「WISH」



 彼女のことを意識してみたのは、それが初めてであった。
 採り損ねたボールを振り仰ぎ、体育館のドアの向こうに消えていこうとしているボールと、そこを俯
いて歩きながら通りかかった少女。
 あっと声をかけようとした次の瞬間には、バスケットボールが彼女の頭に当る。
 飛んできたボールに気付きもしなかった彼女は、まともにボールを喰らって倒れこむ。
 堅い犬走りのコンクリートに両手をついて横倒れになった彼女に、ボールを取り損ねた張本人、椎名
雅人は慌てて走り出した。
「おい、大丈夫か?」
 転がったままの女の子の膝からは、すりむいた傷から血が滲み出していた。
 おまけに完全に意識がない。
 バスケをしていた友人たちも体育館から走り出してくると、気絶した女の子を囲んで動かない様子に
顔を青くする。
「おい、大丈夫か?」
 バカの一つ覚えのように、全員でそんな言葉だけを繰り返し、動かない女の子の肩に触れる。
 ううっと唸った女の子が顔を顰めて意識を取り戻す。
 そして無意識に痛みが走る額に手を当て、指についた血に怪訝な顔をする。
「わたし………」
 ボールをぶつけられた記憶がないのか、指先についた血にも事情が飲み込めない顔でぼんやりと見て
いる。
「俺、保健室連れてくわ」
 椎名は仲間に宣言するように告げると、呆然としている女の子を抱き上げる。
「え?」
 膝の下と肩の下に腕を通され、あっさり抱き上げられてから、女の子は怪我よりもそのことの方に反
応して椎名の顔を見上げる。
「大丈夫。俺が怪我させちゃったから、保健室連れてくから。頭打ってるみたいだから、あんま動くな
よ」
 赤い顔をしながらも、未だぼうっとした顔でかろうじて頷いてみせる女の子。
 同じクラスの女の子だということは知っていた。名前が麻倉であるということも。でもそれだけの知
り合いだった。
 友だちが誰なのか、どんな声をしているのか、どこに住んでいるのか、どこの中学出身なのか。その
全てがこの一年半の間、一度として知ることのないことだった。
 なるべく揺らさないように気をつけながら、そっと女の子を運ぶ。
 女の子をお姫さま抱っこで運ぶ椎名に、冷やかしの声がかかる。
「おい、テニスの王子さまが、そんな風に堂々と女の子保健室のベットに連れ込んでいいのか?」
「うるせぇ。本物の怪我人だ、茶化すんじゃねぇよ」
 すかさず言い返した椎名だったが、不意にクタッと胸元に顔を寄せてきた麻倉に下を向いた。
「おい、どうした?」
 青白くなった顔で、口もとを押さえる麻倉が囁く。
「は、吐きそう」
「え?」
 突然の告白に飛び上がった椎名は、目の前のトイレに飛び込む。
 洗面台で戻し始めた麻倉の背を摩り、オロオロする椎名だったが、保険医を呼ぶように通りかかった
友達に頼むと、今にも倒れこみそうな麻倉を後ろから支えてやる。
「大丈夫か? 頭ぶって吐くなんて、まずいんじゃないのか?」
 だが、すぐに首を振った麻倉は、申し訳なさそうに涙目で振り返ると、椎名に言った。
「ごめん、手、離してくれる?」
「え? あ、ごめん」
 腰の辺りを支えていた手を離すと、麻倉は個室の壁に寄りかかって、ずるずると座り込む。
 スカートの裾がトイレの汚れたタイルに着くのも気にする余裕もなさそうに。
「……本当に大丈夫なのか?」
 色のなくなった白い顔に問い掛ければ、麻倉が力なく頷く。
「怪我は対したことないと思う」
「でも吐いたし」
「これは………椎名くんが触ったから」
「触った?」
 制服のポケットからハンカチを取り出した麻倉が、口を覆いながら俯いたままに言う。
「わたし他人と触れ合えない。男の人だけじゃない。女の子とでも。……手が……怖いの」
「………」
 初めて聞くそんな告白に、椎名に返せる言葉はなかった。
 そこへ飛び込んできた保険医の梅宮に付き添われ、麻倉がトイレから出て行く。
「ごめんな」
 保険医に抱きかかえられながら歩いていく麻倉の背中に言えば、振り返ってかすかに頷いたのが見え
た。
 ほどけた三つ編みが肩に広がった姿は、椎名にはじめてかわいい女の子だったのだと意識させた場面
だった。


