第一章 ジゼル

1

 開演を前にしたホールの中は、独特の興奮した空気に包まれていた。
 着飾った人々がパンフレットを手に緞帳のおりた舞台を見つめ、オーケストラの金管楽器の鈍い金属
の輝きに、今夜の出し物の出来ばえを予想して夢心地になる。
「姉さん、どこいくの?」
 薄暗いホールの赤い絨毯の敷かれた階段を下りていたジャスティスは、不意に方向をたがえて歩き出
した姉のローズマリーに振り返って声をかけた。
「席はこっちだよ。レイリがすごくいい席を確保してくれたんだ」
 舞台を目線で見ることができる中央の最高の席が二つ、自分とジャスティスのために取り分けられて
いるのだ。
「……わたしは、違うところで見るから」
 黒いドレスに身を包んだローズマリーが、胸の前にもった小さなバックをジャスティスに向って振り、
歩き去ろうとする。
「違うところって……」
 だがローズマリーは返事もするつもりがないのか、あっさりと背をむせて階段を上がっていってしま
う。
 大きく開いたドレスの背中で、無駄な肉のない白い肌が見える。
「全く、団体行動ができない人だことで」
 ジャスティスは着慣れない背広に襟を正し、しょうがないかと諦め顔で一人、中央の席に腰を下ろす。
 すでに自分の席の隣に座っていた男性に頭を下げ、一つ席を開けて腰を下ろす。
 なんだかこの独特のハイソな雰囲気に飲まれていたのか、無意識に力の入っていた肩を深い息ととも
に下ろし、会場の中を見渡す。
 まるでオペラ座。
 行ったことはなかったが、イメージの中の煌びやかな作りは、今目のしている光景そのものだ
った。
 壁のいたるところに金の細工の燭台が飾られ、柔らかなオレンジの光を振りまいている。薄闇に包ま
れた天井にも、天界を思わせる絵が描かれていた。
 ボックス席にかけられた重厚なカーテン。靴で踏みしめることに罪悪感を与えるほどの繊細な織りの
絨毯。
 ついバレエの観劇初心者丸出しで、口をあけて辺りを見回してしまう。
 あ、いけね。つい圧倒されて。
 自分の間抜けな顔に気づいたジャスティスは、開いていた口を閉じ、正面に目を向けた。
 当然まだ緞帳のおりたステージに見るべきものはなく、辺りを見回す。
 そこで先に席についていた男と目が合い、その男のまっすぐな視線にたじろいで頭を下げた。
 そんなに年が違うわけではなさそうな、若い男だったが、こんな場所には慣れきっているのか、くつ
ろいだ様子でゆったりと椅子に座っている。
 その男の黒い瞳にあるのは蔑みでも嘲笑いでもない。だが目があっただけで圧倒される力があった。
 その目が笑みでやわらかな視線に変えられる。
「こんばんは。バレエを見に来るのは初めて?」
 低い、だが温かみにある声が男から発せられる。
「あ、はい。初めてです」
 この会場に合わせた正装であるために年齢はいまいちはっきりとはしなかったが、声の感じも若そう
だった。
 そうと分かっていても、ジャスティスは硬くなって敬語で返事を返す。
 まるで上司と部下。いや、上官と一般兵。
 その構図に気づいてか、男が笑い声を漏らす。
「そんなに硬くならないで。君と俺ならそれほど年も違わないんだし。バレエなんて高尚な芸術でござ
いますって顔してるけど、肉体の極限の美の追求のためにダンサーの体を酷使する、サド的舞踊劇って
だけなんだから」
 あっけらかんと言ってのけた男の言葉に、ジャスティスはなんと返答したらいいのかわからないまま、
じっと男の顔を見つめ、それから周りを見渡した。
 こんなバカ高いバレエのチケットを買って見にくるような、バレエを愛する人たちの間でする発言で
はないだろうと、冷たい周りの視線を予想したが、大きく音を吸収しやすい会場の中では、二人の声な
ど薄く拡散されて他人の耳になど届かない。
 それに気づいてホッとした顔になるジャスティスに、男は泰然と構えた笑みを向けていた。
 そしてジャスティスに向って手を差し出す。
「カルロスだ」
「ぼくはジャスティスです」
 ジャスティスはカルロスと名乗った男の手を握ると頭を下げた。
 次第に座席の埋まり始めた静かな興奮に満ちた会場の中で、カルロスの手は関心を失った冷めた体温
だった。


