが楽屋に来てって言ってたけど、どうする?」
 何とはなしに言った言葉に、ジャスティスが粋のいい魚のように飛跳ねる。
「え! 行く! 今日のヒロインに会えるなんて、感激!」
「は? ヒロインって、いつも会ってるレイリじゃない」
「………」
 感動薄く言うローズマリーに、ジャスティスが感動に水を差されたと、眉間に皺を寄せて姉の顔を睨
む。
「そういう問題じゃないでしょう。さっきまでステージでみんなの羨望の眼差しを受けていた、せつな
い恋を描いていた美しいプリマに会いにいけるんだよ」
 熱弁を振るい、いやに美しいを強調したジャスティスに、ローズマリーが無言のままに怪しむ目つき
を送る。
「あんたまさか、レイリが好きだとか言わないわよね」
「え? まさか!」
 そう言いつつも、なぜか赤面する弟に、ローズマリーは大きくため息をついた。
「ダメダメ。レイリにはちゃんと大人の彼がいるし、あんたみたいな甘ちゃんに、レイリは託せないと、
親友として言わせていただくわ」
「だから、別に好きじゃないって」
 慌てて言うジャスティスだったが、立ち上がって姉を見下ろす顔が、子どもじみて拗ねていた。
「それにしても実の弟に、酷い言い草だね」
「そう? 真実を言ってあげただけ。真実を受け入れられるようになるのも、大人への第一歩よ」
 大人の余裕をかますように立ち上がったローズマリーが、自分と同じ目線のジャスティスの肩をポン
と叩く。今日はヒールを履いているので、いつしか自分の背を追い抜いた弟とも、同じ目線で話せる。
「いい男に成長してちょうだい」
 嫌味のように顔を寄せて言うと、楽屋へ行くために歩き出す。
 そのローズマリーの横顔をじっと見たジャスティスが、拗ねた顔に不意にいたずらを見つけた子ども
のような笑みを浮かべる。
「姉さん、泣いたでしょう」
「は?」
「マスカラが滲んでる」
 そう言われてすぐに確認するのも癪で、知らん顔でジャスティスを残して歩み去る。
「そういう細かいこと言う男はもてないわよ」
 自分を置き去りにしようとしている姉の魂胆に気づいたジャスティスは、慌てて姉の後を追う。
「待ってよ。いいじゃん、泣いたって。それだけレイリが素晴らしかったってことで」
 決して歩く速さを落とさないローズマリーの後を、ジャスティスは姉のご機嫌を伺うように言いながら
ついて行くのであった。





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