 麻生は昼休みの後の授業には出てこなかった。
 机の横にかかったカバンはそのままで、女子の間でも気に掛けるものがいる様子はない。
「なぁ、あいつ、もしかして怪我ひどかったのか?」
 同じく一緒にバスケをしていた友達が、麻倉の机を見ていた椎名に言う。
「いや、本人は大丈夫だって言ってけど、どうかな」
 そんな話をしている目の前を、クラスの女友達が通りかかったので呼び止める。
「ミーナ。おまえ、麻倉と知り合い?」
 男子テニス部の部長である椎名と、女子テニス部の部長ミーナこと、水無月沙織は、小学生の頃から
の、腐れ縁的存在だった。
「麻倉さん?」
 振り返って麻倉の席を見るミーナの頭で、長いポーニーテールの髪が揺れる。
「あ、そういえばさっきの時間いなかったっけ?」
「いなかったっけ? って。冷たくねぇ」
「あんたこそ、なんでいきなり麻倉さん?」
 お互いに怪訝な顔で見合う二人に、椎名の友だちが、昼休みの一件を説明する。
「ふ〜ん、それで責任感じるってとこ?」
 意地悪く見下ろしてくるミーナに、椎名がばつが悪い顔で視線をそらしつつも、素直にうなずく。
 そんな子どもそのものの反応を、デカイ弟を見るようにして苦笑したミーナは、椎名の席の前のイス
に座り込むと喋り出す。
「まあ、わたしもあの子と口きいたことないからさ。あんま対した情報は持ってないけど」
 と前置きしたミーナの弁によれば、麻倉めぐみは市内の第一中学出身で、現在もとくに仲のいい友だ
ちはいない。部活も入っていないうえ、朝も早くは来ているらしいが、席について本も読んでいるだけ
で「おはよう」の挨拶もしない。帰りは授業終了とともに消えてしまう。
「学校帰りにどっかの店で見かけるとかもないんだよね。お昼もお弁当食べてるの見たことないし」
「え? 食わないの?」
「まさか。お弁当は持ってきてるから、どっかで食べてるんでしょう。昼休みに体育館の側にいたって
ことは、その辺?」
「ふ〜ん」
 だが言いながら、抱き上げた麻倉が手には何も持っていなかったのを思い出す。
「じゃ、友だちいないんだ、あいつ」
「そ。だから、あの子に保健室までカバン届けてやろうなんて殊勝なこと思ってるのは、あんただけだ
から。ちゃんと責任もって、完遂しなさい」
 ミーナは立ち上がって椎名の頭をポンポンと叩いて立ち去っていく。
 そして椎名の方は、叩かれて乱れた髪をフンと鼻を鳴らしながら直す。
「女のおまえがやってくれてもいいのに」
 文句は言いつつも、すでに自分が届けてやらないとならないなと決めている椎名だった。