 舞台の真正面から離れた後方の席に座ったローズマリーは、クッションのきいた椅子に身を沈めると
小さくため息をついた。
 ここからだとステージは遠く、きっと踊るレイリは小さくしか見えないだろう。
 でもだからこそ、目を凝らして自分の世界に沈み、レイリの描き出す世界に浸れるのだ。弟の隣りで
はそれができない。
 それに、バレエのチケットを捌けずに友人に買ってくれるように頼んでいたレイリのために、彼女に
は分からないように買い占めたのが、今自分の座っている席1列分だった。
 すでに自分とジャスティスのための席をプレゼントしてくれていたレイリに、これ以上自己負担でチ
ケットを持つことは苦しいだろうと、友人を介してチケットを買い取ったのだ。
 唯一の親友レイリが、初めてプロとしてプリマをつとめる舞台。
 それを心から祝福したいし、チケットが売れ残るなどという、いらぬプレッシャーから彼女を解放し
てやりたかったのだ。
 だがそんな自分の微々たる力などなくても、レイリの舞台を楽しみにしている人間がたくさんいるこ
とが、今目の前で証明されつつある。
 大きな会場の席が次々に埋まっていく。
 期待に目を輝かせた老若男女の顔が、薄闇に包まれた舞台を見つめていた。
 開演の時間が迫っていた。
 ふっと暗くなっていく照明に、会場は声なき歓声に包まれ、興奮がピークに達する。
 一寸先も見えない暗闇に落ちた次の瞬間、緞帳が上がっていく。
 オーケストラの奏でる音楽。
 スポットに照らされた舞台。
 その上に現れる、森の中の長閑な村を思わせるセット。
 その中に、かわいらしく清冽な乙女が踊りだす。レイリだ。いや、初めて迎える恋の予感に輝く少女
ジゼルだった。


「あの、聞きたいことがあるんだけど」
 ランチタイムの後の数学の授業の教室に、15分も前に来て一人座っていたローズマリーの声をかけ
てきたのがレイリだった。
 お互いにまだ14歳の、幼い少女であった頃だ。
 いつも一人で行動し、誰ともつるまないローズマリーは、女の子たちの間でも変わり者で通っていた。
「下手な好奇心で近寄ると、鋭い爪で引っかかれて、泣きをみることになるわよ」という陰口とともに。
 だからローズマリーに近づく女の子はほとんどいなかった。
 レイリとも口をきいたこともなかった。
 大人しいお嬢様で、長い髪に結んだリボンがマッチした精巧な人形のような少女。それがローズマリ
ーのもっていた印象だった。無意識に言葉を発することなどないと思っていた少女。
 その壊れそうなお人形が、自分を見下ろして真っ赤な顔で立っていた。
「………?」
 ローズマリーはなにが起きたのか理解できずに、黙って硬いイスの上で身じろぎもせずにレイリを見
上げていた。
 そんな様子にレイリが居たたまれなくなったように視線を左右に動かし、胸の前で教科書を握った手
を居心地悪げに動かし始める。
 それに気づいたローズマリーは、レイリの後ろのイスを指す。
「座れば?」
「え?」
 そしてレイリの方も、まさかローズマリーからそんな気遣いの言葉が出るとは思わなかったのだろう、
虚をつかれた顔で止まる。
 ローズマリーはそんな人形から女の子になって声をかけてくれたレイリに関心をもつと、立ち上がっ
てレイリの後ろのイスを引いてやる。
「ここに座ればいいわ。立っててもしょうがない」
「え、ええ。そうよね。ありがとう」
 ぎこちない動きでイスに座ったレイリは、だが笑顔でイスに座って自分を見ているローズマリーに気
づいて、恥ずかしげに微笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。あなたのこと、誤解してたみたい。みんなが言うこと鵜呑みにして。あなたって、と
ってもいい人」
「いい人?」
 ローズマリーは肩をすくめて笑う。
「そんなことわからないじゃない? まだわたしは座ればとしか言ってないんだし。いい人ってよりも、
話し掛けても引っ掻いてこないことが分かったってだけで」
 自分の噂をネタに面白おかしく言うローズマリーに、レイリは首を横に振る。
「ううん。違う。あなたはいい人よ。絶対。わたしの勘って当るのよ」
「感?」
 屈託なく言うレイリが頷く。
 おもしろい子。ただのお人形でないことは確かね。
 ローズマリーはそんな感想を持ちながら、腕時計を見た。
 授業開始まであと十分だ。もうそろそろ人も集まり始める。
「なにか、わたしに話があってきたのでしょう?」
 ローズマリーに話を振られ、レイリは教室の時計を見上げ、初めて自分が何をしに来たのか思い出
したように「あ!」と声を上げた。
「そうなの。どうしても教えてもらいたいことがあって」
「教えてもらいたいこと? わたしに?」
「ええ」
 真剣な顔でローズマリーに顔をよせたレイリが言った。
「恋するってどんなかんじになるの?」




back / 第三部 CODE:セラフィム top / next 
inserted by FC2 system