ACT  1

  

 ぼくは胸を患っている。
 だから毎日病院のベットの上で過ごすしかないのだ。
 毎日鳥のさえずりに目を覚まし、病院の味の薄い朝食を食べ、医者の回診までを空の雲の形を見て
過ごし、クスリを飲んで天井の染みを数え、夕飯の匂いに夕日の到来を待ちわび、カーテンに仕切ら
れてしまうまで廊下を行き来する患者の病気とどんな経緯でここにやってきたのかを想像して過ごす
のだ。
 それが毎日のぼくの日常。
 学校にはほんの3ヶ月通っただけだった。
 最初の頃は届いていた友達からの手紙も、ここのところ余り来なくなってしまった。
「みんなぼくのことなんか忘れちゃったのかな?」
 声に出した言葉に、となりでベットの上であぐらをかいたマサじいさんが目を向ける。
「そんなこと言うもんでないぞ、ユウ坊」
「でも、本当に手紙も来ないし、誰も見舞いにも来ないじゃないか」
「誰も来ないことはないだろう。毎週日曜にはおかんとおとんが来ているでないか。ユウ坊は贅沢じゃ
ぞ。わしに見舞いがきたことなど、ユウ坊は見たことがないだろう」
「……」
 入れ歯を外した凹んだ口なのに、マサじいさんはよく喋るし、入れ歯なしでもなんでも食べるのだ。
 この前は入れ歯をしないでたくわんを食べていた。
「ユウ坊みたいな子を忘れる奴はいんよ。ただみんな自分の毎日に忙しいだけじゃ。その忙しい毎日の
中で、一瞬でも「そういえばユウは元気になったかな?」って思ってくれているはずじゃ。それを感謝
せんのは罰あたりじゃ」
 マサじいさんは手にしていた胡桃をベットサイドの物入れの上に置くと、その上に置いてあった饅頭
をぼくに手渡す。
「……くれるの?」
「おう。わしの大好物の胡桃饅頭じゃ。それを食べればユウも元気百倍じゃ」
 マサじいさんはそう言って、使い込んでよれよれになった掛け布団を引っ張って体を横たえた。
「ありがとう」
「おう。よく味わって食えよ」
 ぼくは手の平に乗る胡桃の乗った饅頭を見下ろした。
 甘いものはぼくの大好物だ。
 戦争が終わってまだ数年の今は、胡桃饅頭は貴重なものだった。ぼくも長らく甘いものにはありついて
いなかった。
 だからマサじいさんがくれた饅頭にゴクと唾を飲んでしまう。
 だけど、そうしてから痩せたマサじいさんの背中を見て思った。
 マサじいさんだって、食べたかったんじゃないかな。大好物だって言ったじゃないか。
 でもマサじいさんがぼくを思ってくれたものだ。返すのも悪いだろう。
 ぼくはマサじいさんの背中に頭を下げると、明日のお楽しみにしようと胸の中に饅頭を大事に抱えて眠
りについた。
 夏の窓の外からは、カエルの大合唱と虫の声が響いていた。

 静まり返った暗闇の中でぼくは目を醒ました。
 なぜ目が醒めたのかは分からない。
 でも別に眠くはなかった。すっきりと醒めた目で、闇の淀みが厚い層となって溜まった病院の天井を見
上げた。
 昔は病院は怖いところだと思っていた。
 だって人が死ぬところだから。
 げんに何度も同室になった患者の何人かが運びだされたまま戻っては来なかった。
 戻ってくるのは泣きはらした目で荷物をまとめに来る慌しく駆けつけた家族ばかりだった。
 ぼくが入院してからずっと一緒の部屋にいるのも、今はマサじいさんだけだった。
 マサじいさんとていつも蒼い顔をしているし、酷く痩せていてご飯もたくさん残していた。
 ときどき付いてくるみかんをぼくに分けてくれるくらいだった。
 ぼくたちの病気は、酷くなると血を吐く。息をするのが苦しくて、死神が隣に立って肩に手を置きそう
になるのを感じるくらいだ。
 みんなが当たり前にしている、息をするということ一つまともにできないことに、ひどく腹が立つこと
もある。
 でも病気になってしまったのだから仕方がない。
 ぼくはカーテンの向こうのマサじいさんのいびきに聞き耳を立てた。
 ゴーゴゴゴ、ゴッ………ブヒュー
 まるで隣にいのししがいるみたいだ。
 ぼくはマサじいさんの顔がいのししになっているのを思い浮かべて笑った。
 そのときだった。
 ぼくの耳に何か鐘がなるような高い涼やかな歌声が届いたのだ。
 息を殺すようにして聞き耳を立てないと、マサじいさんのいびきにかき消されてしまいそうな、でも確
かに聞こえる合唱の声だった。
 ぼくは音の方向を確かめるように上体を起した。
 音の方向は窓の外のようだった。
 山の中腹に建てられた病院に、夜中に歌を歌いに来る人などいるのだろうか?
 ぼくは大きく息を吸って吐いた。
 胸は苦しくはなかった。
 頭も冴えて清々しいくらいだった。
 そっとベットから足を下ろし裸足のまま歩き出した。
 誰もいない薄暗い廊下を歩き、階段の軋みに神経を配りながら、看護士のいる部屋の前は這って進んで
いった。
 その間も歌声は途切れることなく続いていた。
 聞きながら覚え始めた歌詞を一緒に口ずさむ。
「はるかな空を越え
 はるかな海を越えて
 夢の国へ

 あなたに会えたのなら
 あなたのために夢の国を案内しましょう
 虹の橋を渡って
 ハチミツの川を下り
 すみれ色の空に手を伸ばし
 甘くて冷たい星の飴を口に入れてあげる

 蝶の背中に乗って空を越え
 クラゲの背中をトランポリンにして飛び越えて
 さあ、夢の国に」

 病院の中庭まで出てきたぼくは、少し冷えた風に吹かれて体に両手を巻きつけた。
 月の金色の光の下で、白樺の林があった。
 そしてその下に咲き乱れる花と一緒に女の子が立っていた。
 「こ、こんばんは」
 長い黒髪が背中で波打つ人形のようにかわいらしい女の子が振り返り、ぼくに微笑みかけた。ピンクの
洋服が輝いていて、目を合わせるのが恥ずかしくなってしまう。だってぼくは薄汚れた浴衣だから。
 でも女の子は笑顔で言った。
「こんばんは。ユウくんでしょ。わたしの歌を聴きに来てくれたのね」
 鈴を鳴らしたような声で女の子は言うと、おとぎの国のお姫様のようにスカートをつまんでお辞儀をし
た。
「わたしずっとユウくんとお話できるのを楽しみにしていたの」
 ぼくは女の子の体から漂ってくる花のような甘い匂いにクラクラしたまま、女の子の顔を見続けていた。

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