「失礼しま〜す」
 麻倉のかばんを肩に担ぎ、椎名は保健室のドアを叩いて入室する。
「おお、椎名か。何だ。部活がはじまる前から転んで怪我したか?」
「ば〜か、違げぇよ」
 なぜよりによって保健の先生が男なんだ? と、内心、ミニスカートに白衣を羽織った美人校医を期
待したかった椎名は思うのだが、なかなかこの梅宮も若い分、話が通じる兄貴的な存在で、男子、女子
ともに人気が高かった。
「これ」
 椎名は肩のカバンを示して言う。
「ああ。麻倉のか。おまえが怪我させたってんで、ちょっと責任感じちゃってますって?」
「うるせぇ」
 繊細なガラスのハートだからなねぇ、青少年たちはと、とぼけたコメントを発してくれる梅宮を押し
やり、カーテンで仕切られたベットの方へと顔を覗かせれば、すっかり熟睡している様子の麻倉が、穏
かな顔で寝ていた。
「何覗いてんだ、スケベ」
 後ろから頭をファイルで叩かれ、痛ぇとうめいた椎名がカーテンから頭を引く。
「あいつ、大丈夫なの?」
 布団の胸が上下しているのは見たので、生きていることはわかるのだが、あまりにも静かに仰向けで
眠る様子が怖くなるくらいに生きている気配がなかった。
「別に怪我はどうってことないから、心配するな。額の傷もかすり傷だし、痕が残るようなもんじゃな
いし」
「でも吐いてたよ」
 机に向って書きものをはじめた梅宮だったが、真剣な声で尋ねてくる椎名に振り向いて眉を上げてみ
せる。
「なに? 麻倉に惚れちゃった? まあ、かわいい顔はしてるけどな」
「そ、そんなんじゃねえよ!」
 思わず怒鳴った椎名に、梅宮が「ここは保健室ですが」とニヤニヤした笑いを浮べながら怒られる。
「怪我した日ぐらい、誰かに家まで一緒に帰ってもらえないかと思って女子に聞いたけど、誰もうんっ
て言わなくてさ。それで」
 確かにいつもなら授業の終わりと同時に、テニスコートに走って行って黄色いボールを追いかけてい
る男が、今日は制服のままでカバンを下げている。
「ふ〜ん。送り狼にならなきゃいいけど」
「てめぇ、人の親切心を!」
 後ろから梅宮の首にチョークスリーパーをかけたときだった。
 カーテンが音を立てて開き、少し寝乱れた髪の麻倉が顔を出す。
「麻倉さん、気分は?」
 椎名にチョークスリーパーを掛けられたままに、さわやかな笑顔で梅宮が言う。
「はい。大丈夫です」
 寝ぼけた風な声と顔つきだったが、昼見たような蒼ざめた顔ではなかった。
「たぶん、なんともないと思うけど、もし体調が悪くなったら病院に行くんだよ。誰も家にいなかった
ら、ぼくでも、このテニスの王子様にでも助けを求めてもいいからね」
 ポンと手の平で頭の上にある椎名の頭を叩いた梅宮が言う。
「はい、ありがとうございます」
 麻倉はペコリと頭を下げると、保健室を出て行こうとする。
「あ、待って」
 梅宮へのチョークスリーパーをといて、邪魔だとその体をおしやった椎名が、麻倉に声をかける。
「かばん、持って来てあるから。それに、心配だから俺、家まで送ってくから」
「え、でも。……椎名くん、部活は?」
「大丈夫、大丈夫。俺がいなくても部活のほうは副部長に頼んできたし、俺は一日ぐらい休んだって平
気な王子だから」
 いつもは嫌いな王子の呼称を自分で口にした瞬間に、後ろで梅宮に「自分で言ってるし」といわれて
恥ずかしくなったが、後ろ足で蹴りをくれてよしとする。
 麻倉のカバンを担いだまま、行くぞと声をかけて歩きだす。
「あ、うん」
 初めて見る長い髪を下ろした姿の朝倉が、梅宮に頭を下げて保健室を後にする。
「本当に無理して送ってくれなくても大丈夫だけど」
 誰かと一緒に歩くことが恥ずかしいのか、俯いたまま言う麻倉に、椎名はかばんの中に持っていた購
買で買ってきたジュースを差し出す。
「はい。出ちゃった血の分、取り戻して」
 目の前に差し出された濃厚プルーン飲料の文字に、受け取りながらクスっと笑う麻倉。
「これ、まずいって知ってる?」
「うん。だから俺は飲まない」
 そしてちゃっかり自分はアクエリアスを取り出してみせる。
「わたしもそっちのがいいな」
「だめ。血を製造できるように、麻倉はそっち」
「アクエリアスだって、体液に近いからいいんだよ」
 上目遣いながら、少しの微笑みを漂わせて言う麻倉に、う〜んと唸った椎名が、「しょうがねぇな」
と言って自分のアクエリアスを手渡す。
「あ、ありがとう」
 本当に交換してもらえると思っていなかった麻倉が、びっくりしながら椎名を見上げる。
 その視線の先で、ペットボトルの封を切った椎名が、グイっとプルーン飲料を飲み下す。
「うわ、やっぱまじい」
 その心底不味そうな顔に、麻倉が小さく笑いを漏らす。
「でも、これで俺、また背が伸びるかもしれないしな」
 毒々しい紫色のペットボトルを見つめ、椎名はそれでも不味そうに舌を出すのであった。


