「桜の木の下で想う」

<前編>
 高い熱で体が重い。地球の真ん中に吸い込まれている途中なのではないかと思うくらいだ。  窓の外には残暑に熟れた高い空が、真っ白な雲を浮かべて楽しそうだというのに、ぼくは一体全体、 どうして布団の中でうなっていなければならないんだ。 「総ちゃん。まだ熱高いみたい?」  部屋に入ってきた母が、額にタオルと氷嚢を乗せた総次郎に声をかける。  だが首一つ動かすのが億劫でうめき声で返事をする。 「ヴヴヴヴ」 「そう。まだ辛いのね」  さすが親子、以心伝心だ。  もう小学校も高学年の5年生だが、こんな時は甘えん坊の子どもになる。  ママ、辛いから側にいて。オデコのタオル交換して。おかゆ食べさせて。  だが無情な伝言が頭上から降る。 「あのね、ママ、今日お友達とお食事会に行くの。総のために断ろうかなって思ったけど、パパが早く 帰ってくれるっていうから。ね、ごめんね」  額のタオルを取上げてひっくり返しながら、ごめんねと言いながらもヤケにウキウキした顔で笑って いる。しかも微妙に化粧も濃い。いつもはしないイヤリングまでしていやがる。 「ヴヴヴヴ」 「大丈夫よ。あと一時間もすればパパ帰ってくるから。いつまでもママに甘えた男の子じゃもてないぞ !」  ツンと頬をつついた母親が、息子の抗議の声に背を向け、「じゃーねー」と声をかけて部屋を出て行 く。  なんて親だ! あれは絶対浮気だ!  なんでパパもママの浮気を黙って許してるんだ!!  動かせない体の代わりに、内心で憎しみを込めた文句を叫ぶ。  そんなことを思いながらも、あのママがパパ以外を好きになるなんてありえないんだと分かっている からこその雑言だった。  ことあるごとに、息子の前であろうとキスを交わし、お出かけ先でも息子は放置で二人でラブラブと 手を繋いで歩くような二人なのだ。  普通にみたら子どもがいるような夫婦には見えないらしく、後からショッピングの途中で「ママ、こ れ買って」と声をかけた瞬間に「え? こんな大きなお子さんがいらっしゃるの? 見えないわ〜」な んてはっきりと口に出すおばさんもいるくらいだ。  ま、息子としては仲がいい両親というのは、ありがたくも迷惑であったりもするのだった。  が、やっぱりパパはママに甘い。 「あ〜あ」  ため息が出る。  誰もいないよりはパパでもいてくれたほうが心強いけど、やっぱりママの方がよかったな。  眠った自分の手を握っていてくれる姿をパパバージョン、ママバージョンと比べ、やっぱりママだと 思う総次郎だった。  小学生の頃につけていた日記を見つけた総次郎は、その内容に赤面しそうになって慌てて辺りを見回 した。  自分の部屋の中ではあったが、今はドアが開け放たれ、母親やおばさんなどがワタワタと騒々しい 足音を立てて歩き回っていた。 「ちょっと、総ちゃん昔の思い出なんかに浸ってないで、さっさと準備して頂戴! お引越しは明日な んだから!」 「おふくろの段取りが悪いんだろ。いきなりあさってお引越しよって言われた俺の身になれよ」 「何言ってるの! わたしのこの決断のおかげで、すてきな快適ライフが送れるスウィートホームに住 めるのよ。総ちゃんだってこんな六畳のお部屋よりも十畳もあるフローリングのお部屋のほうがいいで しょう!」  真っ赤なエプロンに、これまた赤いチェックのバンダナ。そして顔のほとんどを覆った真っ白いマス クという出で立ちで腰に手を当てた母親が、ドーーーンという効果音でもでそうな堂々たる態度で人差 し指を総次郎に突きつける。 「あ、まぁ」  いつからか、父親譲りの穏かな性格ゆえか、全く母親に逆らえない息子に仕立て上げられた総次郎が 反論できずに頷く。 「だったら文句は言わない! 行動あるのみ!」  言うが早いか、母親は「パパ下着」などと書いたダンボールをムンズと抱えあげて階段を下りていく。 「腰、気をつけろよ! 重いのは俺が運ぶから」 「うん、総ちゃん、ありがとう!」  中途半端な高校二年の秋、俺はどうやら引っ越すことになったようだ。  ちょうどそのとき、玄関の呼び鈴が鳴る。 「ハーーーイ」  余所行きのさっきまで文句を言っていた声とは明らかに違う高い声で、母親が玄関に向って階段を下 りていく。  しばらくして玄関から聞こえてきたのは、なじみのおっとりした女の子の喋り声だった。 「引っ越しちゃうって本当ですか?」  随分と本人にしては焦って喋っているつもりなのだろうが、いっこうにそうは聞こえず、一言一言を 噛みしめるように喋っている。 「そうなのよ、絵美ちゃん。やっとこのボロ屋ともお別れなの。いい物件があってね。でも、そうね。 引越しするのに唯一の心残りが絵美ちゃんと離れちゃうことだわ〜」  階段を下りながら母親の喋りを聞き、おそらく展開されている状況を思い描いて苦笑を浮かべる。  そして階段の梁から顔を覗かせ、脳裏の映像と同じ光景がそこにあることに、やっぱり苦笑しか浮ば なかった。  幼馴染みでお隣りさんの一つ年下の女の子、小林絵美が、母に抱き潰されてアップアップと両手を泳 がせていた。 「おふくろ、絵美が窒息しかかってるけど」  総次郎の声に腕を緩めた母親が、窒息で赤くなった顔の絵美を見下ろし、「あら、わたしの巨乳を考 慮にいれてなかったわ」などとうそぶいている。 「……総ちゃん……」  やっと空気が脳みそに行き届いたらしい顔で階段途中の総次郎を見上げると、絵美が涙でうるんだ目 で見上げてくる。  うっ、そんな目で俺を見るな。  内心でそう呟きながら、そんな気持ちなどつゆにもみせず、階段を下りて玄関の靴に足を入れる。 「おふくろ、ちょっと散歩行ってくる」 「ええーー!」  抗議の声を上げた母親だったが、玄関から出て行こうとしている息子の手が、ちゃっかり絵美の腕を 握っているのをみつけると、仕方ないように口を閉ざした。 「お昼までにはかえってきなさい。絵美ちゃんの分もつくっておくから」 「へいへい」  おざなりに返事を返し、総次郎は絵美を引き連れ外へと出て行ったのであった。
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