 学校から歩いて30分だという麻倉を送りながら、次第に周りを行く生徒の数が減っていく道を歩く。
「あ、これ」
 椎名は思い出したようにポケットに突っ込んでいたメモ紙を取り出す。
「梅宮の携帯の番号だって。あ、俺のも書いておくから」
 カバンからペンを取り出して書いた椎名は、紙を麻倉に手渡す。
 だがそんなわずかな手の動きにも、麻倉はピクリと体を震わせる。
 そんな過剰反応とも取れる反応に、目が丸くなる椎名だったが、手には触れないように麻倉の手の平
に紙を落とす。
「おまえんちって、誰かいないの?」
 手渡された紙を大事そうに財布の中にしまった麻倉が、なんでもないことのように頷く。
「お母さんは入院してて、お父さんは夜遅くまで働いてるから」
「そうなんだ。大変だな」
 とぼとぼと歩き続ける二人の間に、沈黙だけが下りていく。
「お母さん、悪いのか?」
 聞くことがなくて言った椎名に、麻倉はなんと言っていいのか分からない顔で首を傾げる。
「どうなんだろう。体の病気じゃなくて、心の病気だから」
「………」
 鬱病とかかな? そう思った椎名に、朝倉が独白のようにいう。
「わたしのせいだから。だから、わたしは全然大変とかじゃないから。お兄ちゃんの命を奪っておいて
――」
 だがそこまで言ったところでハッと我に返った麻倉が、じっと自分を見下ろしている椎名に気付いて
口をつぐむ。
「あ、家、ここだから。ありがとう」
「え? そうなのか」
 鍵を取り出して、椎名にもペコリと頭を下げた麻倉が、急いでドアを開けて家の中へと入っていく。
 椎名は、その後姿を呆然と見ていることしかできなかった。


「なんでてめぇが電話してくんだ!」
 携帯から聞こえてくる梅宮の声に顔をしかめ、椎名はそれでも眉間に皺をよせるだけで怒鳴り返すの
を抑えた。
 麻倉に渡す前に、自分の携帯に登録しといた梅宮の携帯に、椎名が電話したからだった。
「今、麻倉送ってきた」
「ご苦労だったな。そんな報告の電話か?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあって」
「……。なんだ」
 学校へと戻る道を歩きながら、椎名は言い難そうに口篭ったが、「あ? きこえねぇ」という繊細さ
の欠片もない梅宮の声に、自棄になったように言う。
「麻倉の兄貴って、何かあったの?」
 その答えの返答は、なかなか返ってこなかった。
「……麻倉が何か言ったのか?」
「っていうか、あいつのおふくろが入院してるのは自分のせいだとか言い出して」
「ふ〜ん」
 しばらくの沈黙のあと、梅宮が今から時間取れるか?という。保健室まで来いという指示に、椎名は
頷いた。


「ただいま」
 誰もいないことは分かっているけれど、なんとなく声をかける。
 もちろん返ってくる声も気配もない。ただ湿気がこもったかび臭い匂いと、陰鬱な闇が見つめ返して
くるだけだった。それもじっとりとした、無関心という視線で。
 靴を脱ぎ、部屋に入る。
 乱雑に散らばった居間にいるべき場所は見出せない。
 片付けようとしたこともあったが、そうすることを父は嫌った。
 母さんが作った家に、おまえが手を入れるなと。
 ほこりに塗れたとしても、母さんの飾った写真、枯れた花の刺さった花瓶、愛用のキッチン用品など
がひっそりと息をひそめてそこにいた。
 兄の敦と自分を、後ろから抱きしめたお母さんの写真。
 お母さんが庭で育てていたバラの花がカラカラに乾いていて、花瓶の中でうな垂れていた。
 時がカビを生やしながら、決して流れようとしない淀みにはまり込んで病んでいた。
 投げ出された洗濯物の山。
 一応お父さんが洗って乾燥機にかけたようだが、畳むまでにはいたらなかったらしい。
「お母さん」
 入院中の母が着たのだろう寝巻きを胸に抱きしめ、ソファーの上に寝転がる。
 石鹸のにおいに混じって、小さい頃に抱きしめられたときに嗅いだ、母のにおいが鼻先をくすぐる。
「ごめんね、わたしのせいだね」
 病院にいる母は、過ぎ去った過去だけを見つめ、呆然と現在のときの中を遊離して漂っているだけだ
った。
 声をかけても反応はせず、お父さんを見ても、「健二さんのお父さん」などという。お母さんの中に
ある時間は、結婚前にまでさかのぼってしまったのだ。
 おなかの中に第一子となる兄を胎内に宿していると信じている時へ。
 お母さんは壊れてしまった。
 そして家族も壊れてしまった。
 壊したのは、わたしだ。
 涙が流れた。胸の奥で毒のとなった自分への呪いに、頭の芯が痺れるように痛みを発する。
 でもこんな痛みは、お母さんの痛みに比べれば何でもない。
 髪を掴んで痛みに堪えながら、麻倉めぐみは目を閉じた。


「お兄ちゃん、この水溜りにはにゅーよくざいが入ってるね」
「ちがうよ、めぐみ。これは水溜りじゃなくて、湖。こんな山の上に自然にこんな水がたまるんだから、
自然ってすごいよな」
 歳の離れた兄は、立ち上がってめぐみを肩車すると、白樺の生えた遊歩道の上を進んでいく。
「あれ、お風呂みたいにいいにおい?」
 湖の緑色に見える水を、まだお風呂の入浴剤による着色だと信じているめぐみに、兄は声を上げてわ
らう。
「こんなに緑色にするには、いったいどのくらいの入浴剤が必要なんだろうね」
「毎朝、みずうみのおじさん、大変だね」
 兄の髪を掴みながら、心底みずうみのおじさんを心配する顔で言う。
 家族で夏休みを使って来ていた避暑地の貸し別荘のほとりにあった湖。
 高原の植物があちらこちらに咲き、大きな湖ゆえに海のように波が寄せては返す。
「お兄ちゃんも、来年には大学に行ってしまうから、家族水入らずで過ごせる夏は最後になるのかしら
ね」
 朝食の席ではお母さんが少し寂しそうに言う。
「それって、夏休みも実家に帰るなってこと?」
 心配性の母親をからかうように言う兄に、お父さんも「子離れできない困った母さんだ」などといっ
て笑っている。
 幸せな家族だった。
 でもそれは、めぐみの思いつきで打つ破られる。
 夜、鳥の羽ばたきの音に目を覚ましためぐみは、窓の外に見た湖の光景に目を輝かせた。
 湖の上にのぼった大きなが満月が、湖面でユラユラとゆれながら溶けていた。
 溶けて長い帯のように金の光を湖面に伸ばした月。
 もしかしたら、これがあのにゅーよくざいの代わりかもしれない! そうでないと、こんな大きな水
溜りを緑色に染めるなんて、湖のおじさんでも難しいもの。
 見に行こう!
 隣りに眠る母親の腕の下から抜け出し、その向こうのお父さんのことも起さないようにベットから抜
け出す。
 靴を履いたら足音がしてしまうので、裸足のまま湖のほとりまで出て行く。
 足先をぬらす水にまで、金の光が舞い散っていた。
「うわ〜、すご〜〜い。きれい!」
 こんな煌めきを髪や手に飾れたら、どんな宝石よりもきれいだなぁ。スーパーで勝ってもらえなかっ
た指輪セットより、ずっとキレイ。
 めぐみは、水の上のきらめきを掬い取ろうと手を入れた。
 だが途端に煌めきは消えてしまう。
「あれ?」
 でも顔を上げれば、もう少し向こうに光がおいでと招くように光り輝いている。
 湖の中へと延びた桟橋の向こうには、もっと溶けた月の帯が近くにあって、まぶしいくらいに光って
いる。
 走り出しためぐみは、夢中になって桟橋の向こうへと意識を飛ばした。
 そして、不意に足の下で途切れた橋に、湖の中に落ちたのだった。
 次に気付いたとき、めぐみは泣き叫んでびしょ濡れのお父さんの腕の中にいた。
 その隣りには、湖にむかって叫び声を上げるお母さん。
 お父さんの腕からお母さんの腕に抱きとられたときに、湖を見る。
 そこには、力尽きて水の中へと沈んでいく兄の姿と、その兄を助けるために大きな水音を立てて飛び
込むお父さんの姿があった。
 暗い水の中に、次第に飲み込まれて姿を消していくお兄ちゃん。
 ダメ、ダメ、行かないで。戻ってきて。
 水を飲んで苦しくて泣いていためぐみの叫びは、次には本能的に悟った兄との別離への予感に恐怖し
た叫びに変わっていた。
 両手を前に突き出したた姿勢のままに、水底へと引き釣り込まれていく兄の姿。
 最後まで見えていたのは、白い手の平だった。


「水難事故?」
 話を聞いた椎名は、コーヒーを飲む梅宮を見ながら言った。
「10歳以上離れた兄妹で、仲がよかったらしい。その兄に目の前で死なれたんだ。それも自分を助ける
ためにな」
 それで自分のせいでと言ったのかと理解できた。
「何度か保健室に気分が悪くなったと来たことがあるけどな。うなされてるんだ。本人はほんの4歳の
子どもで、母親の腕の中でどうすることもできなかったと分かっているだろうに、夢を見るたびに水の
中に沈む兄に向って手を伸ばすんだと。でも、どうしてもつかめず、水の中に沈んでいってしまう。そ
う言ってたな」
 そうやって何度も何度も、兄の死に直面しているのかと、椎名は胸のうちで湧き上がったやるせない
気持ちにため息をついた。
「それで手が怖いっていうのか。最後まで伸ばされた兄の手が目に焼きついていて」
「……そうだろうな」
 梅宮も頷く。
「俺、どうしたらいいのかな?」
 助けてやりたい。でも、なにができるのかなんて分からなかった。
 梅宮もカップの中のコーヒーを見つめながら、考え込むようにして口を開こうとはしなかった。
「何もできんだろ。俺にもおまえにも。ただ、麻倉がSOSを出したときには、助ける手を差し伸べる
くらいしか」
 でも、そうだなと呟き、梅宮が暗く沈んだ顔の椎名の肩に手を置く。
「側にいてやるってことも、できるかな」
 さっきまで晴れ渡っていた空に、暗雲が垂れ込めていた。
「嵐になるのかな?」
 窓の外を見ながら、梅宮が呟いた。


 夜空を切り裂く稲妻の光と猛る風があげる咆哮。
 自室のベットの上に寝転がっていた椎名だったが、ふと携帯を見て麻倉を思った。
 誰もいない家で一人、この嵐の中、何をしているのだろう。
 何かあったとしても、あの性格では助けを求めてくるとは思えなかった。かえって、自分をわざと不
幸へと貶めようとしているように感じられて仕方がなかった。
 兄を死へ誘った自分が、幸せであってはならないと。
 罰して傷を負う必要があるのだと、執拗に自分に言い聞かせているような。
 とりわけ大きな爆音を立てて光を放った雷に、一瞬にして電気が落ちる。
 真っ暗闇に落ちた部屋の中で、息をひそめてじっとしていると、階下の母親や姉が停電よと騒いでい
るのが聞こえる。
 立ち上がって窓の外を見れば、横殴りの雨の中で、一帯の家々の電灯が全て落ちた暗闇がそこにあっ
た。
 椎名は急きたてられたように携帯を掴むと、登録したばかりの麻倉の家の電話番号を呼び出した。
 ざわざわと胸の内で騒ぐ思いに、呼び出し音が苛立たしく響く。
 十数回の呼び出し音の後で、沈黙のうちに電話が通じる。
「麻倉? 俺、椎名。こっち停電したんだけど。そっちは?」
 何も言わない電話に向って言った瞬間、再び近くで落ちた雷が地響きを立てた。
 その響と同時に、電話の向こうの麻倉が悲鳴を上げる。しかも涙声交じりの叫びで。
 やはり、一人の暗闇の中で心細くて怖くて泣いていたのだろう。
 電話の向こうで、小さく呟き続ける声が聞こえる。
 それが聞こえた瞬間、椎名が言った。
「俺、今から行くから。おまえのこと一人にしないから」
 椎名が部屋を飛び出す。
 ちょうど部屋の前に蝋燭を灯して立っていた姉が、あんたこんな天気のときにどこ行くって言うの、
と問いかけてくる。
「友だちのところ」
 玄関から飛び出すと、痛いほどに肌を叩く雨に目も開いていられないほどだった。
 それでも、思い切ったように傘もささずに駆け出す。
―― 窓から水が溢れて
   溺れちゃう、お兄ちゃんが
   助けて、助けなくちゃ
   助けに行くから
 麻倉の声が繰り返していた。


 街灯の明かりさえない暗闇の中を、激しい雨を腕をかざしてよけながら走っていく。
 あの電話口から漏れた言葉のあとに続いて聞こえのは、風が吹き荒れる外へ出た音だった。
 こんな雨の中で、暗い妄想に捕らわれて彷徨っているのだろうか。
 居もしない兄の消えていく姿を追って、麻倉はどこへ行ってしまうのだろう?
 まさかと思い立って雨の中で足を止める。
 学校の側を流れる川がある。
 一級河川のあの川は、雨が降ると酷く増水して茶色く濁った濁流と化する。
 あんなところへ行ったりはしないだろうか?
 今度こそ溺れる兄の幻想を助けるために、彼女は自ら死へと突き進んでいったりはしないのだろうか?
 携帯を取り出し、濡れる液晶に梅宮の文字を見つけて電話をかける。
「梅宮! 麻倉が家を飛び出した。お兄ちゃんを助けるとかいいながら。もしかして、学校の側の川に
行ったんじゃないか? 俺、見に行くから。先生も来て!」
 言いたいことだけをまくし立て、椎名は何かを叫んでいる梅宮の電話を切ってしまう。
 そして川を目指して走り出した。


 窓を滝のように流れ落ちていく大量の雨を見ているうちに、胸が苦しくなってきたのを覚えていた。
 その苦しさから逃げ出そうと目を閉じる。だが、暴風雨の激しい水音が耳に入る。
 目を閉じると、かえって大量の水が逆巻く中にをもみくちゃにされて飲み込まれている気がして、息
さえうまく吸えなくなってくる。
 自分が今いるのは、あの闇色に閉ざされた湖の中なのだ。
 お兄ちゃんが眠るあの湖。
 苦しい。息苦しさで頭が爆発しそうになる。
 喉を掻き毟って空気を求める。
 つめていた息は、限界が来て喘ぐようにして吸い込まれる。
 こんなに苦しいんだ。こんなに苦しませたんだ。
 決して立ち戻れない過去を思い、現在の自分を否定し、頭を抱え込む。
 あのとき手を伸ばして、お兄ちゃんの手を取っていたら。
 脳裏に浮かび上がるのは、ほの暗い水底から伸ばされいた手が消え行こうとしている映像。
 その手に向って自分の手を伸ばす。
 助けなきゃ、今度こそ。
 お兄ちゃんが呼んでいる。
 麻倉は家を飛び出すと、走り出していた。


 目の前で、いつも見ている穏かなはずの川が、さかまく濁流となって流れていた。
 まるで逆流して大きな水の壁を這い登ろうとする何かが水の底にいるように、大きなうねりを描いた
水が跳ね上がる。
 見ているだけで飲み込まれそうな気がしてくる。
 こんなところにお兄ちゃんはいるはずがない。
 自然と涙が込み上げた。
 頭では分かっていた。時間は戻せない。
 お兄ちゃんは帰ってこない。救うことはできないのだと。
 そのとき、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「麻倉! 麻倉めぐみ!」
 声だけでそれが、椎名であることがわかった。
 でも暗闇の中で聞く声が、自分をめぐみと呼ぶ。
 お兄ちゃんも自分のことをめぐみと呼んだ。
「お兄ちゃん!」
 降りしきる雨の中で、めぐみは四歳の子どもに戻って叫んだ。
 めぐみはここでお兄ちゃんを待っている。だから迎えにきて。不安で怖くてたまらない。
 伸ばした手で、めぐみの手を握って。
 闇の中で伸ばした手がつかまれる。
「麻倉!」
 ギュッと力強く握られた手が引かれ、胸に抱きしめられる。
「こんな所で何を」
 だが言いかけた椎名の背中に回された麻倉の腕が、強く抱きしめてくるのに言葉がつまる。
「お兄ちゃん」
 そう呼ばれて椎名は返す言葉を失って、それでも麻倉の背中に回した手で力をこめて抱きしめた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたしのせいでお兄ちゃんの大切な人生を奪っちゃった。たくさんの
夢を消しちゃった」
 慟哭の声とともに吐き出された積年の思いを、椎名は黙って受け止めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 そう繰り返す麻倉に、椎名が言った。
「いいんだ。おまえが助けられただけで、無駄な人生じゃなくなったから。だから、もう謝るな」
 きっと麻倉の兄が、もし伝えられるとしたそう言うだろうと思う言葉を、そっと麻倉の耳元に囁く。
「………うん………」
 麻倉は小さな子どものように頷くと、椎名の雨に濡れたシャツを掴んだ。
「お兄ちゃん、ありがとう。助けてくれて、ありがとう」
 そう言って、不意に麻倉の膝から力が抜ける。
 ガクンと傾いた体を支え、椎名が目を閉じたままうな垂れた麻倉を抱きかかえる。
「麻倉?」
 そこへ車で現れた梅宮が、青い顔をした椎名と死んだように抱えられた麻倉の姿を見たのであった。


 目を覚ました麻倉は、病院の白い天井を見つめた。
 酷く悲しいことと、それでいて長く心を縛っていた重い鎖から解放されたような心地よさが、同時に
体の中から湧き上がる。
 窓の外からは、明るい朝日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。
 わたしはどうしてここに。
 そう思ってベットサイドを見た朝倉は、そこに椎名の姿を見つけて息が止まるほどに驚いた。
 イスに座ったまま、疲れて寝てしまったのだろう。
 頭だけは自分の眠る布団に横たえて、平和な寝息を立てている。
 そして気付けば、その椎名と自分の右手がつながれている。
「え?」
 長いこと握られていたのか、しっくりと違和感なく一体になった手を自分でも不思議な思いでみつめ
る。
「気がついた?」
 そこに掛けられたもう一つの声に、顔を上げた椎名は、校医の梅宮の姿に再びびっくりと目を見開く。
「先生」
「昨日のことは覚えてる?」
 尋ねられ、麻倉は数瞬考えをめぐらせ、首を横に振った。
「そっか。まだ疲れてるのかもしれないね。でも、きっともう麻倉は呪縛から解かれたんだよ」
「呪縛?」
 問いかける麻倉に、梅宮がつないだ手を指さす。
「椎名と触れ合ってる。昨日は吐いていたはずの椎名とね」
 言われれば、他人との肌の触れ合いが恐怖であったはずが、胸の奥から湧き上がる恐怖も嫌悪もない。
かえって安心感と暖かさが湧き上がる。
「王子のキスならぬ、抱擁が、姫の呪いを解いたみたいだね」
 梅宮が眠ったままの椎名の顔を覗き込む。
「眠れる森の王子か?」
 その顔を一緒に見つめた麻倉が微笑む。
「うん。眠れる森の王子さま」
 麻倉が愛しそうにその頬に手を当てる。
 そして囁く。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 
 胸の中に宿った湖のほとりに、はじめて朝日が差し込んでいた。





 読了報告

名前:

感想

ヒトコト感想

top
inserted by FC2 system